ピアニスト・タカの脱線CD評

FLAT122キーボードとして活躍・ピアニスト・タカ音楽評

コレって映画音楽なのか?ー平沢進/パプリカ

平沢進に眼を向けるキッカケとなった凄い作品力!

僕の㊙音楽図書館であるM田さんからこれをお借りしたのはもう大分前のことになる。2年前くらいかな。今敏監督作品である「パプリカ」。併行して映画の「東京ゴッドファーザーズ」を借りたので、本作パプリカの映画と映画音楽をゴチャゴチャにしていた時期があります。やれやれ、今は勿論整理が付いておりますけれど。さて「パプリカ」の音楽は平沢進が担当しております。(因に"東京ゴッドファーザーズ"は鈴木慶一

では、何故に今頃になって、本作を引っ張り出したのか?
ひとつの理由として、今も時折聴いてしまう、その計り知れない魔力の存在。ふたつめは、先日お借りした「童夢」のイメージCD(童夢は映画化されておらず、そのイメージを土台にしたファン向けの音楽)を聴いたことによります。
童夢」はアニメファンなら説明不要の名作ということであり、アキラの前身にあたる、しかししてアキラにはない仄暗い魅力が感じられる力作と言えましょうか。この童夢をイメージ化した音楽というのなら、俄然興味は沸いて来るのであります。そして本日iPodに流すべくCDをカートリッジに入れて試聴をスタートと。。数分後、僕は針を上げておりました。これは駄目ですね。アレルギーを起こしたのは冒頭で入って来る打込みのリズムの音・フレーズからです。気が付くと聴く力はもう殆ど残っていない(笑)、しかし、そこはそれ。せっかくM田さんが別部署から送ってくれた"ブツ"ですから、1曲づつどんなものか?くらいは聴いて行きましたが、やはりスタート時の印象は覆らなかった。スクエアのキーボード奏者・和泉氏の音が聴ける!と喜んでいるコメントを見たりしたが、、うーん、、作曲においてコードプログレッションが稚拙なのが最も気になるところです。イメージと同化する音はサウンドに滅茶苦茶に凝るか、恐ろしくシンプルにするか、、そして現代音楽にも比肩し得る音使いを駆使するか、という鋭いアプローチ、思索が必要と思うのですが。大伴のアシスタントであった今の絵柄がどこやら似ているのは当然といえばそうなります。が、しかしその"くっ付いている音楽"となると話は別です。こちら「パプリカ」は何故に聴き続けるのか?映画音楽、たとえそれが絵のバックに置かれる音楽であっても相撲で言う「輪島と貴ノ花の大一番」(年齢がバレます、笑)のように、がっぷり四つでなければならない。BGMだからとか、音楽が邪魔しないように等というのは"いけない考え方"であり、それは本業の音楽と何ら変らない作品力が必要なのだと思う。その点、このパプリカはどうだろう? 劇場(映画館)のシーン、わけの分からない化け物達の行列が炸裂するわけだが、その時の音楽の切れ具合といったら、、。これは音楽だけを取り出しても確かに面白く、バンドでカバーするか、と考えたこともあるくらい。しかしコレは紛れもなく「映画音楽」なのだ。なぜって映画とシンクロした時のスケール感は尋常ではないから。音楽に力があるだけに、絵を押出す「圧」へと転化されて、とてつもないインパクトを生むことになる。本アルバムは普通に音楽アルバムとして聴けるものなのです。そして「こういうセンスっていいよね」となる。しかも、その後に映画でこの音楽の重なりを確認するとイイ。凄い仕事っぷりだなぁ!!!と感心して終いには呆れてしまう。音楽だけを聴く→映画で確認する→音楽だけを聴く→映画で再度確認する、このようにリピートすると何かがあぶり出されて見えて来る気がする。平沢進Pモデルの頃から知っている。でもセンスを認めても何か音を詰め込み過ぎてゴチャゴチャした印象(おそらく、もう少し聴くべきだったか、と反省はしてます。)で、どうしても音楽家としての動向は「坂本龍一」の方に注目が行っていたわけですが、この作品を聴くと、あっさり掌を返して、もっと評価されて欲しいと思うのであります。音楽の内容としては、初めての耳には音数過多でゴチャゴチャと聴こえるかも知れません。しかし、その練られた音の万華鏡に最後は押し倒されます。第一に旋律のラインに他にはない魅力が感じられます。また、音楽のタイプも色彩に富み平沢進の守備範囲が如何に広いものかが伺い知れます。映画、音楽共に保証付?オススメです!! 《本評は大幅に(笑)2回目の加筆修正しております。2019.06.12》

