ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

クセナキスは"クセ"になるか?/プレイヤード

打楽器のアルバムであるが先行したイメージは持たない方が良いかも知れない。

ヤニス・クセナキスルーマニア生まれ、ギリシャ系フランス人の作曲家。

僕はこのクセナキスほど、ハードルの高い作曲は居ない。

この作曲家と比較すれば、メシアンも、武満徹も、そしてリゲティも実にポップで分かりやすい。

僕は音楽というものに平易であるとか、難解であるというベクトルを持ち込む意味を感じないが、それでもこのクセナキスだけは別だ。

しかし、そのクセナキスの数多ある作品群の中で打楽器のために書かれたものだけは素直に受け取ることが出来る。

クセナキスの打楽器作品を聴いたのは大分前に、勤務している会社に併設されているホールのランチタイムコンサートという企画で、森晴子氏の演奏による「ルボン B」というのが最初だった。

もちろん、それまでにこの作曲家の作品に触れたことはあった。コンピュータを使用したもの、「ヘルマ」をはじめとするピアノ曲など。

しかし、どれも駄目だった。受け付けることが出来なくて「クセナキスの良さというのは理解出来ない」という結論に達していた。

それが、このホールで聴いた音楽はどうだろう、、その明快で生き生きとした内容に、これが同じ作曲家か!!と驚いたわけです。もしかすると彼女の演奏がまた良かったのかも知れない。あの作品はどうやらある程度(範囲)の自由が許されているところが見受けられたので。

つまりクセナキスの真骨頂というのは、その作品内容の裾野広さ、節操のなさ(笑)、そういうことではないかと個人的には思う。

本作品はストラスブール市からの委託によるものだ。4作品の収録だが、それぞれが個性を際立たせており、存在感たっぷりである。

ガムランのパロディか?というような部分があったり、「踏切警報機のズレ」を再現したかのようなリズムを主眼においた作品でなければ有り得ないアプローチもあって実に楽しめる。また、金属の響きが美しく、全体を通して自分なりのイメージを当て嵌めて想像の旅に出ることが出来る。

これなら素直に聴けば、誰でもその楽しさ、面白さに気が付くかもしれない。

だからと言って、クセナキスの他の作品も大丈夫か?と言えば、僕ならしばらくは打楽器モノだけにしておきたい。

クセナキスは、そもそも建築家だ。

また、メシアンの提案から、その数学的なところを音楽に積極的に取り入れるようになったと言われる。

推測だが、リズムに殆どの重心が置かれる打楽器は(音程が無いという事ではない。)、数理的であり複雑なパズルのようでもある。こうしたことから、クセナキスにとって(楽器の中では)最も自己表現を行いやすいところが在ったのではないかと思う。本アルバムを聴いていると、自分の作品のどこがイメージ表現なのか?という疑問が沸き起こる。

この徹頭徹尾、虚飾を排した厳しくピュアなリズム。

どんなに雄弁に語るオケ作品にも負けてない。

(打楽器作品以外の)クセナキス作品は、例えばリゲティであるとかジャズならヤコブ・ブロのギタートリオのようにクセになって何度も聴くということは、今のところないと思う。

しかし、それは先々分からない。

大学時代、バルトークも、メシアンも駄目だった。

高校時代、プロコフィエフショスタコーヴィチも駄目だった。

そして最近、ヤコブ・ブロトリオでさえ駄目だった。

自分の音楽に対する理解、変化、先のことなど皆目見当もつかない。

だから音楽は楽しいのか♬

音は一旦外に出すべき?/JBL・Pebbles

今日は、少し寄り道です。

オーディオの中で音楽に最も近い存在であろうスピーカー。

そして、JBLって言ったらあなた、、、!!!

本日届いたスピーカがコレ。JBLのUSBスピーカ「Pebbles

昨晩、早速接続して音を出してみました。

 

昨今、音楽ファンの殆どがイヤホンで聴くのではないでしょうか。

そういう僕も同じく。

でも、本来的にはイヤホン・ヘッドホンで聴くというのは緊急用ということでありまして、つまり人に迷惑をかけないように、というスタンスです。

イヤホンもヘッドホンもとても好きなアイテムですが、しかし、それはまた別問題であります。

音は空気を伝って耳に届くものであり、だからこその音楽の立体性、素晴らしさがあるわけです。部屋に漂う音、その音を聴くのは束縛されたところがなく、実際のライブにも近いところがあるでしょう。人が飽きもせずライブ通いするのは、そこに空気(空間)があるからだと思います。

慌ただしい現代人が電車の中で耳にイヤホンを差し込んでいるのはある意味、異様な光景に見えます。時折、新興宗教みたいにも思えて来る。

僕は、音楽だけではなく、ラジオから聞こえるアナウンサーの声、そして昔からNHK/FMで放送されているラジオドラマ等もスピーカで聴きたいという曰く抑え難い欲求があり、本品を買うことになりました。

それにしても、USBスピーカとは言えJBLがこの¥5000ちょっと、という価格。

良い時代とはこう言う時に使いたいものです。

最初はペアではなく1台の値段だと思ったくらいです。それだけJBLというメーカイメージは僕の世代には絶大であります。それは例のモニターシリーズの青い筐体から来るものであり、またジャズ喫茶で昔聴いたパラゴン、スタジオで聴いた4344のライブよりもライブらしい?凄い音であったりするものです。

