ピアニスト・タカの脱線CD評

FLAT122キーボードとして活躍・ピアニスト・タカ音楽評

MSB・two/これを本当のフュージョンと言う!

佐藤允彦のアルバムと言った方が早いか?

空気を入れ替えるために母が半開きにした窓硝子の間から雲が流れて行くのが見える。身体を壊して布団に横になった僕の目に映るのは嘘くさいほど美しい真っ青な空と、コントラストを描く真っ白な大きな雲の群れ。当時24歳、酒とタバコとギャンブル(主にパチンコ、、笑)と荒れた生活で十二指腸が変形してしまった、このどうしようもない若者は田舎に逃げ帰って来ました。食べ物を受け付けず、布団から立ち上がるのもフラフラな状態でしたが、病院に検査結果を聞くために何とかバスに乗りました。そして医師に「酒とタバコ、どちらかを止めるように」とキツく叱られて「タバコ」と元気なく応えて病院を後にしたのでしたが、その時ふとラジオから流れて来たこのMSBの音を思い出し、レコード店に寄ることにしました。他のページでもよく登場する「レコード・ユキ」ですが、この時は高校時代の初々しさも。未来を信じて疑わなかったバカバカしいほどの自信もなく、燃えカスみたいな自分だったと思います。
しかし、微かに、本当に小さな欠片のように音楽に対する興味が残っていたらしい。それがこのMSBを聴いた刹那、火花が散った「何がどのようにして、このようなソロを演奏出来るのか!?また、バックの音との構築が如何にして成されるのか」という深い疑問、というか好奇心。
それから数日後、僕は寝ていた布団を畳みました。本アルバムは僕にとってあまりに大きなポイントとなった作品と認識しております。このような状況で聴いたのでなければ、ここまで記憶に残らなかった可能性もあります。否、この作品に力があったからこそ、僕は精神的なダメージから逃れることが出来たのかも知れません。

MSB(メディカルシュガーバンク)は、佐藤允彦のユニット。当時の国内腕っこきのジャズ系アーティストが名を連ねている。ジャズ系と「系」をくっ付けたのは、ベースの高水健司みたいにジャズの演奏家と言うには少し違うか?という面子もいらっしゃるので。高水健司と言えばスタジオの売れっ子というイメージが僕にはあるのですね。因にドラムは山木秀夫となります。当時の音楽雑誌、確か「アドリブ」か「ジャズライフ」だっと思いますが、このアルバムの山木秀夫の評価が海外中心にとても高かったと記憶しております。演奏の中心は言うまでもなく佐藤允彦で、彼の存在がこのアルバムをただのフュージョンとは違う、言うなればキッチリ進化した形の"ジャズ・フュージョン"にしていると思います。その作品のオリジナリティ、それからソロにおいて描かれるラインは、間違いなくジャズの理論的なところを収めた人でなければ弾けない音使いであり、またそれが単に頭でっかちな理論に負けた(そういう演奏家もまた多いです。残念ながら)表層的な内容ではなくて、作品ひとつひとつに寄り添ったイメージに合致した必然性を感じさせるものです。
フロントプレーヤーとして清水靖晃が参加しておりますが、彼のサックスもまたこの当時から完成されており(和製マイケル・ブレッカーというイメージではありますが)以後、多彩なアプローチを行う以前のニュートラルな演奏を聴けるのはこのアルバムの興味深い点です。
さて本アルバム簡単にまとめれば(稚拙な形容をお許し願いたいのですが、、)
チック・コリアウェザーリポートをごちゃ混ぜにして、そこに和ティストを少し加味した」
という感じでしょうか。
この和ティストというのが、しかしどうして悪くないです。作品に日本的な要素を入れるのは、どこかに無理を生じるのか、上手く行っていない場合が多いという気がします。現代音楽の巨匠・武満徹であっても、全てが自然で馴染んだ形になっているか?と言えば、個人的見解ですが若干疑問を感じます。それは、日本的な演出を施すために尺八や、琴、琵琶などを取り入れるからだと思います。僕は、それが方法として否定しているものではありませんが、しかし、西欧の楽器とこれらをブレンドするには無理があるという気がします。(実を言いますと、僕も少々の経験があるのですが、難しい!やるなら一生かけて試行錯誤するくらいの覚悟がないと駄目かも、、と思います。)その点、矢野顕子のジャパニーズガールは何だか脳天気に超えちゃっているところがあり、凄いな!!と思うのですが。そしてこの佐藤允彦のアプローチは、別段何か飛び道具を使っているわけではなく、せいぜい曲のタイトルにそういった「"らしい"ネーミング」を施している程度です。それでも、聴くとしっかり「和」を感じることの出来る曲があるのは、僕としては好感が持てますし、おそらく佐藤允彦の真骨頂とでも言ったらイイのかも知れません。レコード・ユキは昔になくなりました。震災で流されたというのではなく、もっと遠い話です。しかし、本アルバムは期間生産限定版という形ながら手に入れることが出来ます。今、聴いても古さを感じない、最近リリースされたかのような音楽というわけです。メーカには本当に音楽が好きな方が居るらしい、ということ。また、音楽ファンにも復刻を望む声があったのでしょう。安価というのも大切なポイント!この機会に是非、、ジャケデザインも都会的なセンスで、内容をよく表していると思います。