音の"渦"「烏頭」TRIALOGUE


爆音系?違うでしょう!一線隔てている、、。

先頃、僕のバンドと対バン(共演)したばかりです。
久しぶりに聴いた"生・烏頭"ですが1、2年前より格段に音が整理され「研ぎ澄まされた」印象を受けました。
本作はライブで演奏された作品と、部分紐づく内容となります。が、収録は更に音がタイトで聴きやすい内容になっています。
この音楽が聴きやすい(耳当たりが良い)、、というのはバンド音楽にとって大切な要素となります。「合奏」の例として、アメリカを代表するオーケストラのひとつ「クリーヴランド管弦楽団」は恰もバイオリニスト一人が演奏しているかのような音である、、と評されます。それを、まるでレントゲンで音を見ているようだ!と否定的に捉える頑迷なクラシックファンも少なくないのですが、ジョージ・セルが黎明期より鍛え上げた、合奏する力がこうした透明感を生んでいると言えそうです。
烏頭をリハ時、僕は上記内容を思い浮かべておりました。リズムが整うと、その分キレイに隙間が空くことになります。それは、1次元のバーコード"白黒の世界"にも似て、音楽を明快なものに仕上げます(因にQRコードは2次元、本評の表現には使えない)。このユニットほどの轟音、壁にも感じさせる音数の多い世界であっても、しっかりと隙間の存在があります。

本アルバムはミニアルバムとなります。3作品の構成となりますが、それでもなかなかの充実ぶり、聴き応えがあります。また、改めてピアノ・大和田さんの作品力と、信じられないほどのピアノの出音に羽交い締めにされてしまいました。聴き手の殆どは、まずこのピアノの信じられない音に「やられる!」のだと思います。このバンドはアルバムが気に入ったのなら、ライブに行くべきです。ライブの烏頭は、何と言うのか一種恍惚とした世界が展開されます。信じられないほどの音数の隙間から、強烈なイメージの光が瞬いているような気がします。これを単に爆音系とは言わないでいただきたい。素直に聴けば、その旋律とハーモニー、演奏キャラに押し倒されるしかない、ということになります。
そういう音楽に徹底的に押し倒されたいという、ド"M"な人間にはピッタリでしょう。収録の3曲は、どれかが突出している、、というのはなく、、結局「3曲」が突出していると。近似しているバンドとしては、かつて僕が周囲に存在するバンドの中、最も尊敬した「る*しろう」があげられます。(但し、僕が好きな「る*しろう」は1stアルバムの頃に偏るわけですが。)違いは、烏頭の方が、重く暗い質感で、民族音楽のようなセンスが感じられる。また音の組み立てに、既存のモードやコードプログレッションを基軸とした僕のようなタイプとは異なり、もっとピュアな深いところから、研鑽と音への思索への積み重ねから表出したラインに(個人的には)感じられる。ライブでは僕の再生させたばかりのFLAT1-22など簡単に捻られてしまいました。しかし、烏頭というバンドがこの世に在って良かったな、、とヤケに感心しつつ何時もの有楽町線で小雨の中、成増山へと帰宅の途についたというわけです。《この評は加筆修正しております:2019.04.07》

君は"ウルトラQ"を知っているか?

懐かしいというよりはしっかり現在進行形!