さて、音ですが、この価格から言って十分です。僕の使用目的には十分過ぎる出来だと思います。特にジャズでゆったりしたものなどに相性の良さを感じます。

浮遊感のあるECMの最近の音などはドンピシャです。

流石に安価ですから、音の密度感とか、広がりを求めるのはお門違いでしょう。むしろ、下に敷くインシュレータ、設置位置などを工夫するなどして補完してあげるように考えたいもの。それがまた楽しいわけです。

USBスピーカと言っても、やはりエイジングはありでしょう。もう少し馴染んで来ると評価が上がると思います。

デザインの秀逸なところも相まって、何か生活に少し潤いを与えてくれた感があります。部屋に設置する以上、それは家具と同じところがあります。例え使わなくてもそれはそこに在るわけでして、音が良いからデザインは我慢して!というのはスピーカとして失格でしょう。

こんな年寄りになって、人生初のJBL

久しぶりに若い頃に機材を買った時のようなワクワク感を憶えました。

頭ひとつ?/YESと言えば、、!

YES/こわれもの(Fragile)

頭ひとつ?何それ?

先に「危機」の記事をアップしたわけです。そのイエスの代表作と言えばこの「こわれもの」と合わせた2枚というのがベタなわけですね。

リレイヤー」ってのが同業者では多いです。大昔から。

鍵盤技術者では、パトリック・モラーツを推す人が多いですからね。

しかし、天の邪鬼な僕としては珍しくイエスの場合は、このベタ通りとなります。

楽曲の旋律、リズム、アレンジ、ジャケットのデザイン、メンバーの演奏内容、全体のサウンドイメージ、そういった様々な要素から来るインパクトという何か訳の分からない音の風みたいなもの。

それを鑑みると、この2枚ということになります。

そして頭ひとつ、というのは更にそのどちらか?となると僕は本作をとります。

「あれ?川崎さん、、意外!!」っていう声が聞こえたような気がしますが。。

頭ひとつとは言うけれど、もう髪の毛1本くらいでしょうかね。

髪の毛1本でもひじょうに重要な方もいらっしゃるのです。

ですから、その差というのは精査しないとなりませぬ。

なりませぬ、、と言えば真田丸の大蔵卿です。まあ関係ないか。

コンセプトという事を考えると「危機」ということになります。あれは全体が何かひとつのカタマリのようです。それは本作にはない強さでしょう。

しかし、この本作のあまりに魅力的な"珠玉のフレーズ祭"には叶わないわけです。

リックウェイクマンとビルブラが特に気が利いた音楽をやっており、こっそり崇めております"スティーブハウ"のとっつぁんもまあ相も変わらず孤高のキャラで生からエレキまで大活躍しております。有名なギターフレーズもあちらこちらに散見されます。

燃える朝焼け」のクリス・スクワェア操るリッケンバッカーのベースがまた唸りを上げてカッコいいですよね!!余談ながらこのタイトルを見るとどうしても「燃える胸焼け」と洒落を言いたくなるのと、あの向谷実の独特な(演奏時の)表情が思い出されるカシオアペア朝焼け」をイメージしてしまうわけです。本当に余談です、、すいません。脱線CD評とは言え、今日は特にひどいようです。

 

さて、コホン!!気を取り直しまして、、。

このようにアルバムのどこに重きを置いているのか?というところで音楽ファンのベスト10は変動するわけです。

僕は自分自身が音楽家でもありますので、どうしても同業者として何と言うか「それ分かる!」みたいな共感が欲しいのですね。

それに、ちょっと嫌らしい表現ですが、是非自分を押し倒してほしい(笑)

押し倒されて、また無理やりに抱き起こされて往復ビンタを食らってしまうくらいの(失礼)感動、驚きが欲しい。現代音楽作曲家の巨匠・クセナキスを聴いたときの、、というような表現で行きましょうか。ここはひとつ。

記憶を辿ると、僕がイエスを気に入ったアルバムは正にこの「こわれもの」でした。

「危機」は今でこそ、褒めそやしておりますが、最初はさっぱり入り込むことが出来なかった。つまり、あそこまで徹底してコンセプトを貫き通すあのアルバムに馴染めなかったのですね。ピンクフロイドの「狂気」とも共通するところです。

しかしして、今でも比較となると「危機」よりも「こわれもの」というのは、アルバムを聴いた過去、その時にヒントがあるのだと思います。

その時に、聴いていた音楽はどのようなものであったのか。生活はどのようであったのか。政治、世相も関係ないとは言えないかも知れない。

この2作は続けて聴いたのではないのです。危機の方がずっと昔。アルバムのリリースとは逆です。そんなことも関係しているような気がします。

とにかく、このアルバム1曲たりとも無駄がない。そこが立派です。

全体を見通すと、何かここでメリハリを付けるためにこういうのも入れておこうか、とか、分かり難い作品ばかりなので、ここでシンプルなバラードでも入れるか、もしくはアップテンポのロックっぽいのを入れておくか?というのが見えることが往々にしてあります。僕はそういうのが見える(聴こえる)のは少しガッカリするところがあります。そういう作為性は苦手。

本作ではそれがないですね。ボーナストラックが入っているのがありますが、僕はあれは必要ない。プラスして作品を入れなくても、というか入れない方が「こわれもの」だと思います。ボーナストラックなんか入れちゃったらバランスをこわしちゃう(笑)。

捻くれものの自分なので、愛用のiPodではボーナストラックは削除して聴くことになります。演奏も僅かに粗いと思いますし。でもこういう商品スタンスはイエスのメンバー達がもし知っているとしたら、どのように考えるのでしょうか?