音楽に世界が在ると言うこと/            ケイトブッシュ・Hounds Of Love

ケイト・ブッシュでは一番好きなアルバム

ケイト・ブッシュは僕にとって女神であることは確かだ。
彼女の中では新しい作品と言える「50 Words For Snow」では個人的見解ながら力の衰えを隠せなかったと思う。これを彼女の新しい方向と捉えるなら別かもしれないけれど。意外に評価するファンが多いので、僕ももう少し聴いてみたいと思います。
その彼女の作品群においては中期を代表するアルバムがコレと言って良いかもしれない。中期と言っても1985年が中期なの?と疑問が出そうだけれど、あくまでもイメージとして。
僕の場合1980年リリース「Never For Ever」が起点となるので、本作がそこから5年後にリリースされていることから「中期」なのである。まあ、勝手な解釈ですよね。
小見出しにある通り、彼女のアルバムの中では本作が最も好みということになる。

僕がこの作品に好感を持つ理由は、そのサウンドのデティールが作品に溶け込んでおり、柔らかな質感を持っていること。それでいて音楽自体は鋭い感性で溢れかえっており、そのコントラストはとても他のアーティストでは真似出来ない温度感を持っている。ケイトブッシュ製作総指揮、監督、主役、脇役、照明、カメラ、そして音楽と、全てを彼女ひとりで担当したひとつの映画のようなアルバムだと思う。M4「Mother Stands For Comfort」からM5「Cloudbusting」のくだりが最も僕の好みであり不思議なほどの共感を持つ。
ヴォーカリストとしての凄み、声そのものだけを抽出すると「ドリーミング」に軍配が上がるかもしれない。しかし、本作の歌い方には、何と言うのかここまでの作品にはない気高さみたいなものが感じられて胸が熱くなる。
2011年「50 Words For Snow」はおそらく「深い試行錯誤の結果」ということだろうが、意外なほどあっさりとしたアレンジに終止している。ピアノ中心で、リズム系もごく一般的なアプローチと言える。しかし、こうして中期の傑作を聴くと(今、聴きながらコレを書いております。)彼女に関しては徹底的なプログラムと凝ったサウンドアプローチ、もっと下品な言い方をしてしまえば"コテコテに加工された音楽"こそが、そのイメージには馴染んでしまうような気がする。しかし、それがどうしたというのだろう。新しい世界を構築するのにNGな制作方法などあろうはずがない。ハッキリとしたイメージ、ヴィジョンを持っているのであれば、尚更のこと。
それにしても、このヴォーカルは呆れるほどリズムマシンに馴染んでいる。これほどまで、人工的なリズムマシンを逆手にとって成功した例と言えば、クラフトワーククラフトワークリズムマシンというよりはリズムパッドと言った方が良いのか)とゲルニカくらいしか僕は知らない。
乱暴に結論付けると、こうして様々な要素を探ってみるけれど、自分がこのアルバムが好きで仕方のない理由。その最もなところは、単純に旋律の描き方と寄り添うハーモニーの美しさによるものだと思う。音楽を更に持ち上げる数々のサウンドメイクは、その作品の優れた根幹があって初めて力を発揮するものだと思う。
今、曲は「Jig of Life」が流れている。
溜息が出て来る。一体、この方の頭の中はどうなっているのであろうか。
音楽を聴いて、世界を感じることが出来る作品は残念ながらそう多くはない。世界を感じるということは、その音楽と共に旅に出るということだ。たとえ自分の部屋で聴いていても、心は別世界を彷徨っている。それは抜け殻の自分を置いて、幽体離脱するのとどこか似ている。音楽をIF(インターフェイス)として自分が訪れたい世界(景色)を眺めることが出来る。ケイト・ブッシュを初めて聴く方に、本作を推薦したいと思います。珍しく?自信を持ってオススメです!