アルバムのタイトルはウルトラQ総音楽集」作曲:宮内國一郎、ということになります。
以前一度このサイトに登場しました会社の同僚モリタさんからまたまたマニアな音楽が届きました。と言ってももう1年近くも放っておいて「聴かなければ!」という焦りの気持ちのまま、暇がなく気力もなく、そのままにしておりました。時が悲しく経過していくという辛い日々を送っておりました。しかし、調度バンドのライブが終わった翌日の日曜日、とうとうCDカートリッジに皿を投入したというわけです。我が社の音楽図書館と言っても良いモリタ氏のセレクトはマニアの中でも特に度数が高く、これまでも私のiPodを散々っぱら荒らしてまいりました(笑)その中では高橋幸宏率いる「ピューパ」の二枚はなかなかのヒット作でしたが。さてこの、やはり来たか!?と言うべきウルトラQ総音楽集という、まあ何ともCD2枚組1枚に100トラック入っていたりする溜息ものです。実は1曲が短いものが殆どで、例を挙げますとペギラ登場のジングルなど5秒という、まるでジョンケージもビックリの短曲も入っております。勿論、名作は例のテーマですが、通して聴いて行きますと、これが妙に聴きやすいわけです。家人にそれを伝えると「お前がおかしいのだ。ウルトラQ・100曲も聴いて、環境音楽みたいに聴くなど、変っっっ!!」とバカにしたように笑うのみである。

特長というと、そこここにSEとして入るテルミンのような(テルミンなのかしら?)ヒューゥゥゥゥゥンンという気味の悪い音、これが全体を特長付けている気もしますが、ラウンジで聴くような酒臭いBGMが入っていたり、3分以上もオカリナだけで演奏されるタイトルもまさに「オカリナ」等はもはや笑うしかなく、おそらくこれを聴く私の表情は気持ち悪く緩みっぱなしだったと想像される。あちらこちらに聴かれる新鮮なサウンド。ダサイが魅力的なエレキのフレーズと音、そしてスプリングリバーブが嬉しかったのかピッキングベースにかけまくる"ぴょんぴょんサウンド"は、実に魅力的。まるで昨今のDAWを嘲笑うかのような万華鏡具合で、これだけの大作ですが、すんなりと腹に収まります。
基本的にはビッグバンドジャズですが、そこはそれ怪獣番組に合わせるために、あれこれとSEを混ぜ込むというところが楽しい。普遍的なポップナンバーであっても木琴(マリンバ?)を多用し、少し捻りの利いた愛らしさを演出しております。ウルトラセブンの辺りまでのウルトラシリーズに共通する管楽器が活躍するのは、やはり個人的には好感を持つところです。変に電子音楽を使わず(というかそういう楽器が一般的ではなかったからだが)人力で吹き鳴らす楽器は、人間パワーが感じられて、そこが怪獣達のイメージとしっかり接続しているのだ。怪獣作品もCGに頼るようになってからは、リアリティを失った。ウルトラQペギラガラモンは今、視ても「ひょっとしたら、こういうのがどこかに潜んでいるかも、、」と感じさせるスケール感、立体感が在る。音楽も似たようなところがあるか。制作をするためのツールは進化した。しかしして、本作のような作品力はそうしたツールがない時代に産み落とされたものだ。不便であることがオリジナルを育てたのだ。あれれ、、何時の間にか熱くなって過激な口調?になってしまいました。