少しばかり興味深いところです。

UAと草間弥生が何故か重なる/ATTA

UA/ATTA

UAは最初に聴いた時、僕の鈍過ぎる耳が反応した珍しい存在だ。先にお断りしておくと川崎タカヲというと、変拍子と現代音楽とポリリズムをバカみたいにコネクリ回して客からも周囲の音楽家からも愛想を尽かされる(笑)というイメージを持っている方がいらっしゃると思う。しかしそれは大変な誤解だ(と思う)。

僕は、J-POPも場合によっては大変好むのである。場合によっては。

昔の歌謡曲奥村チヨ朱里エイコ前野曜子、先にご紹介したトワエモアからちあきなおみ、そして荒井由美から、段々マニアックとなりPhewと来て本作のUAとなる。

楽器を演奏する所謂"演奏家"の作る音楽には自作を含めて面倒で気難しい考えを持っているのは確かだ。よって人と上手くやっていくことに難儀するし、自分もまたそれ以上に傷つくことが多い。しかし、、!

ヴォーカル/シンガーソングライターは別となる。

ヴォーカルには楽器奏者とは次元の違うところが多々あり、上手い下手という実につまらない物差しの必要を感じない、、そりゃ音痴っていうのは困ります、、否!それでも音痴のように歌う"Phew"もいるから(笑)それもまた一刀両断には否定できない。

 

UAは決して特別に歌い手さんとして傑出しているわけではないと思う。

むしろ無骨で、どこか野暮ったく、不器用そうな印象がある。

しかし、ヴォーカルにはそれが逆に作用し、飛び抜けたキャラとなるのだ。

僕は、UAの歌う曲であれば、どれでもOK。ロックから、童謡までこの人なりに驚くべき自由なアプローチで声にする。

サウンド構築に絡む裏方面子もまたそれに呼応するようにこれでもか!!とばかりに腕を振るっている。その入込み具合が尋常ではなく、ここで僕が敢えてケチを付けるとすれば、音をぶっ込み過ぎて何か飽和している感じがあることだろうか。ドラムのアプローチひとつとっても「やり切ってます」という感じで、黎明期のリズムマシンであるRoland/TR606から生ドラムまで作品に合わせたリズムアプローチ、スプリングリバーブを使っています!と分かるようにビョーンと敢えて目立つように使う。UAと音楽を造り上げるスタッフもまた自由な精神をお持ちのようだ。

個人的見解としては、もう少し曲数を削り大体10曲前後として、その余裕の出た時間を、各作品に飄々とした「微風のようなデティール」を注入したら良かったように思う。

あまりに完全にやり尽くしたところが、僕にはお腹いっぱいになり過ぎて、少々聴き疲れしてしまうのが残念なところだ。

しかしながら、たまにチョイ聴きする僕とは違う、生粋の熱いファンであれば、このくらいの押し出しが調度良いのかも知れない。

日頃、ECMの浮遊感だとか、立体の中に音を鏤めるとか、そんなことばかり考えている年寄りには、良薬なのかも知れないが。

ということで、僕はこのアルバムだったら畳の上にコロンと置いたポータブルラジオ、カセットテレコで低めの音量で流し、自分は読書とか、こうして文字入力をしているとか、そういうスタンスが程よいか、と思う。

で、時に気になる曲で、少し自分のやることを停めて耳を傾けるような。

UAみたいな感じのシンガーは兼ねてより少なくない。しかしそれは似て非なるものだ。どんどん終わって消え去って行く。しかしUAは大地に足をドーンと付けて驀進して行く。ブレの無い女性アーティストというのは音楽のみならずカッコいい。

昨日TVに出ていた草間弥生さんとダブって来る。

ギター+ピアノの難しさ/ジョン・アバークロンビー

John Abercrombie Quartet / Acade

 私事ながらギタリストと8年程音楽を共にした経験があります。

アルバムも2枚リリースしましたから、それなりに結果を出したのですが、それには次の要素があったからです。ベースレスだっためピアノの左でその役割を担当することとなったし、白紙からそういう音楽であるという現代的な音楽内容を持っていたと。「ジャズやロックから来る既成概念というものを出来るだけ排除したということにより、ギターとピアノという決して相性のよくない組合せでもそれを逆手に取ることが可能となった」と、冷静に振り返ることが出来ます。しかし、もし通常のベース在りのユニットであるとすると、、、。

ギターとピアノの相性というのが実は難しいのです。

長く活動し、またセールス的に成功した例は少ないはずです。

知られているところではパットメセニーグループくらいでしょうか。

例えば、ヴォーカルが中心位置にいて、その脇をリードギターが固める。そしてキーボードは音楽に厚みを付けるというようなロック/プログレのユニットであれば、その役割がピラミッド的に配置され聴き手の耳にも心地よく届きます。