山下洋輔トリオ/キアズマ・聴き手の驚愕が伝わる

聴くのは、その日の体調と相談してから。

何とも酒池肉林というのか、まるでフェリーニサテリコンのようなコテコテの世界が展開されている。猛然と突き進む密度感が飽和したままの音の壁。ここまで突き抜けているとある意味、変な爽快感すらある。耳を峙てると実は、ピアノの音使いに深く考え抜かれた形跡があり、それはテーマや冒頭部分に垣間みることが見える。ピアノを打楽器と捉え、轟音の肘打ち連発は、ドラマーやサックスと対峙し、そして音楽を構築するピアニストとしての明確な回答であろうと思う。同じ鍵盤奏者でありますので、この辺はとても理解出来るところです。ライブにおいて鍵盤楽器PAや周辺機材に負けてしまい、他の爆音楽器の下側に潜り込んでしまうことが多い。それを回避するには、共演者を変えるか(笑)演奏法自体に工夫することが不可欠であろうことは言うまでもない。
それにしても、ここで感心するのはドラムのアプローチであり、ジャズドラマーがドラムという楽器のひとつの規範であろうことがよく分かって来る演奏内容です。少し長過ぎるドラムソロ(あくまでも僕の感じ方です。)を抜かせば、これという気になるところはなく、この大騒ぎで喜ぶ聴き手と共に舞い上がって行くのが本作通常の聴き方でありましょう。
しかし、不思議なのは、この音楽の根底にあるものだ。
山下洋輔さんは、この音楽をやる時に、一体どういうモノをイメージしているのであろうか?
例えば僕にとって、こういう根底にあるモノ、その正体ということであれば意外に坂本龍一さんの方が掴みやすい。
それは、もしかすると人間の本性というのか、本能や生理的なところに訴える音楽であり、受け取るイメージは聴き手一人一人に委ねるというスタンスのものなのか?とも思える。もしくは明確なテーマが存在しており、だからこそあのような世界になっているのかも知れないけれど。僕は山下洋輔トリオの作品は若い頃から定期的に沸き上がる頃合いというのがあって、このそこそこ長い人生においてポツポツと触れて来た方だと思う。しかし、その音楽の根本的なところが掴めないでいるような気もする。というか根本的なところなど、どうでも良いのか!(笑)
音楽的には、この三人の音の会話の密度感が凄い。こんなに細かいところで深堀するのか?と言う程に音の交差は鋭く、聴くのに大変な力が必要となる。
先日、風邪を悪化させて会社の昼休み、コレを聴きながら昼寝をしていたら、更に悪化させてしまいました。これは、アマゾンのコメント欄に「その日の体調」と相談してから聴いた方がイイかも、、というのがあり、それを拝見した時は「軟弱なやっちゃ!」と鼻で笑ったものが、自分も数日経たず実感した次第です。
それだけ、毒性と轟音が凄く、どーしたの?このオッサン達、、という1Lで足りるかも知れない音楽とも言えます。
変な表現ですが、凄くもあるけれど、どこか滑稽なところもある。暗くならず解き放たれているというところがヨーローッパでも評価を受けたところでしょうか。

一応、簡単に説明を入れますと本作は1975年(まだ僕が田舎で遊び惚けていた時代です。)ドイツ・ハイデルベルクにおけるジャズフェスティバルライブとなります。
ピアノは轟音と右手と左手の高速に繰り出す連打で大変なことになっておりますが、紡ぎ出されている音自体は決して野蛮なものではなく、実はピアノらしい音を描いております。この辺は山下洋輔さんが少年期にバイオリンを習っていたことや国立音大において作曲を専攻されていたことが理由としてあげられるかも知れません。それにしても興味深いのは、テーマのユニゾンなど僅かに表出するテーマはジャズというよりプログレに聴こえてしまいます。フランク・ザッパ辺りでしょうか。そう言えば、少し前にエリック・ドルフィーを聴いた時に同じようにザッパ方向の色合いを感じたものです。
年配の方達で(僕も充分に年配ではありますが)ジャズはこのようでなければいけない!という頑迷に考える集合体があります。例えば、ジャズにおけるドラムのスィング感とか、そのリズムアプローチにおいて。しかし、音楽において「このようでなければならない!」という物言いは個人的には好まない。
そして、本作が、そういった頑な考え方、凝り固まった観念的な思想を打ち砕く音楽に感じられるところが最良のポイントと思います。

