ピアニスト・タカの脱線CD評

FLAT122キーボードとして活躍・ピアニスト・タカ音楽評

今これを書く理由 / Beatles「Let It Be」

小6、その時の僕の衝撃とは、、?

東日本大震災でやられてしまった郷里・岩手県鵜住居地区。そこが実家の在るところです。鵜住居地区から小さな峠を超えると小さな漁師町に入ります。両石町に入って左側の坂を上がった付根付近。そこが母方の実家が在ったところです。母の妹、つまり僕にとって叔母さん二人が暮らしていた旧家です。この家は津波で流されて、現在、その場所はかさ上工事で埋められ見る影もありません。
僕にとってこの叔母さん二人の存在は意外なほど大きい。
津波で亡くなったK叔母さんは、その人間的インパクトにおいて。そして仮設で暮らして来た末っ子のT叔母さんは、ビートルズを教えてくれた恩人です。また物心付いた頃からよく遊んでくれた大切な存在でした。今でもよく憶えておりますが、本アルバムは(当時、釜石のような地方都市では)予約しておかないと手に入らなかったそうです。自慢気にこの二つ折りジャケットを開いて「ほら、こんな風に録音するんだって!」と教えてくれました。当時、小学校六年生です。バンドという概念がなく、よく分からなかったけれど、随分と線(シールド)がゴチャゴチャとして凄いことになっているなぁ、、と感心したものです。こうして作業したものがこの皿になっている、、ということが俄には信じ難いと言った感じでしょうか。
そして、まず聴き初めて素直に思ったのが、ロックという割には元気がないな、、ということです。しかし、そのうちに「Get Back」に突入すると「うぅ、、何てハードで過激な音楽なの!?」と衝撃を受けたわけです。当時、クラシック音楽や映画音楽しか知らなかった僕には、この程度のロックでも大変なサウンドだったわけです(笑)
それにしても、このアルバムは散漫なところがあり、そして独特な虚脱感があります。何度も聴いて行くとそれが逆に安心してしまう、というのかハマってしまうところがあり、このアルバムの不思議なところでもあります。おそらく、この全体的なイメージは流石のビートルズを持ってしても計算したところではないでしょう。しかし後年、このアルバムと表裏一体となるアップルレコード屋上でやらかした例のライブを映画(まだ見ておられない方は是非!)で見ましたが、皮肉なことにバンドとしてのビートルズの魅力が理解出来ます。ビートルズは中期の傑作と言われる「Rubber Soul」を分岐点としてライブ活動を停止しました。しかし、この屋上ライブは彼らの演奏がまだ生きていた!ということが分かります。
ビートルズは間違いなく演奏するバンドであり、そのリズムセンスとこのバンド唯一無二とも言える推進力を感じさせるものです。この屋上ライブほど僕にとってバンド本来の魅力を感じさせるものはありません。ロンドンのどこか荒涼とした空間の中に在る四人の合奏は、あれだけマイナス要素ばかりの状況であっても、ギターを持って声を出すと、しっかりと音楽を行える力が在りました。そこからは、言葉での表現はとても難しい、ある種音楽の根源を考えさせられます。四人の表情、所作には様々な心情が溢れており、それは実に人間的なもの。何とかしようと試みる気持ち、投げやりなところ、諦め、憐憫、そういうところが交錯している。尚、オリジナルアルバムとアップル本社屋上ライブとの最たる違いは「Don't Let Me Down」の有無である。この作品は制作過程で外されており、ライブでは演奏しているものの本作からは外されている。しかし、シングルリリースされた「Get Back」のB面に入れられていることで知られることとなった。個人的に好きな曲なので、この作品の力具合を考えると、他のどれかを外してこちらを入れたら良かったのに、、!と思います。
例えば(問題発言を承知で言えば)「One After 909」辺りと入れ替えると本作全体の作品力が上がったかも知れない。しかし「Get Back」のB面に同じようなロックンロール的な作品を持って来るのは如何なものだろうか?とも思う。リリースの難しいところか。フィル・スペクターが手を入れたアレンジ面に関しては僕個人は、それほど否定的ではないです。これはこれで良いところがあり、聴き手としてはあまり気難しく考える必要はないのかな、と思います。ただ、ビートルズ解散のキッカケとも言われている「The Long And Winding Road」などを聴くとポールの歌に精彩がなく、彼の考え方とは全く異なるアレンジを施されてしまった、そのやるせない気持ち伝わって来るようです。本来的には、このアルバムはビートルズ単独でアプローチすることで、アレンジ過多とも言える後期作品(そこがまた凄いわけですが)に対するバンドとして原理主義的な1枚を出しておきたかったということになるわけです。がしかし、それは中途半端ではありながら成功していると思います。やはりこのアルバムは後期作品ではありながら、その色合いが他作品とは全く異なっています。得意の「飛び道具」や「こけ脅し」は一切なく、そういう飾りは取払ってビートルズの中心線、バンドとして勝負したかった。それでいて初期作品とは違うものを提示したいという強いコンセプトが在ったのだと思います。フィル・スペクターのアレンジでフォーカスがぼやけたとは言え、そういったバンド「ビートルズ」は誰もが感じるところだと思います。

