ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

ジャズの可能性・メセニーGP/OFFRAMP

演奏がイメージと結合している。

このアルバムを聴いたのは、貸レコード屋さんが乱立していた頃で、まだ練馬の江古田に居た時分であるから、随分前のことになる。
当時持っていたオンキョーのアンプと中古で見つけて来たマイクロのプレーヤー、そしてこれまた近所の少々胡散臭いアウトレットに転がっていたスピーカ「YAMAHA・N10」が自分の誇る?セットでありました。このアルバムはレコードで聴きたいソースの数枚に入る。パットメセニーGPのリリースしたアルバムはベーシストの変った分岐点により分けられると思う。マークイーガンがエレクトリックベースを弾いていた前期、それをウッドのスティーブ・ロドビーとした後期と。比較してどちらが良いとか、好みであるとか、僕としては珍しくそういった判断はない。どちらにも良いところがあって、気分で選んで聴く形だ。ただ、このグループの全体を通して本作が最も好きなアルバムであることは確か。ここまでイメージの統一された作品はジャズ・フュージョンでも珍しいと思うし、その独特な暗さ、重さはどうだろう。パットメセニーのアプローチは流石だが、特筆すべきはライル・メイズによるサウンド構築、この人ならでは繊細かつ独特なリズムセンスのピアノ、使用していたシンセはオーバーハイムだったと思うが、昨今のシンセとは一線を画す太く温かく広さを感じさせる音。これ無くして本作品の成立はなかっただろう。
後年ライル・メイズは音楽雑誌でこのバンドで演奏して行くことに付いて、随分と愚痴っていたが(笑)それでも、こうして記録された音楽は紛れもなく素晴らしいものだ。鍵盤奏者がギタリストと共に長い期間共にするのは、やってみた者でなければ分からない辛さがある。それはまたギタリストからしても同じことが言えるのだろうと思う。僕も私事ながら、7年程ギタリストと共に作業したことがあるが、ギターとピアノというのは、そもそも相性が良いわけではない。サウンドがぶつかりやすく、混濁しやすいのである。よって本作のピアノとシンセサイザーの使い分け、バランスには慎重であり、試行錯誤が在ったことは想像に難くない。
しかし、本作が多くの音楽ファンに支持を得たのは、こうした裏側の作業が云々ということはあまり関係がないと思う。
作品力に尽きるのである。
つまり同業者のライル・メイズには同情を禁じ得ないが、パットメセニーが仕事をした!!ということに尽きるかな?と。

僕はジャズに対して兼ねてより誤解していたところがあり、、それは以下のような内容だった。
ジャズが作品というよりも演奏内容、そのメカニズムを楽しむという側面。「それの何処が悪いのか?」とも同時に思うのだけれど、おそらく自分の作曲家としての部分が否定的な見方をするのだろうと推察される。
しかし、この1年間、現在活動しているピアノトリオの影響から無意識にジャズに近づいて行ったわけだけれど、このジャンルは一括りは出来ない。多様性があってジャズ自体が試行錯誤している途中に在るのだと思う。
簡単に言ってしまえば、アルバム2枚を比較して「コレとコレ、、どちらもジャズなの?」ということが往々にして多いのである。でも、それはジャズの持つ大らかで自由な最良のポイントだと思う。
その多様性ということで、出現する方向性のひとつ「ECM」。
本作もまたこのレーベルからリリースされている。このジャズレーベルの作品群は、全てではないにしろ、その多くが情景描写に主眼を置いているように聴こえる。そして、本アルバムの更なる要素として、その情景に触れている人間の心理、心の移ろいが感じられる。そこが素晴らしいと思う。
単に「何かキレイな曲だな、、!」と言うのではなくて、その先に何か隠れている素敵なことが在る。深く聴いて行くと、その世界が自分の心に投影される気がして来る。レコードに針を落として、ボリュームを大き目にする。まずドコ、ドコッとまるでピンクフロイドの狂気のようなアプローチで一定のリズムから想像も出来なかった広大な世界が展開され、やがてゆっくりとフェイドアウトしていく。
そして、ボリュームを大き目にしたからこそ分かる、次の"タッタン"というダン・ゴッドリーブ(dr)のフィルイン。控え目ながら気合いの入った導入で名曲が奏でられて行く。そこから最後まで一気にこのアルバムと共に旅を続けるのである。音が終わり自分に帰った時の虚脱感、絵でも写真でも圧倒されることにおいては同じなのだな、、と感じ入ります。本アルバムはCDで所有しておりますが、レコードで聴きたくなります。しかし、またオーディオ道に足を踏み入れるのは我が家の財務省が許可が必要です。道は険しいのであります(笑)

チョン・キョンファを聴く今年後半か?

確かにバイオリンと同化しているらしい、、!