しかし、ジャズのように楽器同士が対等な立場からぶつかり合うアンサンブルにおいては、ギターのハーモニーとピアノのハーモニーがガチャガチャしてうるさく感じられる状態になりがちです。

パットメセニーグループのライルメイズはシンセサイザーでアプローチする比重も大きく、またピアノのプレイも意識的なメリハリがあるので、そういったネガを回避していると思います。

本作は、サウンドとしてはメセニーと似たところがあります。というよりメセニーの方が影響を受けたのか。編成とメンバー構成からも予想がつくのですが、何よりポイントはジョンアバーの奏でる音色です。

ひとつの潮流と言って良い音色自体は美しいものであり、流麗な音楽の重要な要素となっております。

ただ本作の場合、僕の聴くベクトル方向は、リッチー・バイラークのアプローチとなります。この人のピアノはバックに回っていても存在が強いです。手癖で適当に持って行くタイプの多いジャズピアニストの中では違うところに立っている人だと思います。

両手で素早い駆け上がりをみせるところなど、クラシック音楽を本格的にやった跡が感じられます。ロックからだけ、ジャズからだけ、ポップスからだけ、、音楽家(特に演奏家として勝負をかけるのであれば)は単一的なバックボーンではその奏でる音楽内容がハッキリって寒過ぎるのです。

また、このバンドの音をより堪能したいのであれば、音を出来るだけ正確に抽出する、オーディオが必要かもしれない。

あーぁ、大口径のJBLで聴きたいなと、、(笑)

もしくは、そこまで大袈裟ではなくても、ヘッドホンやイヤホンにそこそこな性能な機種の用意があると聴き手の印象は変って来る可能性があります。

僕が今、試聴しているのはコンピュータ直差しでオーディオテクニカのヘッドホンM40xですが、これはモニターヘッドホンで間違いなく正確な音取りを可能とする機種です。つまり限りなく味付けというものを排した本機で聴いたところで本ブログも書くようにしています。ただ、このアルバムのようなECM中心選手の力作ですと良きスピーカで聴きたくなるのは仕方ないです。

フレーズの妙というのか、他ではなかなか出て来ないラインが描かれるところがあり、おそらく幾度か接するうちに評価の内容も変って来るかも知れません。

今朝からまた聴きなおしておりますが、既に随分印象が変って来ました。自分の鈍い感性がこのギター+ピアノの難しいところを受止め始めたらしい。更に先に、音楽の深い海に潜水しつつあるのが感じられます。

ギター+ピアノの難しさ、これは本作ECMの巨匠達はやはりというべきか、理解していたようです。繊細な耳と感性、磨き抜かれたセンスでまるで強風をさらさらと逃して行く柳の木のように涼し気に進んで行きます。

彼ら程の強者にしても、収録はキツかったのかもしれない。しかし素晴らしい旋律、ハーモニーを駆使して完成に辿りついているところが感動的です。

 

同じくECMのギタリスト、ヤコブ・ブロとの違いは興味深い。比較すれば本作はずっとジャズ方向にシフトしており、もう少し本流のところでジャズを感じつつ美しい音を耳にしたい音楽ファンには薦められる内容です。

例によってジャケットは秀逸です。一度「ECMジャケット展」とでも銘打って美術展でもやったらどう?と真剣に思ったりしますが、そのECMジャケット群の中にあっても際立つところがあります。ジョンアバークロンビーには、他に多数の作品がありますが、このECMの中心線に位置するギタリストの作品に関しましては、先々もう一度ここで触れてみたいと思います。

中学時代を彩っていた「トワエモア」

トワエモア/A TIME FOR US

そのアップライトピアノは小学校4年生の時、引越をする1年前アパートの2階に運ばれたYAMAHA/U1だった。

父の実家に家族で移り住み、僕は随分と田舎に来てしまった(つまり都落ち感、、笑)を感じていたわけです。

今思えば、岩手県釜石市内で引越をして、田舎の中で移動しただけですから、その大袈裟な感性は既にこの少年時代に育まれていたと推察出来ます。

さて、当時YAMAHAで一番小さな初心者用ピアノは、居間の窓側に対して直角に置かれました。つまり風景を見ながらピアノを弾くことが出来たということになります。

庭を目前にして、その後ろ側に雄々しい山々の稜線が見えますが、それは殆どの場合、山裾に霧が発生しており、岩手のどこでも見られる景色とは言え何と恵まれた音楽環境であったか、と思います。音楽を習熟するという点ではこの中央からあまりに遠過ぎた町で生まれ育ったことが後々自分を追い込むことになるのですが(紆余曲折はありましたが)今は単なる過去の残骸でしかなくなりました。もはや音楽は根源的かつピュアなものとしてそこに在るだけです。この窓に直角に置かれたピアノで中学校1年生の僕が弾いていた曲のひとつが「虹と雪のバラード」です。この曲は札幌オリンピックに合わせて制作された企画が先行した曲ですが、そういう説明的なところを抜かしても充分な存在感があります。イントロの旋律、トロンボーンの少しチューニングの悪いところまで何だか哀愁を感じてしまうのは、過去を美化する僕の悪い癖なのかもしれませんが、治癒不可能な浪花節なところです。トワエモアは15年前ほどから活動を再スタートさせておりますが、