ドイツ音楽はバッハ、ベートーベンに代表される羨ましくなるようなルーツがありますが、面白いことに今に生きるドイツ人達はその「伝統」を壊すことに一生懸命だったりする。そのドイツに於いて、これだけの指示を集めたことは何やら深く考えさせられるところがあります。Youtubeに日比谷野音でキアズマを演奏する三人の姿を拝見出来ますが、出音は根本的に同じではあります。が、研ぎ澄まされた音、鋭利なリズムというところでは若き日のハイデルベルクバージョンに軍配があがります。やはりこうした力技の必要な音楽は贅肉の付いてしまったお父さん達では厳しいところがあるのかもしれません。(坂田明の紡ぎ出すフレーズが年齢を重ねただけの新味が感じらたところは良かったように思います。)
余談ながら昔、池袋西武百貨店にスタジオ200という音楽ホールが併設されていた頃、坂田明さんが客として来場されておられました。加古隆さんのライブだったかと思いますが、すると海外から訪日されていた大柄な女性から「サカタサーン!」と声をかけられておりました。彼女はもしかするとドイツ人であり、彼らのハイデルベルクライブを聴いたことがあったのかも知れません、、、と想像したりする僕なのでした。

ケイト・ブッシュ「ドリーミング」/ その切れ具合

歌とサウンドのバランスにおいて、、。

ケイトブッシュのリリースしたアルバムの中で本作が最も好きか?と言われれば正直2番手くらいかな、、と思います。このアルバムを初めて聴いたのは実は一週間程前となります。ケイトブッシュの熱き音楽ファンには叱られそうですが、昔、紙一重的(狂気と現実の境目に在るような)なアルバムという評を目にして気の弱い僕は何か恐ろしい世界を想像して腰が引けていたのですね。イメージというのはある意味恐ろしいものです。しかし、実際聴いてみると、その評価はドンピシャとは言わないまでも確かに当て嵌まるところがあるような気がします。それほどこのアルバムは(彼女の作品群においても)突出してインパクトが強い!音楽に対して何と言うのか押し倒されても良い(笑)という生粋のMの方には向いている傾向があります。まあ、、それは半分冗談として。実際の音楽の話で行きましょうか。1週間前に初めて聴いたとは言え、毎日何度も聴き返しておりますから、既に数十回はこの"夢の世界"にアプローチさせていただきましたが、本作の特長は、ケイトブッシュのヴォーカルとしての側面が強く押出されている点にあります。その何とも変幻自在な「声」と、楽音の混然一体具合に引き込まれます。比較的大人しい作品であっても、それは当然、一筋縄では行かず、仕掛けはあちらこちらに配置されており、この仕掛けの謎解きだけでも楽しめそうです。正しく長きに渡って愛聴出来る名盤でしょう。

このアルバムと比較すると最近の彼女はやはり力が落ちた!!と認めざるを得ない。もし本作を超える作品を今、リリースするのであれば、思い切ったサウンドアプローチや共演するアーティストにも工夫が必要でしょう。