これ完全に白紙から書き直しです。何回か聴いた今現在の感じ方で文を書いた方が良いでしょう。昔の思い出と混濁して美化するのはCD評としては失格でしょう。ということで、本アルバムを聴いて、まず最も聴ける演奏はメンデルスゾーンです。これもまた変化して行くのかも知れませんが。とりあえず今のところ、これが一番素直に心にストンと落ち着きます。もしかすると、それは作曲家のスタンスと関係しているのかも知れません。バイオリニストの技術的な側面を前面に押出したい誘惑には大作曲家の先生達も大人しく従うのみです。本当にイメージ表現とはどういうことなのか?を問いただしたくなる場面もまた多い。まあだからこそクラシック音楽は現代音楽に向って表現手法に試行錯誤を重ねていくわけですけれど。この4つの協奏曲で「こうしてやれ!!」みたいな作為性が最も小さいのはメンデルスゾーンと思います。おそらく彼の人間性が誠実で野心のないタイプだったのだと思います。純粋に良き旋律、良きアレンジを突き詰めており、好感が持てます。僕はこの"メンコン"(音大生・クラシックファンはよくこのように略形を使います。長ったらしいのが多いので、、。)てのは飽きる程聴いて、もう沢山になっておりましたが、こうして他のライバル達と比較すると、その自然な作曲姿勢に心打たれる思いがしました。チョン・キョンファの演奏はこのアルバムに関して言えばこの作品が一番かな、、と率直に思います。意外にガッカリしたのがチャイコフスキーで、これはYoutubeにあがっている凄い演奏からすると、特に一楽章でリズムが悪いところが気になり、また音も荒んだ印象を受けます。何故なのだろう?オケとリズムセンスが合わなかったのか、、指揮者との相互理解が進まなかったのか?は謎。このニ長調の協奏曲はそもそも素晴らしい旋律と、何だかゴチャゴチャしたオーバーデコレイトなところと共存しているような、少し特殊な曲だと思います。チャイコは交響曲でもそういうところがあるのですが、完成に至るまでの紆余曲折を感じさせます。ブラームスの交響曲でも似たようなところがあるように思います。モーツァルトのような一貫性とベートーベンのような精緻なところが欲しいところなのですが、チョン・キョンファの演奏はそのチャイコフスキーのネガを強調するような雑然とした音楽になっていると感じ少し残念でした。この作品は「つまらないと思うなら聴くな!」と言わんばかりに徹頭徹尾、テクニックで押し通してしまえば良かったのに、、と問題発言したくなります。平たく言えば十代のデビュー当時の方が好みということになりますか。それからすればシベリウスはこのアルバムでは中庸な出来。というかチョン・キョンファであるなら、このくらいは当然となる。意外に僕が気に入ったのがベートーベンですね。メンデルスゾーンとベートベーンが良かったとなると、まるで古典を売りとするバイオリニストみたいですが、それは早計でしょう。この一枚でそれを決めるのは乱暴です。もう少し、他も聴いてみたいと思います。またクラシックの深いところなのですが、同じ演奏家でも年代によって全く演奏の傾向が違っていたりするし、また共演するオケや指揮者によっても大きく変わって来る。1枚のアルバムで分かることは確かに少なくないけれど、それで判断するのは止めた方がいい。本アルバムは、4大バイオリン協奏曲を比較しつつ聴いて作曲家のアプローチを違いを楽しむ、ということに(僕の場合)なっております。チョン・キョンファはキャラもとても好きなので、同じ作品で別な年代のモノを追っかけてみたいと思います。おそらく随分違う世界が展開されているのでは、、と推測しております。

仮面ライダー555 / 10年以上前、確かに存在した傑作

ライダーの歴史で希にみる傑作555のリプロダクト

節操なしもここまで来ると良い線行っているだろうか?
遂に小生のサイトにも仮面ライダー登場です。
「トーッッッッ!!!!」僕は年寄りですから何と言ってもあの一時CMでも大活躍していたショッカーの時代、初代の人でございます。では何故にこのリプロダクトと言われる555をここで取り上げたのか?
これは子供が幼稚園の頃一緒に見ていたという懐かしさからなのです。彼がよく歌っていた主題歌で興味を持ったのが始まりです。子供特有のあの不安定な音程でも、その旋律の良さは伝わって来たものです。このリプロダクト、要は焼き直しですか?スケールアップ、クオリティアップ版を聴いてみたくなるのは、そういうことで自然な事だったわけです。

僕はウルトラQウルトラマン世代であり、この仮面ライダーというのは甥っ子達くらいの世代にあたるので、若干の違和感がありました。
まずヒーローが人間と同じ背格好であるのが気に入らなかった。ウルトラマンは一番古小柄な初代であっても30.0mの身長があり、ついで言えば2万才の生命を持っております。そのスケール感においても、特撮の粗末で稚拙なところからも黎明期の仮面ライダーは気に入らなかった。しかし、このテーマソングをきっかけに土曜日の朝、子供と真剣に見るように(笑)なってしまったということです。555はその仮面ライダーの各部デザインで出来が良く、それは子供がお年玉で買ったベルトを間近で見ると明らかでした。ボタンを押すと「COMPLETE」って言うわけだ(!)この作り込みならウルトラマンと遜色ないか、、と安心したものです。

僕は以前から、ヒーロー物のテーマであっても本来的には「可能な限り本編に同化した方が良い」という考えではあります。正直、何が何でもアップテンポ・ハード(メタル)ロック調というところに引っかかりがないわけではないのですが、本作はアレンジ面を追い込んでおり、十分に聴けるレベルまで上げております。

また、本編に登場する555はもちろんのこと、仮面ライダーの歴史上、最高傑作ではないかと思われる「オルフェノク」というキャラ、そのイメージ、何ともやるせないストーリー展開。そういった内容とテーマは良い線、同化しているのかな?と思います。
脚本もとても良いです。ちびっ子達にはとても難しいかったはずですが、そこを気にせずに作り込んだところが立派です。その辺は初期のウルトラマンやセブンと同様でしょう。このCDはそのサウンド面において輪郭鮮明となり、楽曲の良いところを引き出しております。少しだけ惜しいのはTVで使われていたヴォイスの間の手を採用していないところです。何か使えない理由があったのか、もしくはアレンジ上使いたくなかったのかは判断出来ませんが、やはり少し間延びしております。細かいところではありますが、うちのチビはそこのところもキッチリ真似しておりましたので、残念ではあります(親バカ)更に欲を言えば、エレクトリックな全体像で統一したかったのは理解出来るとしてリプロダクトするなら、思い切ったアコースティック楽器の使用、例えば室内楽を導入するとか、金管楽器、木管楽器の小さな編成を捩じ込むことによって良い意味で大きな断層を創出し、単体の音楽としても通用する作品となったと思われます。
素材となる楽曲が決して悪くないので、そこは少し勿体なかったところですね。リプロダクトというのであれば、、ということです。でも、制作現場ではいろいろな制約もあるのだろうし、ライダーファン達の持つイメージを台無しにしたくない、というところもあるのだと思います。
ヴォーカルとしてはコメントでも評価が高いですが、僕も同じく相川七瀬が良いですね。少し下世話なこの感じ、実は嫌いではないです。
そして最後に好きなキャラクターとして、何と言っても木馬勇治(木馬役の泉政行さんは故人となられて久しいです。好きな男優さんだったので残念です。)と澤田亜希をあげておきましょう。 