一柳慧「ピアノ作品集」凄過ぎるかも知れない

イメージ表現の手本。聴いて良し、流して良し。

久しぶりの脱線評です。90日も書かなかったので広告が勝手に出てしまう。それはあまり好きな状況ではないな、、と思っていた矢先、調度お気に入りのアルバムが出現しました。さて、、。
一柳慧は、若い頃から折に触れて耳にする作曲家ではある。一度、ライブで高橋悠治、ジェフスキー、そしてこの一柳慧の作曲家三人の自作自演を聴いたことがあるが、今思えば何と凄いものを目の当たりにしたのか、、と反芻するわけです。ジェフスキーは「不屈の民」を弾いた。高橋悠治は当時サンプリングに凝っていたらしくRoland社のS50を持って来てサウンドコラージュ的な今ひとつ訳の分からない音楽を展開した。そして、一柳は地味な風情でごく普通に自作をピアノで弾いた。そこから一柳音楽を事ある毎に気にするようになったと。つまり三人の中で最も共感したのがこの作曲家だったということになります。しかし、最近は意識の中から遠のいて存在が朧げになっておりました。何がきっかけと言えば「Youtube」です。別なアーティストから偶発的に辿り着いたのですが、これはYoutubeの功罪とも言えるポイントでしょう。このツールは、このように時折記憶の外側に在った作品を連れて来る。「今回の悪戯はなかなかのものだ!」ってところです。褒めてあげたい。
一柳は間違いなく日本を代表する作曲家と言っていいと思う。それは、伊福部昭から黛敏郎武満徹高橋悠治等のキラ星のように瞬く僕の中での"巨星達の輪"の中にしっかり置かれている。その割には何か社会的な認知度では今ひとつな感じがしないでもない。何故だろうか?作風が時代によって変化し、今ひとつこの作曲家の中心線が見えない、、もしくは本人がそういった自分の方向性というよりは、作品主義に重心を置いており、音楽家としての自分のキャラや、社会においての自分の立ち位置に意外に無頓着なところがあるから、、などと勝手に推測してしまう。例えば、武満徹を評して、親友の作曲家・湯浅譲二は「とても戦略的な男だった」と言っている。僕も、武満徹は自分の作品に対しての客観にとても深い思索があり、自分が表現したことに対して聴き手はどのような反応を返して来るのか、そこから紐付けて社会に対してどのように発信するのか?を深く意識した作曲家だったように思う。殆どの音楽家はもっと音楽本意であり、大変主観的な立場をとる。武満徹は身体もあまり丈夫ではなかったし、若い時分音楽をやっていく環境は決して恵まれてはいなかった。コンテストでの成績も芳しくなかったことから自分の作品に対する厳しい姿勢を生涯変えることなく、表現技術を磨き、社会に対峙し音で生き抜く術を学んだのだと思う。一柳はそれからしたら恵まれた才能と、音楽界からの認知も早かった。ジュリアードにも留学し、ジョンケージに触発された時期もあるが、その作品は初期の頃より完成していると思う。というかむしろ僕は本作のような小さな作品、初期から中期のものに魅力を感じる。ピアノソロのアルバムというと、個人的にはなかなか手を出さないのは自分の恥ずかしいところです。バッハの平均率、ベートーベンのソナタから、バルトークラヴェルメシアンリゲティと来て、本作が来た感じでしょうか。随分と間が抜け落ちておりますが(笑)この作品でとっかかりとして知ったのは「タイムシーケンス」ですが、何とも驚きました。ピアノテクニックにおいて音楽を聴くのではない!くらい肝に命じておりますが、それにしてもこれだけのテクニックで演奏される作品、それを作曲したのが驚きです。これは作曲者が弾けることが仕切り線としてあるわけで、どう転んでも、武満徹シューベルトがこんな作品には行き着かない(笑)また逆に言えば、このようなテクニックを使用しなくても表現に足る様々なテクニックが在り、それこそが作品の個性を形成するわけです。それでも、、、この作品は多くの聴き手が触れた方がイイと僕は思う。タイムシーケンスと比較すれば2曲目に配置された「インターコンチェルト」の方が、音楽が柔らかく圧倒されない分、こちらが入り込みやすい。聴いて行くと、昔、池袋西武の最上階に西武美術館があり(良き時代でした!!!)そこに併設されていたアールヴィバンでは、確かにこのようなピアノ曲が流れておりました。実際、一柳の作品だったかも知れない。暑い真夏エアコンもない江古田のアパートからサンダル履きのまま電車でここに来て、よく涼んでいたものです。そういった自分の二十歳そこそこの生活を思い出させるある種の環境音楽でもあります。この当時の音楽の造作は、リゲティバルトークとの近似性を強く感じさせます。しかし、リゲティの例えば「」(ピアノエチュードに収められている作品)のような感性とは違う。徹底して無機質で幾何学模様のデザインを思わせる印象がある。そのどこか無機質なところがキャラのポイント。苦手な聴き手はこの部分に違和感を憶えるのかも知れない。それにしてもショックなのはこのピアノ作品集全体が僕が目指しているイメージ表現に大変近いということです。しかも彼は大昔に、あっさりとゴールしている、、というショックが拭えない。このアルバムに出会ったことは、バンドへの提供している作品内容に間違いなく影響するでしょう。今、バンドにはマリンバ奏者がおります。何と素晴らしいタイミングかと思います。

フランシス・レイ・悲し過ぎる旅立ち

作曲に対するワクワクとした気持ちを、、、。

教えてくれた大切な存在です。
中学生の僕が、どんなに時間をかけてコピーしたことか、、、!!!