ビートルズを初めて聴いたステレオは別ページで紹介しているピンクグロイド「狂気」を"体験"したステレオと同じもの。このビクターのステレオの中心下部にはLPを入れるスペースが在ったが(当時ステレオは大体このレイアウトを採用していたと思う。)そこには、ビートルズ以外に、姉のK叔母さんの愛聴していたヴァン・クライバーン/チャイコフスキー・ピアノ協奏曲、プレスリー/ハワイライブ等が入っていたのを憶えている。今も、耳元でT叔母さんの声が聴こえるようです。
「こんな風に録音するんだって!」
僕にビートルズを教えてくれて、本当にありがとう。

"異端児" テリー・ライリーをご存知?

ミニマルミュージックの第一人者ではあるが、、。

"ではあるが、、。"と書いたのは、テリー・ライリーが他のミニマルミュージック作曲家の中にあって少し離れた所に佇んでいるイメージが(自分だけかも知れませんが)在るからです。活動の幅の広さ、また即興性を重視しているところ、ロックアーティストと距離が近いという、その辺りからの実に個人的な印象と思われます。
テリー・ライリーはアメリカの作曲家、演奏家となります。分野としては先にも述べましたミニマルミュージックということになります。ミニマルミュージックはミニマルと短く使われることもありますので、ここでは短い呼称でまいりたいと思います。ミニマルは小さなフレーズの反復で進行する特長を持ち、一応現代音楽から派生したジャンルと捉えられております。「一応」と枕詞を付けたのはミニマルを現代音楽として認めないという場合も少なからずあるからです。

僕個人は別段、そういうことは気にしないし、ミニマルがクラシックから現代音楽という一連の流れに、反作用として出現した音楽であるからこそ、堂々と現代音と名乗って良いのになぁ、、と思ったりもします。
ミニマルは昔、フィリップ・グラスをFMで流した坂本龍一さんのお陰で知ることが出来ました。今もってフィリップ・グラスの刷り込みは深く、アルバム「グラスワークス」を聴くと安心と納得が入り交じった不思議な気持ちになります。