フルートに俄然興味が行く / パユのモーツァルト

モーツァルト・フルート作品では頂点かも知れない!!

木管楽器の主役、フルート。4リズムと言われるベース、ドラム、ギター(そして我が鍵盤)は別として、このフルートほどご縁のあった楽器もないです。18歳で上京、一浪して音大を目指すことになった僕は埼玉県朝霞台に在る寮に居りましたが、二部屋向こうの一室にフルートをやっているTが居た。これまで様々な音楽家と出会って来たが、その中でも突出した個性の持ち主だった。彼のことを説明していると、それでこのページが終わってしまうので割愛するとして、その彼にフルートの音色のことを教えられたことがある。演奏家によって音色の明暗が別れ、随分違うものであることをランパルとグラーフで同じ曲を聴かせられて勉強させていただいた。
T、ありがとう。今でも憶えているよ。そしてバンドでもまたフルートという楽器との縁は続き、フロントにフルートが演奏しているケースというのは何故か多かったと思う。フルートはピアノで作曲する僕からすると、出来上がりをイメージしやすく管楽器というとこちらからフルートを望んでいたところがあったのかも知れない。そもそも高校時代、衝動買いしたモーツァルトの「フルート・ハープのための協奏曲」が大当たり。今でも時々、聴きたい気分になります。モーツァルトの作品というのは、こう言うとファンに叱られそうですが、どれもこれも「金太郎飴」みたいに似たようなフレーズの組合せが多く、聴いて勘違いが多い作曲家の代表であることは間違いがない。勿論、よく聴けば違っているし(笑)、更に鬼聴すればリズムの妙というのが在ってその切れ味にこのマエストロだけの特長が見られる。何と言ってもモーツァルトの好きなところは、そのスケールの駆け上がりや使い方に躍動感というのか颯爽とした格好良さがあって、あぁ、、やはりこの人、天才なんだな、、と納得するわけです。これほど単純な音使いで全く贅肉のない骨組みだけでこれだけ豊かな世界を構築する作曲家は他には居ない。

このモーツァルトは様々な楽器を使用した協奏曲を書いているが、このフルートはピアノ以外においては最も作風がハマっており聴いていて実に気持ちが良い。本作は勿論、聴き入るということがあって良いけれど、読書のお伴、ストレッチのお伴、お昼寝のお伴、お腹の赤ちゃん、ちびっ子達に聴かせるには最適と言い切ってしまいます。

そして、何と言ってもこの演奏です。フルートのパユは前々から存じておりましたし、昔アバドがワーグナー「トリスタンとイゾルデ」をベルリンフィルと公演した時も同行しておりました。あの時アバドは病気から一旦復帰したばかりでしたが、あれだけ長いオペラを振るその精神力に圧倒されたものです。
正にその組合せでこの協奏曲3点が聴けるというのは何とも"しみじみ"としてしまいます。しかし、このフルートはこれまで聴いて来たこれまでのモーツァルトのフルート曲というのを全く過去のものにしてしまいました。それほどの演奏内容であり、おそらくそれはバッキングを務めるアバド+ベルリンフィルあっての部分もありそうです。
もしフルートという楽器がお好きであれば、是非聴いていただきたいです。その音の出し方、ビブラートの機微、アーティキュレーション、どちらかというとストレートで地味な演奏なのかも知れません。「こうしてやれ」とか「私ならこうする」というエゴが感じられない。通常、であれば聴きやすいけれど面白味に欠ける、、という方向に行く筈なのですが、そんなことは全くない。どうしてなのか昔、バイオリニストのチョン・キョンファがデビューした頃を思い出しましたが、もの凄い超絶技巧によって超えちゃっている演奏と言うことなのでしょう。

聴き手に「惜しいな、ココがもう少しアレだったら、、」などと感じさせることなく豪速球でドーンと3曲を完成させます。全盛期の江川ですね、、こりゃ(笑)僕はこのアルバムを聴いてパユという奏者にとても興味を持ちました。モーツァルト以外も多数リリースされているようですので、聴いてみたいと思います。フルート曲は恥ずかしながら知見がないので、新たな感動がありそうです。

串カツではない新世界!/ オケの達人・ドボルザーク

クラシックを聴かないアーティストは底が浅い?