音楽全体の基調になっているのは「魔物語」と同じように、柔らかでコーラス過多なベースであり、またアイデア満載のサンプリングの自由奔放なセンスとなる。この辺りを聴くと一体、DAW*等に代表される制作の進化って何なの?と文句のひとつも言いたくなる。
音楽において中心に位置するのはアーティストのアイデアと力量であり、テクノロジーはその下に入らなければ、結局出来上がるモノってのは知れている。ケイトブッシュもテクノロジー好きなアーティストではある。一般では、とても手のでなかったフェアライトも初期の頃から使用していたという話も聞く。しかし、大切なのはそれが、しっかり彼女のツールになっているということだ。本作でも、そういった機材の使いこなし、それから彼女以外の男性ヴォーカルの使いこなしにも大きなポイントが在る。ケイトブッシュは意外に自分以外のヴォーカル(ヴォイス)を混ぜ込むことを好む。それはおそらく、声の重さを良く知っているからに違いない。冒頭から変則的な6拍子と4拍子で切れ込んでくるが彼女には、こうしたリズムアプローチなど何でもない。普通に自然に歌い切るし、またそのフレーズも実に特長的だ。少女から老婆までを演じるようなヴォーカル。つまりは人の人生、人間模様を、一人で演じ切ることが出来るような特殊なヴォーカルだと思う。
猫の目のようにクルクルと変る僕の評価だが、本作に限って言えば、微妙に緩い曲線を描くだけで、その印象は変らないものと思う。面白い要素に気が付いたり、彼女のヴォーカルの機微に触れて、ふと忘れていたことを思い出したりと、、自分の傍に置かれて行く作品だと思います。ひとつだけ気になるところがあるのは、その歌い方でシャウトするところでしょうか。コレは個人的な好みとなるのですが、少し僕にはキツく感じられます。もう少し柔らかな方向でも良かったのに、、!と思うのですが、これは曲の方向性もあることであり、難しいところかも知れません。こういった自分の好みと相反する僅かな要素から、リリースしたアルバムの中で2番手となっているらしいです。若干ベタですが、僕の中でのベストアルバムは2枚「魔物語であり「Hound Of Love」であろうか、と思います。本作、頭ひとつで次点!と。でもこの順番は音楽ファンによって、どうにでも変るところでしょう。
ケイトブッシュは僕にとって女神みたいなものです。
今がすこし落ち目でも、過去にこうして凄いのが転がっております。そして先々、きっとその年齢でしか出来ない傑作を生むことでしょう。

心底期待しております!!

DAW:デジタルオーディオワークステーション、という音楽制作の中心に位置するコンピュータを中心に置く制作フロー。使用されるソフトは数多あり、勿論代表的な数種は存在する。生音とシンセ、サンプラーというデジタル機器をシーケンス上で自由に混在することが出来、尚かつ生音に関してのデータの修正も自由に行う事が可能となる。つまりは一音からの削除、ピッチ修正、移動、コピーと。古来から連綿と受継がれて来たMIDIのエディットにおいても進化しているが、このプログラミングに関してはソフトにおける差異は大きく、バンドルされているソフト音源の内容と共にソフト選択の重要な要素となっている。

今これを書く理由 / Beatles「Let It Be」

小6、その時の僕の衝撃とは、、?