テリー・ライリーは、このフィリップ・グラスと、知名度においては最も高いかも知れませんがスティーブ・ライヒと並んでミニマルを代表する作曲家ということになっております。おそらくはテリー・ライリーから作品選択するのであれば「IN C」辺りと思われますが、それでは本ブログがベタ過ぎて面白くない方向に行きそうでもあり、ここは天の邪鬼健在?を表明するためにも、このレクイエムを選ばせていただきました。
実は、先頃、某サイトWEB記事のライティングでボツになった駄文がテリー・ライリーの紹介というものでした。NGの理由は「宣伝にも何もなっていない失格文」ということでありました。宣伝というのはマイナス要因や、個人的見解、感想をこれ見よがしに書くと(そのつもりは無くても)"門前払い"ということになります。こうして、せっかく「あーでもない、こーでもない」と苦労した時間を失ってしまうわけです。宣伝文と「評」は全く違う世界です。しかし、その仕切り線はボンヤリして分かり難い面があるということも事実です。ということで、この自分だけの自由な世界「脱線CD評」に、テリー・ライリー評を書き直ししよう!というのが本編の主旨でございます。宣伝にならないから良いのだ〜っ!(バカボンのパパ調で。)と得意の開き直りです。さて、本作はこの異色のミニマル作曲家が、作品の提供で行動を共にして来た「クロノスSQ」のメンバー、その息子さんが急逝したことへのレクイエムとなっております。
音楽内容として、これがミニマルか否か、、それは意味を成さないでしょう。
そこには、とても深い表現、純粋な音があるだけです。
音楽としては、どちらかと言えば分かりやすいものだと思います。また、これが弦楽四重奏の音楽であること対して、素直に驚きを禁じ得ません。
僕にとって弦楽四重奏は、良くも悪くも実にクラシックを体現するものであり、それは敬愛するバルトークであっても例外ではありません。つまり、お恥ずかしい話、この弦楽四重奏という形体は実に敷居が高いというのか、その幅が広く飛び越えるのに億劫であるというのが正直な気持ちなのです。
よく知られたことではありますが、この4つの弦楽器はオーケストラの最も最小単位と考えられるわけで、小説で言うなら、彼のステーィヴン・キングが宣っていたように「短編ほど難しいものはない」と。
この言葉に類似にたところがり、骨組みだけで成立しているような弦楽四重奏は、作曲家の馬脚がうっかりすると出てしまい兼ねない厳しいアプローチであることは確かです。
ところが、本作はそれが全く感じられない。深淵で精神性を感じるのは勿論ですが、あまり深刻ではない。弦楽四重奏にレクイエムとタイトルを付けた、、と言うよりはレクイエムというある意味特殊なクラシック音楽の一形態に弦楽四重奏を持って来たところにテリー・ライリーの才気を感じさせるところですが、何しろこの音を聴いていただきたいと思います。個人の受止め方に大きな差異が出てしまう現代音楽ですが、素直に受止めれば心が揺り動かされるところがあると思います。
僕の弦楽四重奏という頑なイメージを、あっさりと打ち砕いてくれた作品です。
音楽とは関係ありませんが(否!!あるのかな、、、?)この紅葉を使ったジャケットがとても素敵です。聴いた音楽から来るイメージとどこか繋がっている感じと言えば良いのか。現代音楽の誤解を解く名作は実は多く存在しますが、本作品もこの仲間入りでしょう。是非、お試しあれ。オススメします♬

PUPA/良薬なのに口に苦くない!