あまりにベタシリーズというわけだ。今回はそのベタの中でも特別にベタな新世界を取り上げる。
指揮者・オーケストラはクラシックファンであれば、滅茶苦茶に拘るが、僕はとりあえず今回、若干外しつつもある程度無難なところを選択してみました。

コレなら誰が聴いてもOK。

ジャケも良い感じですね。僕は好きなタイプです。
演奏しておりますのは「カラヤン+BPO」と。BPOってのはカラヤンの手勢であるベルリンフィルのことです。因に旧東ドイツ発のベルリン交響楽団というのは別物です。アレはアレでショスタコーヴィチ等を演奏させると、それはもう素晴らしいのですが。本アルバムは、クラシック初めて!という小学生でも、クラシック歴60年という爺さんでも大丈夫。そういうセレクトではある、、、とおそらくは。あれ、、?元気がなくなって来た(笑)
クラシックファンは頑迷な音楽ファンがちょっとだけ混じっておりますので。
ドボルザークの交響曲では最後となる作品であり、人気は8番と二分する。クラシックファンは"ドボ八"と言ってヨイショするのである。
実際、8番は美しいラインを描くことにおいては9番と遜色ない。
しかし、ドボルザークの代表曲は交響曲第9番「新世界」ホ短調、で間違いないだろう。中学生時分、クラシックの中で最も聴いたのがコレだ。
冬は炬燵から顔だけを出し、眠ってしまうとまた第一楽章から針を落として、二楽章の家路で夢路へと旅立つのである。

僕は、長年バンドに関わって来たが、クラシックを聴かない音楽家は底が浅いと思っている。勿論、反論していただきたい気持ちだし(変な話)そうでないことを祈りたい。少々不思議な感覚なのですけれど。しかし今のところ、そういう見解です。
別に練習、研究など大袈裟なことは必要ない。聴くだけで良いのである。
そして、えらく気に入るパート、どうしても心の動かされるパートに拘るだけで、それは何時しか自分のどこかに刻まれ、演奏のセンスとして創出される。あの聴くだけでペラペラになる英会話とは違いまずぞっ!!
ヨーロッパのクラシック以外のジャンル、ジャズであるとかジャズロックの演奏家の描く旋律は全てではないが、これはもうクラシック聴いて来たな、、というのが分かる場合が多い。例えばECMのトーマス・モーガン(wb)なんかはその分かりやすい例だ。パッと聴きで、ブルースからジャズからという王道とは明らかに違うセンスを垣間みることが出来る。

さて本題「新世界」、そのハーモニーと旋律の繊細な関係、綿密に練られた音の重なりはクラシック音楽の中でもひとつの完成形、金字塔と言って良いだろう。また、この交響曲は規模が大きく所要時間は長いが、クラシック音楽を初めて(腰を入れて)聴くという場合にも、良い選択だと思う。
総じて分かりやすいし、聴けばすぐに誰でも「あぁ、、コレ知っている!」と膝を打つであろう「二楽章」の存在もある。
ドボルザークは確かに親しみやすく、ロシア系のショスタコーヴィチやプロコフィエフ辺りと比較すると捻りは少ないのは事実だ。が、その作品力は決して侮れない。
それは優秀な編曲技術が下地にあるからだ。新世界ではそれが分かりやすい形で結実している。
一楽章の重々しい歩みからの新世界への誘い、二楽章の他には例をみない温度・湿度感、三楽章の民族的な色合いを巧みな管楽器アレンジで聴かせる軽快なセンス、四楽章の意志を強さを感じさせる迷いを払拭したような突き抜けたアンサンブルとダサい!ということをもはや超えてしまった旋律(笑)
この作品を聴くと、自己の投影に些かの迷いがあってはならない、ということを教えられる。「こういう僕って少し恥ずかしいな、、、」新世界にはそういう虚弱体質なところが見当たらない。言うなれば樹齢数百年の銘木の様なものだろうか。
とにかく交響曲という形体を十二分に使って、新世界(つまりはドボルザークが見た当時の紛れもないアメリカ大陸というもの)を表現し尽くしているのである。
もしこの演奏で新世界を気に入ったのなら先々、様々な演奏家で聴かれると楽しいです。クラシックは作曲家にもよりますが、演奏家によって驚く程音楽が変ります。それは指揮者の解釈やテンポ感というところが大きいと思いますが、オーケストラの持つサウンドもまたお国柄が出て違って来ます。この指揮者+オーケストラというところでクラシックファンは右往左往しているわけです。また、それが楽しいわけですよ。本作もその土俵に上がることの多い作品です。本来ならチェコ出身の作曲家ですので、ハマり具合としては「ノイマン+チェコフィル」ってところなのかも知れませんが、若干外した選択を行いました。クラシック入門にピッタリな作品は他にも沢山ございます。これから折に触れて紹介して行きたいと思います。

忘れられた邦画のようだ / カルメンマキ&OZ・1st

国産では荒井由美と並んで未だ現在進行形

このアルバムを聴いた回数を数えておけば良かった。というくらいに聴いた作品となります。夕暮れ時、よくウォーキングしておりますが、そのお伴に流しております。本当は夕暮れの景色にはECMのギタートリオが完全にハマっているのですが、本作を聴きたくなるのはあまり時間帯とは関係がないようなので。実際、曲名も「朝の風景」から「午前一時のスケッチ」と幅があります(笑)。
ジャケットがどこやらジェネシスしてますが、内容もまたそれに違わずプログレしております。カルメンマキ&OZってのは結局、不世出のヴォーカルカルメンマキ」と、ギタリスト「春日博文」在ってのバンドなのです。が、そこはそれバンドでありますから他メンバーによって、また首脳陣?のお考えによっても音楽性を大きく変えております。セカンドアルバムにおいてはハードロック寄りなコンセプトとなり、この辺は音楽ファンでも評価が分かれるところではないかと推察しております。個人的には「本作」それから「本作以外」と(随分乱暴ですが)分けちゃっております。