フランシス・レイ
先日、お亡くなりになりました。
勤務先のお昼、お弁当を食べながら何時ものデジタルニュースをボンヤリ見ていると箸が止まってしまいました。
お昼後の仕事がどうにも悲しく、即行で帰宅したい気持ちでした。
さて、気を取り直しまして、、。
フランシス・レイの特長は、(これはとても個人的な感じ方だと思います。)アコーディオン奏者出身というところが、作品の至るところで溢れている印象を受けます。「白い恋人達」然り「雨の訪問者」然りと。
僕がフランシス・レイを初めて聴いたのは小学校6年生の頃。叔母の誕生プレゼントLPがキッカケです。残念ながら、今は廃盤ですが、検索するとジャケ画像を確認することは出来る。
一昨日、数十年ぶりにそのジャケを目にして時間の経過に驚くばかりでした。フランシス・レイを国内において一躍有名にしたのはおそらく「ある愛の詩」でしょうけれど、僕が彼の作品で好むのは当然の如く「白い恋人達」です。僅差で「個人教授」でしょうかね。勿論「ある愛の詩」の旋律は素晴らしい。僕も高校時代はピアノアレンジして、ガールフレンド関係では戦力になったものです(笑)、まあ、それはそれとして「白い恋人達」です。この某有名お菓子のようなネームはともかく、その何とも美しいのは、冒頭イントロから主題にかけての流れとなります。不安げで、不安定なハーモニーから、あの有名過ぎるテーマに移行する世界が、僕には到底真似出来ない芸風であります。どうして、こんな洒落た音楽を作り出せるのだろう?と不思議なほどです。この冒頭のシーンで殆どの聴き手は彼の世界に持って行かれるに違いない。
動画でこの音楽の寄り添ったところをみると、その魅力は倍加する。仏人って、旅番組とかで見ると、市場のオヤジでも赤いセーターなんか着こなしてお洒落なんですよね。街行く市民が皆、自分なりにお洒落なんだなぁ。そういうお国柄を感じさせる音楽でもあると思う。
例えば、宿敵とも言えるイタリア映画のニーノ・ロータやエンニォ・モリコーネとは明らかに旋律の持つ重さというのか、明度というのか、湿度感かな?違います。
イタリアは信心深くまた母性愛が強い国です。そういうところも関係あるのだろうか。この音楽の違いは興味深い。
コード進行は変に捻ることは少なく、自然な感じがします。ただ、その上にのるラインが言葉に出来ない程の世界を称えているわけです。
旋律こそ、作曲の原点であり、帰結するところであろう!!と声高らかに言われている感じがします。
本アルバムは、音楽ファンがよく気にする(僕も同感ですが)他オケのアレンジ版ではありません。サントラからの抽出されたものを集めたものですね。フランシス・レイの場合、好きな作品が程よく入っていること、、そしてサントラ版を聴きたいわけです。それがなかなか見たらない。
ボックスものとなると値が張るだけに、このアルバムは良心的かも知れません。
是非、この機会にこの仏・巨匠の世界に誘われてください。きっと良い旅に出られると思います。

今、一番好きなギタリスト・Ben Monder

音使いを聴くと無意識に頷いてしまう。

また「Ben Monderかよ?」と叱られそうである。今年自分の聴いたベストはヤコブ・ブロトリオの一連の作品と決めつけていた。おそらくあの狂ったような猛暑を迎える直前までは。しかし、このアメリカの高速アルベジョを特長とするギタリストは、まるでその昔レコード大賞を急速なぶっちぎりでもぎ取った「ちあきなおみ喝采」の如く、ECMの売れっ子ギタリストを涼し気に抜き去ったのである。勿論、それは僕の心の中の世界であり、それが逆の音楽ファンもいらっしゃるだろうし、またこの辺りのギター作品に感心を持たないジャズファンも多いことだろう。確かに、この音楽はジャズという頑で、ある集合体においては形骸化している(そこが良いというのも分からないではないけれど。)場所からは意外なほど遠い位置に佇む音楽だと思う。前回、このサイトで評を書かせていただいたポール・モチアンのドラムが光る名盤「Amorphae」も例外ではなかったが、Ben Monderの音楽はジャズの括りだけでは少し苦しい。プログレみたいなところもあるし、サウンド自体がとても重い役割を果たしているところがあると思う。その点では、ヤコブ・ブロなんかも共通しているけれど。
ただ、僕が驚くのは本作「Excavation」のその音の構築、ハーモニーの内容である。それは、例えばバークリーで高次元な理論に基づくテクニックを収めたとしても、とても行き着けないような、ある種の異次元を感じさせる。大切なのは、その彼の使う音楽の言葉達が、しっかりとイメージ表現に結びついていること。
繊細極まりないライン、構成は、実に美しく微妙なものだ。これを聴くと、現代音楽の寵児と呼ばれた「リゲティ」を思い起こす。
この偉大な作曲家(という言い方をリゲティは好まないだろうけれど、、笑)のピアノエチュードに「虹」という信じられないほど素敵な作品が在る。読者の皆様には是非、機会があったら聴いて欲しいのだけれど、その世界と本作の音楽にどこか共通した部分があり、それがとても興味深い。