気軽に聴けて飽きの来ない良質J-POP

手垢が思いっきりくっ付いたような、いまひとつな小見出しだが、1Lで形容すればこんなところだろうか。会社の同僚Mさんは、いつも僕にCDを強制的に?貸してくれる音楽ファンだが、彼が貸してくれたCDの中では間違いなく上位に入るのが本作。
高橋幸宏率いるバンドだが、どうしてか高橋幸宏のヴォーカルは聴こえて来ない。参加メンバー達が入れ替わりでヴォーカルを担当しており、それがリピートして音に触れる最たる理由となっている。Amazonのコメントに「弱過ぎる。だから一線超えられない連中なのだ」と勇ましいことを書いていた方が居られたが、やれやれ、、聴き手というのは本当に裾野が広い。たとえその音楽が弱過ぎたものであっても、それは個性のひとつであり、更に強弱を物差しにするのはあまりに短絡的ということになる。弱く見えてえらくしぶとい優男だっているのだ。まあ好き嫌いということだから仕方ないけれど。
この中には、やらたと超速で弾き倒したり、やたらとデカイ音をぶちかましたりというアーティストは見当たらない。僕のピアノトリオとはヒジョウに遠いところに在るバンドです(笑)。高橋幸宏さんがそういう意味では最も硬派かもしれないですが。僕がこのユニットを気に入っているのは、そのパロディ的な部分です。例えば、前作となります「floating pupa」で顕著ですが、バート・バカラックビートルズ、またフランシス・レイからエンニォ・モリコーネまでの映画音楽から上手にいただいているセンスが感じ取れます。その取り入れ方に彼らのバックボーンを感じるところであります。また、高橋幸宏さんのドラムは、例のYMO時代の「リズムマシンをドラムでやってます!」というリズム、フレーズではないところがポイントです。ロック、ポップス基調の中に微かながらフュージョン的な要素もあるところ、その匙加減が流石というところです。おそらく、ドラマーとしての自分に重きを置きたかったのかも知れません。この人のヴォーカルはとてもカッコいいのですが、灰汁もまた強いですよね。昔一時、音楽とファッションでイメージを象った「ジャパン」のセンス(個人的にはベースのミック・カーンが好きでしたが。)から影響を受けたのでは?(逆かもしれない)と思います。このヴォーカルが入ると音楽のかなりの部分でその色合いが決まってしまう。音楽ファンによっては「ちょっと飽きちゃった!」と言われ兼ねない。(ジャパン:ジャパンとは言うものの英国のバンドです。デビッドシルヴィアンを中心とした、退廃的な世界をロックで表現するところがカッコ良かったが人気絶頂で突然解散。)その「えー!!またそれやるの?」を回避したかったのでしょう。バンドとしての新味を暑苦しくない飄々としたイメージで押出したかったと。
それは、上手く行っていると思います。2枚のアルバムをリリースしておりますが、2枚手元に置いても良いかも知れません。微妙に違っており、その微妙な具合は少し興味深い差異でもあると。本作をセレクトしたのは、より音楽が有機質で温かな風合いがあったからです。これは前作にはなかった部分、もしくはその質量が少なかった。電気的でサウンドとしては凝ったものだったが、若干やり過ぎのところがあり、それが全体的に散漫な印象を受ける場合もあった(聴くこちらの体調や、気分によって。)そこが随分改善され、作品の押し出しが強くなったと思います。個人的な受取方ですが、僕は本作の方により美メロが散見されていると感じます。パッと聴きでは確かに弱々しく、頼りな気に歌う男性ボーカルですが、その旋律と歌い方には必然性があり、共感を持ちつつ音に触れることが出来ます。
PUPAは確かにマニアックな歌モノバンドでしょう。しかし、素直に接すれば気持ちよく心に入って来る刺さらない音楽です。「良薬なのに口に苦くない」と言うわけです。耳に刺さらない、聴きやすい音楽、それでいて力があるということ。音楽造りにおいてそれが一番難しい。しかし、そういう音楽が繰返して聴かれるわけです。

もの凄いソロがあるわけじゃない。驚くべきヴォーカルが居るわけでもない。しかし、センスの重なりと工夫、知的な遊び心でこうした優れた作品を完成させるところがポイントでしょう。キッカケはTVで偶然みたライブでした。そして、同僚MさんがCDを貸してくれたと。異動となり顔を合わせる事がなくなりましたが、僕のiPodでは今もPUPAが鳴っております。時々聴きたくなる、癒されて、温かくなって、少し別な町へとワープする。なかなか効能の多い音楽ではあります。

これを個性と言う/ゲルニカ・改造への躍動(拡大版)

戸川純というなら、、僕の場合「玉姫様」よりはこちら?