若干問題発言ですが、僕は「この一作目で十分かな」と思っております。初めて聴いたのは高校2年生。我が息子より若い自分が正にこのアルバムと共に在る(笑)。もう40年も心に刻まれ尚現在進行形というのが凄い、というか呆れる。一体何がこれだけ僕を惹き付けるのだろうか?
まず、1曲目「六月の詩」でガツンと来た記憶があります。日本語のロックでも十分に聴けるどころか、海外のピンクフロイドやイエスを聴いた後にコレを聴いても何ら遜色がないと感じる。では、なぜ遜色なし!と感じるのか?を整理してみましょう。整理は苦手ではありますが。

1. カルメンマキの表現力を持って日本語=ダサいロックという概念を超えている。

2. 本作のキーボードに心から敬愛しております深町純先生が名を連ねております。これは実に大き過ぎる要素です。深町純と言えばロックというよりはプログレ、ジャズフュージョン系のアーティストです。実際、その芸幅の広さには呆れます。実に渋い演奏を繰り広げており、それは単純なピアノ四つ打ちでも(つまりはレット・イット‥ビーのような、、笑)味を醸し出しており、このアルバムが「ちょっとアートロックしました、、」みたいなレベルを遥かに超える推進力となっているわけです。その格調高き鍵盤の世界を是非ご堪能ください。中高生キーボーディストの皆さんも聴いてみてくださいね。理想的なキーボード教材、そして音楽教材であることは確かです。ピアノは勿論のこと、オルガンプレイも実に気の利いた演奏が満載です。

3.リズム隊のアプローチに多様性があり、カラフルで緻密にアレンジされている。鳴瀬善博と言えば今ではチョッパーで有名ですが、ここではその前の彼の演奏を聴くことが出来ます。当時、ティム・ボガード等がお好きだったのですかね、、そういう方向です。もっと旋律に寄っており、僕はこの当時の彼のベースがとても好きです。

4.作品力が半端ではない。作曲家・春日博文、ここで出し切っちゃったか!!みたいな感じがあります。スティーヴンキング・シャイニングみたいなものか。あの風貌からは想像出来ない(失礼!)美しい世界を見ている人ではないかと、それも恥ずかしい程に。でないとああいう曲はなかなか書けないと。ギター演奏も練られており、ソロパートも予め書かれたもの、という気がします。

以上、整理してみました。しかしこうして整理してみても音楽に対する言葉など知れており、最初から限界点が低いわけです。
曲としては「私は風」が有名かつ本作の中心に置かれるのでしょうけれど、脇を固めております「朝の風景」「イメージソング」はもはや日本ロック史上屈指の名曲と言って良い作品であり、初期のユーミンでさえ霞む素敵な柔らかさを内包しております。中高生、いや、小学生でも大丈夫かも知れない(僕などより精神年齢高そうですからね)。カルメンマキの力強い声で「愛していたの」と歌われるとちょっと凄過ぎて腰が引けるところがありますが、、。

昨今の子供は洋楽をあまり聴かないそうです。であれば、コレを聴いて欲しい。この音楽の裏側に潜む何とも熱く重く、そして独特な暗さを持つ時代性というもの。素直に聴けば誰にとっても座右の名盤となるに違いありません。(素直に聴く、というところが実は難しいのではありますが。)
根暗ではあるが決して後ろ向きではない。そして音楽というものが曰く言葉に出来ないイメージを表現すべき「ある種のツール」であることに気が付くに違いない。僕は、最近でこそ単一テーマ、シンプルな構造を標榜しておりますが、それまではこの"マキOZ"の影響から逃れられず大変なテーマ過多に陥っておりました。そもそもプログレというのはテーマ過多であり、手法が大袈裟で組曲のようなデカイ構築を好むわけです。本作の成立ちもまたそうです。そういうことで言えば少し古いのかも知れません。しかし、音楽の流行はメビウスの輪の様に循環します。あっさりとした音楽、小さな音楽、涼し気なビートの後には、もしかすると温度の高い音が到来するかも知れません。暑い日だからこそ「焼き肉」を食べるのです。と脱線しつつあるところで、筆を置きましょう。

〈マメ知識〉
このアルバムの別な側面として、初心者キーボーディストにとってコード進行の勉強になるという要素が散見されます。例えば朝の風景という曲があります。Key=Cで考えますと〈 C→D→F→C 〉と行くわけです。さぁ、、このDとFの意味を考えてみましょうか。下手なコードブックを眺めるより身体にしっかり入って来ます。

〈加筆・修正 2017.11.3〉

ディシプリン、これが "宮殿" と同じバンドなの?

つまりは違うバンドになったと。変化幅数キロにおよぶか?

やれやれ御大と言われるわけです。本作がリリースされた時点では、拒否反応を示した音楽ファンも多かったと聞きます。そのリセット具合、その断層の深さが半端ではない。メンバーのキャラによるところも大きいでしょう。旧クリムゾンと共通するのはロバートフィリップビル・ブラッフォーッドの二人というところだけかも知れない。このアルバムはクリムゾン歴史の折返し、分岐点、こういう場所に置かれるモノであろうと思う。使用前/使用後という言い方でも良いかも知れない。
一体、どういう体操をしたのか、、もしくはどれだけ変なサプリメントを注入したのであろうか。