Youtubeにアップされているお二人の歌を聴くと基本変わっていないのが何ともホッとさせられるし、あまりの懐かしさで(あのどうしようもなかった)中学時代にワープするようです。芥川さんの声が少しばかり濁声になり、白鳥さんも高音が出難くなりましたが、そこを年を重ねたふくよかさ、温かな振幅とも言えるアプローチでカバーしていると思います。

おそらく打込(プログラミング)など、今風?な制作過程を経てリリースされた本作ですが、そのお二人とサウンドのギャップが意外に楽しいです。

「苺白書をもう一度」というユーミンの名曲をカバーしておりますが、これが白鳥さんの声にハマっており、何とも言い様のない感動を覚えます。僕はこの白鳥さんの声が、国内女性ボーカルの中で最も美しいと思います。

そして60歳をこえられて(失礼しました!)あの堂々たる歌いっぷり。

頭が地に付きそうです(笑)

本作には「虹と雪のバラード」も入っておりますが、アレンジが全く異なります。オリジナルである楽団バックのテイクに拘る音楽ファンも少なくないと思いますが、僕はこちらのバージョンも決して悪くないと思います。上記にも書いたように、昨今のDAW**(デジタルオーディオワークステーション)を使ったカッチリとしたデジタリィな質感と二人の歌との妙な断層が楽しいのです。捻くれた聴き方とは思うのですけれど。

ということで本作は愛用iPodに入れて持ち歩き愛聴することでしょう。余談ながらジャケット写真は、若きトワエモアが「ある日突然」のジャケで使用した同じ場所ということになるようです。これを知ってジャケットを眺めると"ぐっ"とくるところがあります。この二人の表情、、遠い日に想いを馳せ、そして未来へと流れ行く「時」を感じておられたのでしょうか。

 

僕とトワエモアはイメージがつながらない同業者や音楽ファンがおられるかも知れません。しかし、中学生までの自分は紛れもなくこうした国産歌謡の中から作曲の下地となるハーモニーを(手探りで)覚えた事実があります。コテコテの変拍子メシアンをはじめとする現代音楽を標榜する自分ですが、根底に流れるのは本作のようなストレートで分かりやすい温かな音楽です。

DAW:生音である声、管楽器等とデジタル楽器であるシンセサイザー、またエレキギターという出音の仕組が異なる楽器を、PCにインストールした各種ソフトにおいて一元管理し、下地となるオケからヴォーカルまでをアプリに内包されるシーケンサーという時間軸(小節数軸)に音データを記録、ミックスダウンから、マスタリングまでを可能とした現代においては主流となる制作方法のこと。

今でも聴きたくなる・イエス/危機

YES/危機〈Close to the Edge〉

本作は、あまりにベタなアルバム紹介ってことだと思う。最近すっかりジャズ方向に舵を切った自分ではありますが、だからと言ってこれまで好んで聴いて来た作品にそっぽを向くというのも何か人情味に欠けるというか「手のひらを返す」的な感じでどうも具合が悪い。プログレッシャー達のご機嫌をとるわけではないが、ここで一発プログレを代表するアルバムと言っても過言ではない本作を取り上げたい。本作の概要、また知識的なことをベラベラとまくしたてても、それは手垢が数十センチは積もっているくらいの情報が累積されたイエスの代表作ということになり、今更であります。なので切り口をもう少し違った方向から攻めてみますか。

このアルバムの肝となるのは、個人的見解(否!このように聴く人は少なくないか)ながらエレクトリックベースである。クリス・スクワイの描くライン、そしてリッケンバッカーの好みの分かれるであろう音色にある。残念ながら故人となられた名手であるが、一瞬でこの人とわかるベーシストも珍しい。他にと言えば、ジャコ・パストゥリアススタンリー・クラークくらいだろうか。

ギターの領土を浸食するような、えげつないベースであるが、結論を言うと僕は好きな方だ。このギターのようなベースと、コン、コン、とハイチューニングというのかこれまた独特なビル・ブラッフォードのドラムプレイ。このリズム隊があっての本作だと思う。世界に数在るドラム+ベースの組合せの中、突出した個性と言い切れる。

勿論、僕の同業者(と言うにはあまりに失礼ではある)であるリック・ウェイクマンのキーボードプレイも相当素晴らしい。ソロフレーズ、グルーヴ、まあ完璧な曲に対するご奉仕なのである。

うちのバンドのドラマー・佐山さんに言わせるとビルブラのドラムの良さが分かり難いのだそうだ。そして彼のドラムはドラマー以外の楽器奏者からの指示が多いらしい、ということを聞いた。