最近、喉に小骨が刺さったように(この表現をネットで調べようとすると恐い病気の話ばかりとなる、、笑)忘れられたバンドとその展開された世界。それが一体何だったのか?
遅い夕食(肉じゃが+ツミレ汁)をとりながら、このCD評に肝心なバンドが漏れていることにふと思い当たりました。その昔、戸川純は「ヤプーズ」というバンドをやっておりましたが、当時僕はのこのバンドの「玉姫様」ってアルバムを持っておりました。しかし、彼女のヴォーカルを楽しく聴くなら「ゲルニカ」ということになると思います。〈怒られないうちに書いておきますが、「ヤプーズ計画」は間違いなく名盤でありましょう。〉ゲルニカ戸川純と作曲・キーボード担当の上野耕路、プラスして歌詞・アートワークを担当していた太田螢一を加えた三人のユニットということになります。戸川純の個性で成り立っているところは確かにありますが、しかし、このユニットの最たる特長はその音楽内容そのものにあります。交響曲管弦楽、協奏曲といったクラシック音楽の特徴的な要素を数分の小さな尺に大袈裟な手法でぶち込むと。シンセのこれでもか!という程の「オーバーダビング」、裏方ながら"絶対的な存在感"際立つリズムボックスの組合せがサウンドの要です。おそらくは「Dr.リズム」辺りではないかと思われます。
「TR606」や、まして「TR808」ではこのようなチープ具合にはならない。リズムマシンはドラムに特化した自動演奏装置の事。作成者が任意にプログラムすることが出来る。Dr.リズムはRoland傘下のBOSSがリリースしたコンパクトなリズムマシン。長年、改良を続けて新しいモデルを送り出すが、ゲルニカが使ったのは勿論初期モデル、かなりの力技を使わないとこの音楽の成立は難しい。TR606・808はローランドがリリースしたリズムマシン、共に多方面で使われ特ににTR808は愛称を「ヤオヤ」と付けられアメリカのソウルシーン等でも活躍した。

それにしても、プロコフィエフからストラヴィンスキー、はたまたヨハン・ショトラウスまで登場するパロディとパロディのぶつかり合いで、凄い密度感のシンセサウンドに呆れる。しかし、それも電子的でもなく、MIDI的でもなく、どこか微笑ましい電気音楽なのである。しかし、こうしたクラシック調音楽全開(全て上野耕路が作曲したオリジナルとなる。)の上で、オペラ調で歌う戸川純のぶっ飛び具合がまた素晴らしい。これを憶えて歌うだけでも大変だったに違いない。これを聴いたのは随分昔になる。当時、ジャズスクールに一緒に通っていたN君と江古田の貸レコード店(死語)で借りたのがコレ。二人でゲラゲラ笑いながら聴いたのを憶えている。彼が聴いて欲しかった曲は「動力の姫」だが、実はなかなかの旋律を持つ「カフェ・ド・サヰコ」「曙」楽しさ満載の「潜水艦」、本当に登山しているような気分になる「夢の山嶽地帯」等、魅力は尽きない。また本作は初期のアルバム収録の作品が網羅されており、音質も2016年のリマスタリングにより質感が圧倒的に向上している。僕としては、あのチープだったガサガサした音こそゲルニカだと思うところがあるので、胸中は複雑なのでありますが。しかし、ゲルニカ初心者?(是非、頑張って聴いていただきたいです。)にはこちらのキレイな音の方がより入り込みやすく作品の機微が分かって楽しい気分になれるでしょう。この限界を突き抜けたような個性に入り込めるかどうか、それは聴き手の踏絵のようでもあり、音楽IQ(数値が高いから良いとは限らない)のメータとも言えるかも知れません。まあ、これを嫌いだ!と言っても全く問題ないと思います。「こんなの受け入れられない」ということもまた感動のひとつ。数多の音楽がこの世に在れど、ゲルニカほど白黒ハッキリ付けやすい音楽もそうないだろうと思います。余談になりますが、ゲルニカのライブは一度見た(聴いた)ことがあります。神保町の教育会館というところでしたが、確かチェロとピアノを中心としたシンプルな編成ながら、しっかりゲルニカを再現しておりました。戸川純上野耕路のMC、マニアな音楽と共に今でも印象に残っています。こうした音楽を生み出した背景にはやはり、¥(エン)レーベルを主宰した細野晴臣の存在が大きいでしょう。僕は国産音楽に限って言えば、この辺の時代が一番楽しかった。また違った形で自分の想像を超える音楽の波が来ることを願っております。更に脱線しますと、戸川純が影響を受けたアーティストとしては「Phew」ということになるそうです。なるほど、少し上ずった感じの音程の取り方等に影響が見受けられます。しかし、戸川純Phewほどには音痴にはなれない。そこに決定的な違いがあります。でも、音痴になれないから駄目!!、というのでは可哀想ですよね(笑)このレーベルで他に聴いていたのは「インテリア」や「立花ハジメ」です。今も現行型の音楽として十分に応えてくれます。否、、それどころかこちらの方がずっと面白いかも知れない。こちらも機会があったら是非♬