大リーグ養成ギブス(巨人の星参照)的な飛び道具を使ったというのなら、それはエイドリアン・ブリューの"像の鳴き声"がそれに相当するに違いない、、、?
メンバー加入によるところも勿論大きい。
上記のエイドリアン・ブリューに注目が集まるが、どうしてベースのトニー・レヴィンもまたこのサウンドに対する貢献度は高い。
トニー・レヴィンはジャズ・フュージョンの人という印象があったので、最初は少し意外な感じもしないではなかったが、いやはやどうして、、そのサウンド、描くラインは流石にロックだけしか弾けまへん!!というのとは一線を画している。
彼を加入させたロバート・フィリップの、あまりに大きなファインプレイだったと言えるでしょう。
ギタリストもベーシストもモードを使えるかどうかで、大きな差異が出ると僕は思う。
例えば、ベーシストは「ペンタトニック」でチョッパーという、言うなれば「客は喜んでいるフリをしている安っぽいサーカス」といった音楽を封印することから進化が始まるのだ。
クリムゾンが他のプログレユニットと大きく異なるのは、時折描かれるラインの形ということになる。これにマイルスのモードが深く関係している。
このバンドはデビューアルバム「宮殿」の頃からジャズの方向を眺めているところが散見され、そういうことで言えば実は音の使い様に於いては一貫しているとも言えるのかも知れない。
ただ、本作が大きく異なるところは、そのリズムセンスであり、
ポリリズムを音楽の中心に置いたということになると思う。
このポリリズムとギターの楽器としての機能は、こちら鍵盤陣からすると、憎たらしい程にハマっており、その織り成す幾何学模様はペルシャ絨毯のようである。
また、それをバックに歌うエイドリアン・ブリューのヴォーカルは、対象的に熱を感じさせるものであり、感情の機微を捉えたダイナミックなものに感じられる。
僕は、この時期のこのユニットを渋谷公会堂で聴いたことがあるが、何が信じられないかと言えば、この複雑極まりないポリリズムを演奏しながら全く次元の異なるリズム感で歌う彼の化け物具合ということだった。
「おかしいのじゃないか?この人」そのくらいのショックを受けたと。。
同行した嫁は客が皆だったというところにショックを受けておりましたが(笑)
あくまでも「個人的な好み」ということになりますが、より肥大化した現ユニットよりもこの4人で演奏した数年間がクリムゾンの最も好きな時期とハッキリ言える。
良き作品、良き楽曲ということになれば「宮殿」や「アイランド」等も捨て難いが、結局、演奏内容、サウンド、ヴォーカルに対する自分の好みからすると、クリムゾンのベストアルバムは本作かな?と朧げながらではありますが結論付けるのでした。
クリムゾンが初めてであれば「宮殿」と本作にトライするのが良いのではないでしょうか。そしてどちらも同じバンドであることに笑ってしまうことでしょう。
ロバート・フィリップ「我が音楽人生!」ということになりますか(笑)

Ben monder / 評は何度も聴いてから、、!

Ben Monderはアメリカ合衆国のギタリストです。

現在(2017.12.28)最も聴く事の多いアルバムです。何度聴いても飽きないスルメみたいな作品と言えましょう。そして、この音楽は少し聴いて何となく評を書くというのは駄目ですね。数ヶ月聴いた今、自分の中でようやく着地した感があるわけです。最初はヤコブ・ブロに似ている、、などととんでもないウソ?を書いてしまいました。サウンドも、作られている音楽も違うものです。似て非なるものではなくて、最初から違っております。ただ、音価を長く取り、空間的というか浮遊感の強いところは共通しているので、最初に受けるイメージとして、どうしても比較にあがってしまったのだと思います。
好感が持てるのは、そのシンセが黒子に徹して変に電子的なイメージを出していないところ。MIDIという規格がある。MIDIが出て来てからシンセをはじめとする機材のセッティングは大きく変わった。(MIDIは機材を接続する規格です。簡単に言えば、シンセを2台MIDIケーブルで接続すると片方を弾くと受け手側のシンセも同様に演奏される、ということになります。これはシンセだけには限りません。あらゆる機材にMIDI端子は用意されております。)

しかし、このMIDIの匂いがするものを僕はあまり好まない。電気的というのは大いに興味を持つ、しかし電子的というのはあまり好まない。これは勝手な言葉のイメージだと思うのですが、電気的という方がノイジーであり、どこかに空気の入る余地がありまた立体性を感じるわけです。
如何にも国産メーカのプリセットをそのまま使いましたというような質感、それは耳障りで必要のない音の厚みであることがとても多い。
本作では、それが抑えられてシンセの押し付けがましさがなく、かつ存在の必然性が感じられます。
流石にECMの出す作品はひと味違うところではあるかと。
2曲目となると、本性が出て来る。
このギタリストのサウンドアプローチ、作品力は他にはない確立されたところがあり、聴いて納得させられます。
演奏においては、ドラムのポール・モチアンがやはり素晴らしい。
最近、僕のイチオシであるジョーイ・バロンとよく似ているが(というかジョーイが影響を受けているのか。頭もスキンヘッドだし、、笑)若干、ジョーイの方が猛々しくタイトで切れ込みが鋭い。しかし、本作において御大の演奏はとても自然で流麗であり、時折「ハッ!」とするような素晴らしいリズムセンスが光っている。その音の出し入れ、無音から次第にクレッシェンドして行く場合などに品格があり、それだけで本作のインパクトが増して来る。他のドラマーと例え同じリズムアプローチをしたとしても、その抑揚の付け方、音楽に対する寄り添い方で、全く異なる世界を感じさせる。
シンセが入っている分、音の壁は厚く、密度の濃さを感じるが、さりとて聴き難いわけではなくサウンドの組立に慎重で緻密なギタリストであることを伺わせる。
ギタリストというのは大体が深く論理的に考えるタイプが多いのだけれど、おそらくは同じ集合体であろうと思います。
音楽内容は、正にイメージ表現の世界であり、散歩に同行させるとハマりそうです
ECMの音楽は総じて夕暮れの散歩にハマるわけですけれど。これまた例外なく。
少しだけ言わせてもらえば、もう少し音価を短くとったフレーズを前面に出して欲しかったという気がします。サウンドアプローチに主眼を置き、大きな幅を持たせたかったところは理解出来るのですが、散見される魅力的なラインを聴くと少し惜しいです。
もしかしたら、その出し惜しみの加減もまた計算の内なのかも知れません。
もう少しシンプルな(例えば、ギタートリオのような)編成のアルバムも聴いてみたいと思います。この評は加筆、修正は2度目となりますが、流石にこのギタリストが浮遊感だけで勝負しているわけではないことが分かって来る。そのコードプログレッションと、選ばれる音は素晴らしい品格を兼ね備えており、こういうギタリストはテクニックばかりに頭が行っている国産ギタリストではとても及ばない。長く聴けるアルバムというのは古今東西、実はそう多くは存在しない。その点クラシック作品というのは、やはり作品力では次元の違うところがあるのかも知れない。しかしこの本作は聴く度に発見があり、何やら宝物探しのような風体でもある。やたらと音響方向に音が行っているので、つかみ所がないけれど、音楽としては唯一無二、他にこういった作品は見当たらないという気がする。ベースを排したところから生まれる可能性は僕もベースレストリオを長くやった経験があるので、自分なりではあるが理解しているつもり。現代的かつイメージを前面に押出して行く音楽を標榜する場合、場合に寄ってはベースは邪魔な存在となる(というのも失礼な言い方だけれど)。逆に言えばベースはそれだけ音楽において重要なポジションに在ると言える。これを排するのは音楽の要素を一度ニュートラルに返して、白紙の状態に音を置いて行くことになる。
本作を聴いていると、その凛とした佇まいに、作り手のストイックな感性を垣間みる事が出来る。まだまだ聴いて行くことになりそうです。自分の中においては間違いなく名盤でしょう! 〈加筆・修正 2017.12.28〉