なるほどなぁ、、と思う。

それはおそらく、彼がドラマーとして演奏しているというよりは、作品を理解してそこに最大公約数的に合致した内容の音楽を紡ぎ出しているからではないだろうか。

つまり、ある意味ドラマーらしくない。通常のドラマーさんとは、バンドに対する考え方が違う部分があり、それがあの例のスタイルに表出しているのでは?と思う。

他楽器奏者(僕もそうだけれど)からの指示が集まるのは、その辺のことと関係しているのではないかと推測します。

言い換えると「キーボーディストが頭を捻って愛用のリズムマシンを打込んだその通りのことを叩いている」ようなイメージでしょうか。

まあ、よく聴けば彼なりのグルーヴが感じられないこともないとは思うのですが。

そして忘れてはいけません、ギターです。このスティーブ・ハウのギター。高校時代にイエスを初めて聴いた時には、その良さが分からなかった。キレイにディストーションがかかるような音じゃないし、フレージングもロックとは少し(かなり)違う。

イエスを気に入るまで時間を要したのは、ひとつこのスティーブ・ハウのギターに大きな原因があったのは確か。

しかし、今、プログレのギターと言えば、この人かロバート・フィリップくらいしか思い当たらない。そのくらい個性的で魅力的ではないだろうか。

最近、ようやく馴染んで来たのがヴォーカルのジョン・アンダーソンである。この透明感のある少年声が、何だかロックに馴染まないように感じたわけです。

しかしです!イエスのヴォーカル、この声でなくて誰が?とも思う。これがジョン・ウェットンだったら(笑)「そりゃ違うでしょうよ!」と。

このようにイエスというのは(僕にとっては)どうにも最初は駄目だったというメンバーがいるわけです。それは他のバンドではなかなかないことであり、別な言い方をすれば、だからこそ長きに渡って飽きが来なかったとも言えるわけです。

ただ、他のプログレユニット同様、イエスも僕にとっては2枚あれば十分かなと思います。ドラムがビルブラでないと、、というのは今もって変らないので、本作と前作である「こわれもの」ということになってしまう。3rdという声もありそうですが、演奏の粗雑なところが散見されて受付けないのです。こんな時はいつも「もっと大らかに聴こうぜ!」と思うのですが、持って生まれた面倒な性分は治療が難しいらしい。

「危機」はどの曲が一番好きというのはなくて、カタマリ1つとして聴こえて来ます。

アルバムというひとつの作品、それはジャケットデザイン、全体基調であるサウンド、曲順、曲をどのように移行させるのか?という境界線の設計からなる構築性など要素は多岐に渡ります。

それらが全てが徹頭徹尾ある方向をしっかりと見据えている。

ピンクフロイド「狂気」か、イエス「危機」か、、という双璧具合なわけです。

特にプログレに興味のない方でも聴いて損のないアルバムだと思います。

機会がございましたら是非!!

これで足りてしまう?-ウニタミニマ/世界の縁

ウニタミニマ/世界の縁(へり)

やれやれ、とうとう僕の本丸に突入ですか(笑)

ウニタミニマ!!!!!

若い頃、とても好きだった。そして久しぶりに(数十年ぶり)聴いたら更に好きになっていた。

これが遠い昔の音楽?

冗談じゃない。この音楽は今も生き生きと聴き手の心に響く。

2人だけで完結する人力ユニット。音楽の基調となっているのはバンド名通りに間違いなくミニマルミュージックが在る。

ミニマルとは、スティーブライヒやフィリップグラスに代表される現代音楽の要素のひとつでです。まあ、この辺は認めない評論家も少なくないですが、そんなことはどうでも良いことかも知れません。

僕はミニマルはやりようによっては楽しく、イメージ表現の大切な要素のひとつと認識しております。

(ミニマルは小さな単位のシンプルなパートを楽器の出し入れ、音色変化等による変化によって進行させる新しい試みです。つまりクラシック一般音楽に反目する、反動として出て来た音楽という捉え方も出来ると思います。)

このウニタミニマは、近藤・ピアノ/れいち・ドラムからなるバンドですが、実は既に今はない西武百貨店内に在ったスタジオ200で彼らのライブを聴いたことがあります。

ですので、このアルバムの殆どの作品は耳にしたことがあり、聴いていて懐かしく気持ちよく、そして相変らず「スゲェ音楽!!」と腰を抜かすわけです。

ピアノのフレーズ、リズムのアプローチ、そして実に小気味よくあんな小柄な女性がと信じられない"れいち"のドラム。

そのドラムは、既成の影響を感じさせない彼女のオリジナルであり、どちらかというキーボーディストが頭を捻って考えたリズムボックスでプログラムしたフレーズに近い、という気もする。

やはり楽器というのは、変に偏らず、あらゆるジャンルからその基礎を構築し、白紙の状態から組み立てを行った演奏家のものが僕個人は好きです。

ひとつだけ気になるのは中盤辺りで若干のパワーダウンと2人の歌に疲れが見て取れることです。音程が下がって来る(笑)しかし、持ち直して後半また凄くなると。

それだけにほんの少し落ち込んだ数曲が惜しいところです。

個人的にはタイトルの「世界の縁」と「」が良いように思います。「世界の縁」の"れいち"のドラムはカッコイイです!

またシンセの使い方(曲で言うと「オルガン」のような)も今も昔も形にハマった使い方しか出来ないアーティストを嘲笑うかのようなスカッ!とするシンプルかつ素晴らしいサウンドセンスです。ピアノ以外に何かキーボードで絡ませるのならこうだろう!というお手本のような才知を感じるところです。

これがこの国のJ-POPの標準だったらと思います。決して難しくないし、素直に聴けば誰でも楽しく感じられる筈。

是非、お試しあれ!!!!