摩天楼サウンド/マイケル・ブレッカー+クラウス・オーガーマン

こう言う音楽って売れないのだろうけれど、、。

悔しいなぁ、と思うのです。結婚前にレコードで聴いているからおそらく28年くらい前に耳にしていると思う。
今聴いても、全く古い感じがしない。
むしろ新鮮に思うくらいだ。大体、こういったアプローチのアルバムリリースは例え欧米であっても希なケースではないかと思う。当時これだけの売れっ子を集めて収録するのも緻密なスケジュール管理が必要だったに違いない。それにしても、この表現力はどうだろう?頭が地にくっ付きそうなくらいにショックを受ける。マイケル・ブレッカーのテナーサックスはそれは美しく、この夜のニューヨーク(でしょうか?)、その摩天楼のパノラマを音にし尽くしている。これだけイメージが的確に表現された例を僕はあまり知らない。まるで、自分がヘリコプターにでも乗せられて上空からニューヨークの夜景を眺めているようだ。この「音楽の表現するイメージ」ということで、思い浮かんだのは「現代音楽の寵児」と言われるリゲティのピアノエチュードから「」だろうか。本作と共にイメージ表現の素晴らしさを教えてくれた例として記憶に留めておきたい。タイトルにはマイケル・ブレッカーとクラウス・オーガーマンと在るが、これは実質クラウス・オーガーマンのアルバムではないだろうか。しかし、クラウス・オーガーマン一人の名前ではセールスにならないからフューチャーしたサックスのマイケル・ブレッカーと併記したのではないかと、捻くれている僕は勘ぐってしまう。(このサックスがなければ成立しないこともまた事実なのだけれど。)
それにしても、このオーケストレーションの妙、美しさは筆舌に尽くし難い。

クラウス・オーガーマンを知ったのは、確かNHK/FMで松任谷正隆さんが紹介してくれたからです。彼がそのオケの高域の音と音をぶつけながらも隠し味として鳴らし、アヴォイドしていることを逆手にとって美しいサウンド表現としていることを、説明してくれました。僕はそれからすぐにこのアルバムを買いましたが、その技術的なことよりも、全体のサウンドから受ける世界観の凄さ、眼前に広がる景色に圧倒されてしまいました。
音楽がこれだけの力を持てることに圧倒されましたが、しかし同時に、その頂に辿り着くまでに、一体どれだけの勉強・研究と実践が必要なのだろう?と愕然とするところもありました。
このページを書くにあたって久方ぶりに、本アルバムを聴きましたが、その感動具合には変化はないのですが、更にリードの旋律がとても良いことに気付かされます。この美しいラインを演奏させるにはマイケル・ブレッカーというのは必然だったのでしょう。今は亡き天才(「天才」という言葉は好みませんが、敢えて)サックス奏者を偲びつつ聴くには最適なアルバムであります。また、このオケを支える他の演奏家達もまた実に良いアプローチをしております。ドラムもこの音楽内容からスティーブ・ガッドでないとハマらないですね(笑)まだ若手であったであろうマーカス・ミラーのクレジットも見えます。
そして無視出来ないのが、このレコーディング技術です。オケと対峙するドラム、サックス、エレクトリックベース(時折ピアノの刻み等も入りますが)、実は多くの技術が結集してこの立体感溢れる音楽を記録しているわけです。繊細極まりないオーガーマンの弦アレンジとサックスとのバランス。そこには、完璧な収録からミックス・トラックダウン作業を垣間みることが出来ます。勿論、マスタリング技術も然りです。

当時の米・楽壇の勢いを感じさせる優れた作品という見方も出来るでしょう。本当はこういう音楽が売れて欲しいのだけれど、、、。無理か。。ジャケットのデザインも音楽内容をよく表しており、とても好感が持てます。