Mats & Morgan / 北欧を代表する変態ユニット

凄過ぎて、そろそろ隠居するか?という気分になってしまう。

ということで、かつて自己顕示欲の針が振り切れてメーターから飛び出していた僕でしたが、情けない有様なのであります。世界は広く深い。様々な化け物がウヨウヨしているのでした。
ただの手数王ではない手数王「Morgan Agren」と天才に奇才を掛け合わせた全盲のキーボーディストMats Obergから成るバンド。
本作はデビューアルバムとなる。
1996年だから随分前になるが、ドラムの演奏内容などは最近のものの方がより洗練されていることは確か。
しかし、より無駄を省きソリッドになった新しいものからすると、この「気の赴くまま突っ込みました!」状態の本作は、ゴチャゴチャとしてはいるものの、その毒性はずっと強い。

キングコブラ100匹分くらいか?

全体としてキーボードを主体としたサウンドで、一辺倒になりがちなサウンドを聴いたこともない妙なフレーズのオンパレードで回避している。
これは、僕の好みということになるのだけれど「ギターを中心としたサウンド」の方がよりアルバム全体を飽きることなく聴くことが出来る場合が多い。シンセやピアノで空間を埋められると息苦しくなってしまう。
そこで、現在僕が好きなバンドは現在では殆どECM・ギタリスト関連です。
この北欧出身の化け物バンドは例外ということになりましょうか。それと忘れちゃいけない「ELP」と。おっと更に「クラフトワーク」を入れておかないと、、、、。

うん?何だ!鍵盤だって頑張ってるじゃないか。

さて、今回脱線がひどいですな。列車(自分のこと)をレールに乗せるとしましょう。
本作、触れる回数を重ねて行くと、自分自身の音楽のつまらなさに呆然とするわけです。そしてモチベーションメーターの針がレッドゾーン示すと(イメージ:キングクリムゾン「RED」裏ジャケ)。
それほどに、クラシックから現代音楽からジャズまでボーダーレスに無邪気にちゃっかりと使い倒しております。一体どうしてこれほどの吸収力と創出するだけの力を持ち得たのでしょうか?
それはMatsの「心」にこそ秘密があると思う。テクニックは結果として在るだけで、それよりも起点となっている色鮮やかな小映画みたいなモノが感じられる。それを音に転化するフィルターの性能が素晴らしいと思うわけです。
そのフレーズの突っ込み具合は恐ろしくなるほどで、これを四六時中聴いたらまず間違いなく自分の音楽性に影響が出るのは確かだと思う。
つまり、音楽家が聴くというよりは「音楽ファンの宝物」のようなものではないだろうか。元々はザッパのコピーバンドという成立ちだから聴いてすぐにザッパカラーに気が付く。
ザッパに深く傾倒し、それが音楽性に色濃く出ているバンドというのは国内外問わず少なくない。ザッパは中毒性があり、あの変則的なリズムの割り方とフレーズの音使いは、どうしても一度は真似をしたくなるのである。
しかし、オリジナルを真似ることはそれを超えられないことを意味する。賢い聴き手は最初は飛びついても「それならザッパを聴けば良いじゃん!」と早晩気付くのである。