JAKOB BRO / STREAMS ドラマーが違うだけで……!

JAKOB BRO / THOMAS MORGAN / JOEY BARON
STREAMS

最近聴くのは、この辺ばかりなんですよね。ECMのこの辺。前作との大きな違いはドラマーがヤン・クリステンセンからジョーイ・バロンへと変ったことです。
前作の方が浮遊感があり語弊を恐れずに言ってしまうとマニアック、今回はもう少しニュートラルな感じとなっているので、比較すると面白味という点、灰汁の強さでは前作かと思います。しかし、ポイントなる演奏内容においては、どうしても本作の方に軍配が上がるでしょう。ギターアプローチの違いを指摘する方もおりますが(確かにその通りだと思います。)、僕はそれ以上にドラマーの違いが大きいように感じました。タイトル通り、この違いがとても大きい。
ライブ現場で、客受けする要素として最も大きいのはドラマーの力量だと僕は思います。どんなにピアノやギターが気の利いたことをやったとしてもドラマーさんが今ひとつであると、そりゃもう音楽にならない。
本作のジョーイバロンの演奏を聴くと、そらもう目からウロコな演奏で、パート毎に完璧なフレーズとアイデアを叩き込むわけです。
残る2人のメンバー、もしくはプロデューサーのマンフレート・アイヒャーが「音楽が望んでいるであろうドラマー」を欲したということになります。そりゃそうだ。僕だって間違いなくそうします。

ヤン・クリステンセンの演奏にもとても良い味わいがあるので、そこは実に惜しいところだとは思います。ただあれば渋過ぎて理解には特定の時間を要する(僕の場合は)。何回か聴いて「あれ?もしかして、これ意外にイイのかもよ!」みたいな。

この作品は、JAKOB BROというギタリストがなかなかのメロディメーカーであることを証明するかのような内容です。
しかし、だからと言ってサウンド的に面白味がないのか?と言えば、そんなこともなく、聴いて行くと、歪み系でありながら素敵な音も聴ける。
それは、バッハ的な対位法を使いつつ魅力的なタイム感覚で演奏される「Full Moon Europa」で顕著です。このサウンドの構築は流石です。ベースに朗々とルート中心に展開させつつ、ギターはリズムに幅を持たせた歪み系の音で、陰影の深いテーマを訥々と奏でる。これはたまらない魅力(世界)があります。
何度か繰返して聴くと、このユニットはパッと聴きはサウンド指向で、環境音楽的のようにも聴こえるけれど、その実態は、緻密でしっかりとした構成力のあるバンドであることが理解出来ます。前作から続く浮遊感の在る音、リズム幅が広いところも、よく聴くとインテンポから創出されており、実はとてつもないテクニックを持ったユニットであることが分かって来ます。
その分かって来る過程がまた囁かな楽しさが在ります。
調度これを2度目に聴いた時は、帰省した岩手県釜石市から東京に戻るところでした。釜石駅から急行「はまゆり」が、ゆっくりと離れ始め釜石の町並みを左に見ながら、パノラマが回転するように郷里が離れて行くと、あまりにそのサウンドがハマってしまい目頭が熱くなってしまいました。因に曲は1曲目の「Opal」でした。今でもこの作品を耳にすると「はまゆり」に乗っている気分になってしまいます(笑)。「音楽が持つ人間の心に対する作用」を考えないではいられないです。
こういう音楽は真に美しいのだと思いますし、また奏でている彼らを敬愛せずにはいられません。このアルバムが世に出て良かった!と心から思います。今年前半、飛び抜けて長い時間を共にした音楽です。
僕の囁かな願いは、前作「Gefion」の名曲「Oktober」、ヤン・クリステンセンのリズムが転んで残念だった「And they All Came Marching Out or The Woods」等もリアレンジしてジョーイバロンで再録してみてはどうか?ということです。
ライブ収録でも良いのですが(Youtubeで聴くことは出来ます。案の定、素晴らしい!)是非お願いしたいと思います。

聴くと胸がいっぱいになる / 荒井由美・MISSLIM

Y子の仕業だったと数十年経過して気付く愚かさ。

放課後、一番前の席に座る僕の目は黒板の左下に小さく白いチョークで書かれた「ベルベットイースター」という文字を追っている。何それ?何かのタイトル?

恥ずかしそうに消え入りそうなその字体は今も心に刻まれている。最近、夕暮れのウォーキング時、沸き上がるように気が付いたのだった。その訴えかけるような落書きはY子だったのかと。英語で分からないところを聞きに来る(バカがバカに聞くので解決しません。)ユーミンをエレクトーンにアレンジしたいという相談まで、何しろうるさく付きまとっていたY子は、当時鬱陶しい存在だった。ずっと時を経て卒業アルバムを眺めて、こちらを見つめて微笑む彼女がとてもキレイな女性だったことに気付いたのだがもう遠い世界のこと。デートの一回くらい誘えば良かった。きっと「勘違いしないで!!」って言われたに違いない(笑)
その「ベルベットイースター」は荒井由美ひこうき雲」に収録されている。つまり本作ミスリムには入っておりませんのでご注意ください。

この時代、ピンクフロイドやキングクリムゾン、そして新しくイエスを聴いていた矢先の高校三年生の自分。受験などどこ吹く風。自分の将来のことなど何も考えなかった時代だ。気にするのはバンドが下手なこと。「恥ずかしいから止めて!!」と妹に言われて、こちらこそ恥ずかしい気持ちでいっぱいだったこと。それだけが胡桃大の脳のほぼ全てを多い尽くしていたのだが、年寄りになった今もさほど変ったとは思えない。

三無主義の時代と言われた僕らの時代だ。三無とは何か?