東日本大震災でやられてしまった郷里・岩手県鵜住居地区。そこが実家の在るところです。鵜住居地区から小さな峠を超えると小さな漁師町に入ります。両石町に入って左側の坂を上がった付根付近。そこが母方の実家が在ったところです。母の妹、つまり僕にとって叔母さん二人が暮らしていた旧家です。この家は津波で流されて、現在、その場所はかさ上工事で埋められ見る影もありません。
僕にとってこの叔母さん二人の存在は意外なほど大きい。
津波で亡くなったK叔母さんは、その人間的インパクトにおいて。そして仮設で暮らして来た末っ子のT叔母さんは、ビートルズを教えてくれた恩人です。また物心付いた頃からよく遊んでくれた大切な存在でした。今でもよく憶えておりますが、本アルバムは(当時、釜石のような地方都市では)予約しておかないと手に入らなかったそうです。自慢気にこの二つ折りジャケットを開いて「ほら、こんな風に録音するんだって!」と教えてくれました。当時、小学校六年生です。バンドという概念がなく、よく分からなかったけれど、随分と線(シールド)がゴチャゴチャとして凄いことになっているなぁ、、と感心したものです。こうして作業したものがこの皿になっている、、ということが俄には信じ難いと言った感じでしょうか。
そして、まず聴き初めて素直に思ったのが、ロックという割には元気がないな、、ということです。しかし、そのうちに「Get Back」に突入すると「うぅ、、何てハードで過激な音楽なの!?」と衝撃を受けたわけです。当時、クラシック音楽や映画音楽しか知らなかった僕には、この程度のロックでも大変なサウンドだったわけです(笑)
それにしても、このアルバムは散漫なところがあり、そして独特な虚脱感があります。何度も聴いて行くとそれが逆に安心してしまう、というのかハマってしまうところがあり、このアルバムの不思議なところでもあります。おそらく、この全体的なイメージは流石のビートルズを持ってしても計算したところではないでしょう。しかし後年、このアルバムと表裏一体となるアップルレコード屋上でやらかした例のライブを映画(まだ見ておられない方は是非!)で見ましたが、皮肉なことにバンドとしてのビートルズの魅力が理解出来ます。ビートルズは中期の傑作と言われる「Rubber Soul」を分岐点としてライブ活動を停止しました。しかし、この屋上ライブは彼らの演奏がまだ生きていた!ということが分かります。
ビートルズは間違いなく演奏するバンドであり、そのリズムセンスとこのバンド唯一無二とも言える推進力を感じさせるものです。この屋上ライブほど僕にとってバンド本来の魅力を感じさせるものはありません。ロンドンのどこか荒涼とした空間の中に在る四人の合奏は、あれだけマイナス要素ばかりの状況であっても、ギターを持って声を出すと、しっかりと音楽を行える力が在りました。そこからは、言葉での表現はとても難しい、ある種音楽の根源を考えさせられます。四人の表情、所作には様々な心情が溢れており、それは実に人間的なもの。何とかしようと試みる気持ち、投げやりなところ、諦め、憐憫、そういうところが交錯している。尚、オリジナルアルバムとアップル本社屋上ライブとの最たる違いは「Don't Let Me Down」の有無である。この作品は制作過程で外されており、ライブでは演奏しているものの本作からは外されている。しかし、シングルリリースされた「Get Back」のB面に入れられていることで知られることとなった。個人的に好きな曲なので、この作品の力具合を考えると、他のどれかを外してこちらを入れたら良かったのに、、!と思います。
例えば(問題発言を承知で言えば)「One After 909」辺りと入れ替えると本作全体の作品力が上がったかも知れない。しかし「Get Back」のB面に同じようなロックンロール的な作品を持って来るのは如何なものだろうか?とも思う。リリースの難しいところか。フィル・スペクターが手を入れたアレンジ面に関しては僕個人は、それほど否定的ではないです。これはこれで良いところがあり、聴き手としてはあまり気難しく考える必要はないのかな、と思います。ただ、ビートルズ解散のキッカケとも言われている「The Long And Winding Road」などを聴くとポールの歌に精彩がなく、彼の考え方とは全く異なるアレンジを施されてしまった、そのやるせない気持ち伝わって来るようです。本来的には、このアルバムはビートルズ単独でアプローチすることで、アレンジ過多とも言える後期作品(そこがまた凄いわけですが)に対するバンドとして原理主義的な1枚を出しておきたかったということになるわけです。がしかし、それは中途半端ではありながら成功していると思います。やはりこのアルバムは後期作品ではありながら、その色合いが他作品とは全く異なっています。得意の「飛び道具」や「こけ脅し」は一切なく、そういう飾りは取払ってビートルズの中心線、バンドとして勝負したかった。それでいて初期作品とは違うものを提示したいという強いコンセプトが在ったのだと思います。フィル・スペクターのアレンジでフォーカスがぼやけたとは言え、そういったバンド「ビートルズ」は誰もが感じるところだと思います。

ビートルズを初めて聴いたステレオは別ページで紹介しているピンクグロイド「狂気」を"体験"したステレオと同じもの。このビクターのステレオの中心下部にはLPを入れるスペースが在ったが(当時ステレオは大体このレイアウトを採用していたと思う。)そこには、ビートルズ以外に、姉のK叔母さんの愛聴していたヴァン・クライバーン/チャイコフスキー・ピアノ協奏曲、プレスリー/ハワイライブ等が入っていたのを憶えている。今も、耳元でT叔母さんの声が聴こえるようです。
「こんな風に録音するんだって!」
僕にビートルズを教えてくれて、本当にありがとう。

"異端児" テリー・ライリーをご存知?

ミニマルミュージックの第一人者ではあるが、、。

"ではあるが、、。"と書いたのは、テリー・ライリーが他のミニマルミュージック作曲家の中にあって少し離れた所に佇んでいるイメージが(自分だけかも知れませんが)在るからです。活動の幅の広さ、また即興性を重視しているところ、ロックアーティストと距離が近いという、その辺りからの実に個人的な印象と思われます。
テリー・ライリーはアメリカの作曲家、演奏家となります。分野としては先にも述べましたミニマルミュージックということになります。ミニマルミュージックはミニマルと短く使われることもありますので、ここでは短い呼称でまいりたいと思います。ミニマルは小さなフレーズの反復で進行する特長を持ち、一応現代音楽から派生したジャンルと捉えられております。「一応」と枕詞を付けたのはミニマルを現代音楽として認めないという場合も少なからずあるからです。