昔、ポストユーミンは確かに存在したのである。しかしそれなら例え歌が下手であってもユーミンを聴いた方が良いのである。
そういうことなので、本作も時折(ザッパ臭が強過ぎて)、閉口する部分がないこともない。
しかし、1stアルバムでありながら彼らだからこそ成し得たザッパとは違う、もっと異質なイメージもまた同居しているのも確か。
本作は言うなれば、甘ったるいマシュマロのような音楽だ。そして、何故だろう?先ほど歩きながら聴いていると、万華鏡の様にクルクルと回っている判然としないイメージ(アメリカ版のアニメのようでもある。スーパーマンやバッドマンがニヤリと笑って、自分のことをジッと見ているような)が脳裏を過る。
そう、このユニットの特長は他のプログレとは一線を隔ててシリアスではないのである。どこかスポンジのように柔らかく、例えて言うなら温暖な瀬戸内地方のような音楽である。
それでいて、頭がおかしいのじゃないか?(褒め言葉です。)という程のテクニックというところが面白く、また同時に狂気を感じるところだろうか。
そういえば、Matsはキーボードを弾いている時に、楽しそうに回り出すことがある。
あれが心に残っていてシンクロするのかも知れない。
ひとつ言えば、この中に陰影の深いピアノ曲を短く入れたら良かったのに、、と思う。それをアルバムのヘソにあたる中心に置けば、少しやり過ぎなとっちらかった音楽に中心が与えられてスッキリとした聴きやすいものになったような気もする。
あまりに凄過ぎる音楽は、作品のどこかで、一旦聴き手を解放してあげた方が良いと思う。でないとゲッソリと疲れてしまい、せっかく面白い音楽でありながら昔の言葉で言う「針が擦り切れるほど聴く」という音楽家にとって「お客様は神様です」的な状況には成り難いと思うのです。
こういう音楽はたまに聴くところで良いのかも知れませんが、、、、。

「お前は年を重ねて、聴く力が衰えているのではないか?」と言われれば返す言葉もございません(笑)
これはもう、マニア達の音楽力を計る踏絵みたいなものかも?

いぶし銀的な存在「マジカル・ミステリー・ツアー」

作品力で勝負ならビートルズの中でもベスト3に入るか?

アルバムが単に良き作品の集合体であるというなら、このアルバムは間違いなくビートルズの中にあっても上位にランクされると僕は思う。ポールの作品に偏っているものの、例えばビートルズ全体の作品群の中において特異性の高いものとして僕は2曲あげる。そのひとつはリボルバーの「Tomorrow never knows」そして本作の「I Am the Walrus」となる。勿論、個人的見解です。
ビートルズは風変わりな曲が少なくないから記憶の糸を辿るとまだまだ出て来るかも知れません。
この「I Am the Walrus」はジョンの作品ですが、凄いことになっております!そのサウンド、SE(サウンドエファクツ・つまりは効果音)の使い方、世界観、独特な旋律とビートルズならではの独特な引きずったような重さを持って聴く人を引きづり込みます。
そう言えば、先頃ご紹介したUAのアルバムにもこの辺りに影響された曲がありました。ビートルズからネタを頂戴するバンドは実に多いですが、意外にこのビートルズの中では外側に置かれているナンバーから持って来る場合が確認されます。
ストレートに美しいとか、軽快で聴きやすいというのではないので、ビルボードランキングも13位までしか上がらなかったという記憶があります。(その後の上下は分かりませんので、朧げな情報です。)
ビートルズにしては惨敗でしょうけれど、流石の熱きビートルズファンも当時この斬新なサウンドは敷居が高かったのでしょう。
僕は、今もってこの曲の表現力を尊敬しております。
これが在るだけで、本アルバムのランクはずっと上がります。
調べてみますと後年ポールはこの曲をジョンの最高傑作と評したそうです。

「泣けてきます!!」

ジョンにとってポールは最大の理解者だった?としみじみとしてしまいます。
しかしこれだけではない。佳作とも言えるイメージですが、聴けば驚くべき美しさを持つ(これぞポールの真骨頂と言える)「Your Mother Should Know」が脇を固めており、このアルバムの恐ろしい程の作品力を垣間みるところではあります。
この曲はとにかく素晴らしいラインを描いております。実際ポールには拘りが強かったのでしょう、丸一日かけた収録をボツにしたくらいだったそうです。
僕もよく作品の改訂でメンバーから顰蹙をかいますが、いやいやビートルズとは比較にならないですね。もっと見習いたいと思いますが、しかしそこには他メンバーの理解と忍耐が必要なのです。
ビートルズのリハーサルを映したビデオを見ると、皆疲れ果てて目がどんよりして独特の表情です。ジョンが、ビートルズの再結成を聞かれて「実はやりたいとは思っているんだ。でも、今の自分にあの24時間音楽漬けという生活が出来るだろうか?」という内容をインタビューで伝えておりました。
確か「ダブルファンタジー」リリースの直前だったと思いますが、もしかするとこのアルバム後、再結成が実現したのかも知れません。残念なことです。
このアルバムに聴き手が入り込んで行く導線としての役割は「Hello, Goodbye」と思うのです。実は、以前やっていたユニットで、この作品のギターのカウンターラインのようなイメージで演奏して欲しいと伝えたことがあります。あまりにもシンプルな「ドレミファソラシド」という(それだけではないですが、、。)フレーズですが、主旋律を押し上げる考えられたラインです。
しかし、この曲をよく知っていることが前提となるこの指示は理解されなかったと感じました。流石のビートルズでも世代によって聴く方は少なくなる、ということらしい。そして忘れてはいけない「Blue Jay Way」、ジョージがタダモノではないことが良くわかるプログレッシブです。ビートルズって僕の中では立派なプログレバンドなのですが、その理由(要因)がこの曲にも横たわっております。この不思議具合、浮遊感、他のバンドでは絶対に真似出来ない部分でしょう。

流石のビートルズでも世代によって聴く方は少なくなって来ます。
もし、音楽ファンにビートルズでオススメアルバムを聞かれたら、もしかすると本作を進めるかも知れません。
作品それぞれの出来が粒ぞろいで、しかもビートルズの中では後期にあたりますので、それほどの古さを感じないはずです。
本作と「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」は近似性がありますので、どうしても代表的アルバムの影で目立たない可哀想なところがあるような気がします。
しかし、その音楽内容はタメを張っております。是非、ご注目のほど!!