こんな年寄りになってようやく調べた。無気力無責任無関心を言っていたらしい。これに無感動を加え四無主義とも言う。

世相はこういう言葉を捻り出すが、実際の若者がこれに当て嵌まるかどうかは別の話である。このように見える当時の頑迷な年寄や猛烈と言われた企業戦士から相対的に眺めてそのように感じた(見えた)だけだと思われる。

実際のその三無主義と言われた僕らは、なかなかに熱を帯びていたはずだ。

"しらけ"の世代と言われたのは、ポーズ、見せかけであり、その実際は野暮ったくて、やる気満々の照れ隠しというのが本当のところで、その捻くれ具合と天の邪鬼は現代からすれば微笑ましく「ピュアな時代」と言い換えても良いとさえ思える。

さて、本作の脱線具合は凄過ぎるか(笑)この「ベルベットイースター」のことを誰ともなく聞出して、それが荒井由美の曲であると知るのは確か一週間後くらいだっただろうか。夕暮れ時ラジオから聞こえて来たのは確か「十二月の雨」だったと思う。

「うわっ、、変な声!!」(大変失礼)というのが第一印象だった。しかし、どうしてもアルバムを買ってその音楽を身近なものとしてみたかった。魅力が自分の頑迷な心に打ち勝ったのだ。

当時、レコードを買うのは釜石市の青葉通りの四つ角近くに在った「レコードユキ」だった。少し可愛らしいお姉さんがレジに立っているのだが、いつもすこし機嫌が悪そうなのが特長だ(笑)。「ミスリム」を手にしたとき、まずジャケが気に入ったことを覚えている。ただ随分老けたおばさんだな、、というのが第一印象で、この感じ方は実は今も変らない。このジャケのユーミンは妙齢のご婦人みたいである。またそこがとても良いのであるけれど、そういうところに気が付くのはもっと後年である。このように最初のユーミンは必ずしも好印象というのではなかった。声質も、そのお姿も、、高校生の青い僕には理解出来なかったのである。

しかし、とにかくその黒板のベルベットイースターが僕にまるで「音楽のお札」のように強い念動力でレコードに針を落とさせるのである。毎日、帰宅するとこのミスリムを聴いていたと思う。前述した通り、実際この「ベルベットイースター」は1stアルバムである「ひこうき雲」に収録されており、ミスリムには入っていない。そこはおそらくガッカリしたに違いないが、何の事はない。後にこちらも買うことになるのである。本作は「ひこうき雲」と比較すると、更に洗練されている。それは旋律の描くライン、それからバックのティンパンアレーの御大達、またヴォーカルとしてのユーミン、全てが、、である。

作品として優劣を付けるのはこの2枚では行いたくないしあまり意味がないと思うけれど。そして極めつきのソングというのであれば、「海を見ていた午後」と「私のフランソワーズ」ではないかと個人的見解ながら思う。

バックの演奏が秀逸であることは折りにふれて言われることだが、その中でも特にギターの鈴木茂の奉仕度数?がひじょうに高い。あのポヨーンという柔らかなマシュマロみたいな音(その割にはアタックの強い独特なエンベロープの線となる)、ソロで聴かれるヴォーカルに負けない、それでいて変に主張し過ぎない、しかいよく聴くとはやり主張している(笑)その匙加減、作品が彼にそう弾かせたのか、彼がそういう才能なのか、、それは僕も分からないが。何しろこのギターあっての、という感じはする。

ミスリムは、作品・アレンジ・演奏・歌・レコーディングの質感、そういったアルバムに関係する要素全てが理想に近い形で結実した傑作と言える。

聴いていると、繊細な少女漫画(それは例えば大島弓子のような、、、オヤヂの僕が言うのも大変気持悪いが!!)と記録映画が混在したようなある種の浮遊感を持った世界に誘われる。

感動をもたらす音楽は、自分をイメージの旅に連れ出す乗り物のようなものだ。
本作を聴いていると時間が止まり、忘れていた過去にワープしているような感覚となる。それは感傷的なところもあるが、しかしその温度感は決して冷たいものではなく、温かな微風のようでもある。風は世界を巡っている。過去、自分に触れた風は遠い時間を経て自分に出会うことが希にある。そんなとき、人は忘れていた過去を条件反射的に思い出す。ミスリムを聴くとそんなことを考る。

ミスリムは自分にとって、ビートルズと同じくとてつもなく大切な作品です。

滅多に聴くことはないですが、それでも何時でも心の隅に根を下ろしている感覚があります。本作がこの世に在って良かったと思います。

〈加筆・修正 2017.11.5〉