本アルバムの特長は、ヴォイスのテオ・ブレックマンが参加していることだ。ジャズ・フュージョンの世界において、ヴォイスをゲスト参加させることは決して珍しくない。チック・コリアパット・メセニー然りと。アレンジの方向性としては、やはり同じギタリストと言うこともあるのか、メセニーグループと近似するところがあるように思う。しかし何度か聴くうちに、その表現したいイメージというか、空気感とでもいうのか、かなり違っていることが分かって来る。パット・メセニーの音楽が明らかにポップで分かりやすく万人受けする方向だろうけれど、本作は陰影に富み美しさではこちらに軍配が上がる。Ben Monderは、他ギタリストの誰とも違う。ギタリスト達の技術指向、テクスチャーの形成は、皆共通したところがあるように思うけれど。おそらく、ずっと作曲指向なのであり、調度長きクラシックの歴史において、飛び抜けて異質な存在であるバルトークみたないところがあるようにも感じる。
自分の表現したい世界に対して、どういった音を使うのか、どのようなサウンドを考えるのか、、という音楽要素に対して、極めてストイックに追求する姿勢が垣間見える。前回の評ではどちらかというとサウンド主体に、本作では音そのものの使い回しによって、というように思考のベクトルは変化するが、その根底に横たわるのは飽くなき表現への渇望なのだろうと想像される。その、凛とした佇まいに心打たれる。音楽が産業化し、聴き手も演奏家も一様に横並びで"大量消費主義"へ媚びていることへのデカイ一石とでも言うのか。聴いて、不思議なほど心が浄化される気がします。

スマラ・ラティ「ガムラン変貌」/就寝前はNG?

踊り抜き、純粋に音楽としてガムランを聴いてみると、、!

8月中旬、家族旅行で訪れたバリ島。25年ぶりのバリ島は空港付近の様変わりから始まって、その変貌ぶりに驚いたのですが、滞在2日のウブドまで行ってみるとバリの良いところが残っているように思いました。数年前に訪れたペナンもそうですが、観光地の近代化は以前持っていた長閑な雰囲気、街のイメージを大きく変えてしまいます。ただ、バリ島には私にとって最後の砦があります。

ガムランです!