僕個人は別段、そういうことは気にしないし、ミニマルがクラシックから現代音楽という一連の流れに、反作用として出現した音楽であるからこそ、堂々と現代音と名乗って良いのになぁ、、と思ったりもします。
ミニマルは昔、フィリップ・グラスをFMで流した坂本龍一さんのお陰で知ることが出来ました。今もってフィリップ・グラスの刷り込みは深く、アルバム「グラスワークス」を聴くと安心と納得が入り交じった不思議な気持ちになります。

テリー・ライリーは、このフィリップ・グラスと、知名度においては最も高いかも知れませんがスティーブ・ライヒと並んでミニマルを代表する作曲家ということになっております。おそらくはテリー・ライリーから作品選択するのであれば「IN C」辺りと思われますが、それでは本ブログがベタ過ぎて面白くない方向に行きそうでもあり、ここは天の邪鬼健在?を表明するためにも、このレクイエムを選ばせていただきました。
実は、先頃、某サイトWEB記事のライティングでボツになった駄文がテリー・ライリーの紹介というものでした。NGの理由は「宣伝にも何もなっていない失格文」ということでありました。宣伝というのはマイナス要因や、個人的見解、感想をこれ見よがしに書くと(そのつもりは無くても)"門前払い"ということになります。こうして、せっかく「あーでもない、こーでもない」と苦労した時間を失ってしまうわけです。宣伝文と「評」は全く違う世界です。しかし、その仕切り線はボンヤリして分かり難い面があるということも事実です。ということで、この自分だけの自由な世界「脱線CD評」に、テリー・ライリー評を書き直ししよう!というのが本編の主旨でございます。宣伝にならないから良いのだ〜っ!(バカボンのパパ調で。)と得意の開き直りです。さて、本作はこの異色のミニマル作曲家が、作品の提供で行動を共にして来た「クロノスSQ」のメンバー、その息子さんが急逝したことへのレクイエムとなっております。
音楽内容として、これがミニマルか否か、、それは意味を成さないでしょう。
そこには、とても深い表現、純粋な音があるだけです。
音楽としては、どちらかと言えば分かりやすいものだと思います。また、これが弦楽四重奏の音楽であること対して、素直に驚きを禁じ得ません。
僕にとって弦楽四重奏は、良くも悪くも実にクラシックを体現するものであり、それは敬愛するバルトークであっても例外ではありません。つまり、お恥ずかしい話、この弦楽四重奏という形体は実に敷居が高いというのか、その幅が広く飛び越えるのに億劫であるというのが正直な気持ちなのです。
よく知られたことではありますが、この4つの弦楽器はオーケストラの最も最小単位と考えられるわけで、小説で言うなら、彼のステーィヴン・キングが宣っていたように「短編ほど難しいものはない」と。
この言葉に類似にたところがり、骨組みだけで成立しているような弦楽四重奏は、作曲家の馬脚がうっかりすると出てしまい兼ねない厳しいアプローチであることは確かです。
ところが、本作はそれが全く感じられない。深淵で精神性を感じるのは勿論ですが、あまり深刻ではない。弦楽四重奏にレクイエムとタイトルを付けた、、と言うよりはレクイエムというある意味特殊なクラシック音楽の一形態に弦楽四重奏を持って来たところにテリー・ライリーの才気を感じさせるところですが、何しろこの音を聴いていただきたいと思います。個人の受止め方に大きな差異が出てしまう現代音楽ですが、素直に受止めれば心が揺り動かされるところがあると思います。
僕の弦楽四重奏という頑なイメージを、あっさりと打ち砕いてくれた作品です。
音楽とは関係ありませんが(否!!あるのかな、、、?)この紅葉を使ったジャケットがとても素敵です。聴いた音楽から来るイメージとどこか繋がっている感じと言えば良いのか。現代音楽の誤解を解く名作は実は多く存在しますが、本作品もこの仲間入りでしょう。是非、お試しあれ。オススメします♬

PUPA/良薬なのに口に苦くない!