吉田美奈子/長く身近にある「声」

ヴォーカルアルバムでは珍しいイメージの押し出し

「ヴォーカリストで誰かイイ人いない?」と聞かれたら迷わず吉田美奈子が反射的に出て来る。音大時代、クラシック音楽をやっていくことに反発していた頃に聴いたのが最初。陽のあたらない四畳半にアップライトピアノを押し込んで、小さなテーブルひとつしかないような部屋で、このアルバムに接しておりました。当時の僕にとってこれは別世界に連れて行ってくれる温かな光のようなものでした。
さて本題に入って行きましょうか。
作品力や演奏に関係するアーティスト達もまた素晴らしいけれど、何と言っても吉田美奈子の場合は「声」が中心線に在る。高域の透明感、低域の官能的な具合は一度ハマってしまうとなかなか抜け出すのが難しい。どこまでも延びて行くような錯覚を憶えるような人間離れしたヴォイスはライブで聴くともう少し暖かみを感じさせるものだった。大貫妙子も偶然同じ中野サンプラザで聴いたことがあるけれど、やはりCDのイメージよりもっと太い感じ、MCで初めて聞く声(口調)ももっとドスの利いた(笑)押し出しの強いものだった。生で聴くと印象が変るところがあり興味深い。本作はスタジオ録音では5作目ということになるらしい。前作とは方向性をガラリと変えている。バックに配されているのはジャズ・フュージョン分野の誰でも知っているアーティスト達であり、特にリズム隊の村上秀一高水健司が良いアプローチをしている印象があります。本アルバムは最初聴いた時から、その音質に違和感がありました。響きがデッドでまるでどこか学校の教室でテレコで録ったようなイメージ。平たく言うとエコー感がないというのか。

それは後々調べて分かりましたが、これは一発録音なのです。しかも驚きなのがヴォーカルも同時に収録されているらしい。
なるほど、一発で録る場合(つまり時間を置いてオーバーダビングを行わない。スタジオライブ状態である、ということ。)の他楽器の被りを排して臨場感を前面に出そうとすれば、このようになるか!というところです。これは演奏が頑張らないと形にならないのだけれど、そこはそれ手練ミュージシャンの集合体ですから逆手にとって、とても魅力的な音楽に仕上がっております。演奏の息づかいが届くような、素晴らしい録音アイデアですが、こういったスタジオ作業は吉田美奈子の音楽性にとっては重大な影響があるはずです。他のアルバムと比較するとよく分かりますが、個人的には本作が彼女のアルバム中、最もその根っこのオリジナルに寄り添った制作だったのでは?と思います。彼女はピアノで曲を作る時点で全体イメージが固まっており、先のアレンジやスタジオ作業においてその一人の世界を変えられたくない!という気持ちが強いのではないかと推測されます。そういったことから本アルバムは、妥協点を限りなく削りとった吉田美奈子の歌と作品が、とても身近に感じられるものです。
荒井由美も、大貫妙子浅川マキも最初に聴いた時、その違和感は絶大でありました。そしてまたこの吉田美奈子の違和感もまた負けておりませんでしが、自分が長く聴くことになるヴォーカルの声というのは仕切り線がとても高く、そのユートピアは乗り越えた先にあるわけです。僕はどちらかというゴスペルやソウルに傾いていった時代より、その前のジャンルのハッキリしない、本作が好きです。ここに吉田美奈子の起点、中心が在るという気がします。きっと、それは僕の勝手な「そうであって欲しい」という願望が書かせているのかも知れませんけれど。最後にこのアルバムで特に好きな作品は、何と言ってもタイトルの「トワイライト・ゾーン」、そして「恋は流れ星」です。余談ながら「恋の流れ星」のドラム・村上秀一さんの演奏は、雰囲気がとても良く、ポンタの良いところがこうした歌のバックであっても分かりやすい形で表出しております。本アルバムは演奏も楽しめますので、楽器をやられている方も是非!