ガムランは大小の打楽器を組み合わせた合奏団と踊り手の混合芸術です。バリ島に限らずジャワ地方、またタイにも似た様式のものがあります。しかし、その内容の激しさ、技術的なところではバリガムランガムランの代名詞になっているところがあると思います。バリ以外のものは何かノンビリと間延びした印象受ける筆者なのです。さて、ウブド観光の夜に聴いた(見た)のがスマラ・ラティのパフォーマンス。本作を聴くとあの感動の夜が蘇るわけですが、ひとつ大きくことなるところがあります。
それは踊り手の存在です。
踊り手はそれはそれで唯一無二の美しい動作が魅力です。また合奏団との関係性も見過ごせない要素で、このスマラ・ラティの超絶技巧と踊り手のシンクロ具合の凄さは是非ご覧になっていただきたい!と切に思うものです。とは言うものの、自分として音楽だけを取り出して聴いてみたいという気もします。帰国して即行で手に入れた本CDは録音も素晴らしく、この現代的なガムランを楽しむ音楽ファンにとって十分な内容を持っていると思います。ひとつだけ引っかかるところをあるとすれば、本作が少し古い収録となるところです。スマラ・ラティは常に深化し新しいことに貪欲な集団です。2002年にアメリカの作曲家、エヴァンジボリが自作を彼らのために捧げましたが、実際にバリを訪れてレクチャーしたという話が伝わっております。その後の一連の変貌が音として分かるアルバムが欲しい。今現在、その作品の演奏内容は円熟の極地に達しており、もはや曲をなぞっている段階を遥かに超えて彼らの音として伝わって来る。
さて、本作に話を戻しましょう。
改めて冷静に聴いてみると、あの例の金属的なサウンドには個人差による微妙なズレを生じており、ウブドで聴いた時のようなイメージとは異なることが分かります。しかし、コレこそが人間の行う音楽なのであり、シーケンサーガムランを奏でさせることは可能でしょうけれど、それは音楽としては全く違うものとなり意味を成さないと思います。ブレイクからの入り方、無音から一気に畳み掛ける音の洪水、このダイナミクス。そして各打楽器で超高速で奏でられる(打ち出される)フレーズは上記で述べたように微妙な人間的ズレによって、何とも言えないカオスな音響を生み出していくことになります。
ここでスマラ・ラティに付いて簡単にご説明しますと、この楽壇は1989年にバリ南部のアーティストにより結成されております。(インドネシア国立芸術大学の卒業生を中心とする、、という説明もあります。)
結成の中心となったのは踊り手の中心となるアナッ・アグン・アノム・プトラ(以下アノムさん)さんで、この方の踊りはウブドで実際に見ることが出来ましたが、その両目を中心とする独特な表情と手足の動きが素晴らしいもので、音楽内容と共に他のガムランと一線隔てている部分と思われます。その動きと表情を唖然として見ていると、まるで何かがヒョウイして人間とは違う、表向き人間の形をした異形の生物のようです。不気味であり、どこか滑稽であり、結局とても不思議なのです。また女性の踊り手、アユ・スリ・スクワマティ(以下アユさん)さんもまた負けていない!!今回、最も心に刻まれた踊り手です。両目の動き、そして身体全体のタイトな動きがもの凄い。余談になりますが、彼女はアノムさんの奥様で、この二人「ジョン・レノン・ヨーコ小野」に匹敵する夫婦であろうと納得してしまいました。このアユさんのリズムの取り方は、他の踊り手達は少し違う気がします。私は踊りのことは全くもって素人なので専門的なところは分かりませんが、彼女の踊りはとても強いリズムを感じさせます。タイトで正確なリズムを身体で押出すところに特長があり、何とも言えない魅力を感じてしまいます。ガムラン以外のジャズやロックなどにも造詣が深いのかも知れない。
スマラ・ラティはトラッドなガムランからアメリカ人作曲家エヴァン・ジボリの作品まで幅広く演奏しますが、この現代的ガムランと言える音楽は何しろ想像を絶するもので、8ビート、16ビートのようなジャズ・フュージョンて使用されるリズムセンスまで取り入れてしまう。ポイントはそれが決して付焼き刃な感じに聴こえないことです。使用する楽器の特殊性、アレンジ、音楽を追い求め純粋な気持を物語るところです。それにしても、ガムランサウンドの特長は打楽器で打ち鳴らされるカンカンとした金属質な高速ビートですが、実は低域で鳴らされる音価の比較的長いパートで、その音は柔らかく耳に届くと私は何かいつも大晦日とか、煩悩とか、盆暮れの世界に誘われてしまいます。本作も勿論、同様に何とも形容のし難い別世界に誘われてしまいます。
サウンド的には統一されたところがあるので、身体が疲れている時などは小さな音量でラジオでも聴くように空間に放出しておくという手もありです。

www.youtube.com上記はタルナジャヤというアユさんの十八番です。
素晴らしさは伝わりますが、やはり生には到底叶わない。
来日することもあるようですので、次回日本公演、時間があったら是非またビックリさせていただきたいです。ひとつだけ注意点、本作を寝る直前に聴くと(私の場合)頭の中でガムランが鳴り響いてしばらく眠ることが出来ませんでした。深夜の試聴は小さめの音が吉かもしれませんね(笑)
ノムさん宅では、踊りを習うためにホームスティ可能となっております(8室)。キレイなお部屋が用意されていて、好感が持てます。ガムランを学ぶ方には良いかも知れません。また、ここにはガムランで使用する衣装、器具等が保管されており、本番ではトラックで運び出すそうです。