気軽に聴けて飽きの来ない良質J-POP

手垢が思いっきりくっ付いたような、いまひとつな小見出しだが、1Lで形容すればこんなところだろうか。会社の同僚Mさんは、いつも僕にCDを強制的に?貸してくれる音楽ファンだが、彼が貸してくれたCDの中では間違いなく上位に入るのが本作。
高橋幸宏率いるバンドだが、どうしてか高橋幸宏のヴォーカルは聴こえて来ない。参加メンバー達が入れ替わりでヴォーカルを担当しており、それがリピートして音に触れる最たる理由となっている。Amazonのコメントに「弱過ぎる。だから一線超えられない連中なのだ」と勇ましいことを書いていた方が居られたが、やれやれ、、聴き手というのは本当に裾野が広い。たとえその音楽が弱過ぎたものであっても、それは個性のひとつであり、更に強弱を物差しにするのはあまりに短絡的ということになる。弱く見えてえらくしぶとい優男だっているのだ。まあ好き嫌いということだから仕方ないけれど。
この中には、やらたと超速で弾き倒したり、やたらとデカイ音をぶちかましたりというアーティストは見当たらない。僕のピアノトリオとはヒジョウに遠いところに在るバンドです(笑)。高橋幸宏さんがそういう意味では最も硬派かもしれないですが。僕がこのユニットを気に入っているのは、そのパロディ的な部分です。例えば、前作となります「floating pupa」で顕著ですが、バート・バカラックビートルズ、またフランシス・レイからエンニォ・モリコーネまでの映画音楽から上手にいただいているセンスが感じ取れます。その取り入れ方に彼らのバックボーンを感じるところであります。また、高橋幸宏さんのドラムは、例のYMO時代の「リズムマシンをドラムでやってます!」というリズム、フレーズではないところがポイントです。ロック、ポップス基調の中に微かながらフュージョン的な要素もあるところ、その匙加減が流石というところです。おそらく、ドラマーとしての自分に重きを置きたかったのかも知れません。この人のヴォーカルはとてもカッコいいのですが、灰汁もまた強いですよね。昔一時、音楽とファッションでイメージを象った「ジャパン」のセンス(個人的にはベースのミック・カーンが好きでしたが。)から影響を受けたのでは?(逆かもしれない)と思います。このヴォーカルが入ると音楽のかなりの部分でその色合いが決まってしまう。音楽ファンによっては「ちょっと飽きちゃった!」と言われ兼ねない。(ジャパン:ジャパンとは言うものの英国のバンドです。デビッドシルヴィアンを中心とした、退廃的な世界をロックで表現するところがカッコ良かったが人気絶頂で突然解散。)その「えー!!またそれやるの?」を回避したかったのでしょう。バンドとしての新味を暑苦しくない飄々としたイメージで押出したかったと。
それは、上手く行っていると思います。2枚のアルバムをリリースしておりますが、2枚手元に置いても良いかも知れません。微妙に違っており、その微妙な具合は少し興味深い差異でもあると。本作をセレクトしたのは、より音楽が有機質で温かな風合いがあったからです。これは前作にはなかった部分、もしくはその質量が少なかった。電気的でサウンドとしては凝ったものだったが、若干やり過ぎのところがあり、それが全体的に散漫な印象を受ける場合もあった(聴くこちらの体調や、気分によって。)そこが随分改善され、作品の押し出しが強くなったと思います。個人的な受取方ですが、僕は本作の方により美メロが散見されていると感じます。パッと聴きでは確かに弱々しく、頼りな気に歌う男性ボーカルですが、その旋律と歌い方には必然性があり、共感を持ちつつ音に触れることが出来ます。
PUPAは確かにマニアックな歌モノバンドでしょう。しかし、素直に接すれば気持ちよく心に入って来る刺さらない音楽です。「良薬なのに口に苦くない」と言うわけです。耳に刺さらない、聴きやすい音楽、それでいて力があるということ。音楽造りにおいてそれが一番難しい。しかし、そういう音楽が繰返して聴かれるわけです。

もの凄いソロがあるわけじゃない。驚くべきヴォーカルが居るわけでもない。しかし、センスの重なりと工夫、知的な遊び心でこうした優れた作品を完成させるところがポイントでしょう。キッカケはTVで偶然みたライブでした。そして、同僚MさんがCDを貸してくれたと。異動となり顔を合わせる事がなくなりましたが、僕のiPodでは今もPUPAが鳴っております。時々聴きたくなる、癒されて、温かくなって、少し別な町へとワープする。なかなか効能の多い音楽ではあります。