ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

これを個性と言う/ゲルニカ・改造への躍動(拡大版)

戸川純というなら、、僕の場合「玉姫様」よりはこちら?

最近、喉に小骨が刺さったように(この表現をネットで調べようとすると恐い病気の話ばかりとなる、、笑)忘れられたバンドとその展開された世界。それが一体何だったのか?
遅い夕食(肉じゃが+ツミレ汁)をとりながら、このCD評に肝心なバンドが漏れていることにふと思い当たりました。その昔、戸川純は「ヤプーズ」というバンドをやっておりましたが、当時僕はのこのバンドの「玉姫様」ってアルバムを持っておりました。しかし、彼女のヴォーカルを楽しく聴くなら「ゲルニカ」ということになると思います。〈怒られないうちに書いておきますが、「ヤプーズ計画」は間違いなく名盤でありましょう。〉ゲルニカ戸川純と作曲・キーボード担当の上野耕路、プラスして歌詞・アートワークを担当していた太田螢一を加えた三人のユニットということになります。戸川純の個性で成り立っているところは確かにありますが、しかし、このユニットの最たる特長はその音楽内容そのものにあります。交響曲管弦楽、協奏曲といったクラシック音楽の特徴的な要素を数分の小さな尺に大袈裟な手法でぶち込むと。シンセのこれでもか!という程の「オーバーダビング」、裏方ながら"絶対的な存在感"際立つリズムボックスの組合せがサウンドの要です。おそらくは「Dr.リズム」辺りではないかと思われます。
「TR606」や、まして「TR808」ではこのようなチープ具合にはならない。リズムマシンはドラムに特化した自動演奏装置の事。作成者が任意にプログラムすることが出来る。Dr.リズムはRoland傘下のBOSSがリリースしたコンパクトなリズムマシン。長年、改良を続けて新しいモデルを送り出すが、ゲルニカが使ったのは勿論初期モデル、かなりの力技を使わないとこの音楽の成立は難しい。TR606・808はローランドがリリースしたリズムマシン、共に多方面で使われ特ににTR808は愛称を「ヤオヤ」と付けられアメリカのソウルシーン等でも活躍した。

それにしても、プロコフィエフからストラヴィンスキー、はたまたヨハン・ショトラウスまで登場するパロディとパロディのぶつかり合いで、凄い密度感のシンセサウンドに呆れる。しかし、それも電子的でもなく、MIDI的でもなく、どこか微笑ましい電気音楽なのである。しかし、こうしたクラシック調音楽全開(全て上野耕路が作曲したオリジナルとなる。)の上で、オペラ調で歌う戸川純のぶっ飛び具合がまた素晴らしい。これを憶えて歌うだけでも大変だったに違いない。これを聴いたのは随分昔になる。当時、ジャズスクールに一緒に通っていたN君と江古田の貸レコード店(死語)で借りたのがコレ。二人でゲラゲラ笑いながら聴いたのを憶えている。彼が聴いて欲しかった曲は「動力の姫」だが、実はなかなかの旋律を持つ「カフェ・ド・サヰコ」「曙」楽しさ満載の「潜水艦」、本当に登山しているような気分になる「夢の山嶽地帯」等、魅力は尽きない。また本作は初期のアルバム収録の作品が網羅されており、音質も2016年のリマスタリングにより質感が圧倒的に向上している。僕としては、あのチープだったガサガサした音こそゲルニカだと思うところがあるので、胸中は複雑なのでありますが。しかし、ゲルニカ初心者?(是非、頑張って聴いていただきたいです。)にはこちらのキレイな音の方がより入り込みやすく作品の機微が分かって楽しい気分になれるでしょう。この限界を突き抜けたような個性に入り込めるかどうか、それは聴き手の踏絵のようでもあり、音楽IQ(数値が高いから良いとは限らない)のメータとも言えるかも知れません。まあ、これを嫌いだ!と言っても全く問題ないと思います。「こんなの受け入れられない」ということもまた感動のひとつ。数多の音楽がこの世に在れど、ゲルニカほど白黒ハッキリ付けやすい音楽もそうないだろうと思います。余談になりますが、ゲルニカのライブは一度見た(聴いた)ことがあります。神保町の教育会館というところでしたが、確かチェロとピアノを中心としたシンプルな編成ながら、しっかりゲルニカを再現しておりました。戸川純上野耕路のMC、マニアな音楽と共に今でも印象に残っています。こうした音楽を生み出した背景にはやはり、¥(エン)レーベルを主宰した細野晴臣の存在が大きいでしょう。僕は国産音楽に限って言えば、この辺の時代が一番楽しかった。また違った形で自分の想像を超える音楽の波が来ることを願っております。更に脱線しますと、戸川純が影響を受けたアーティストとしては「Phew」ということになるそうです。なるほど、少し上ずった感じの音程の取り方等に影響が見受けられます。しかし、戸川純Phewほどには音痴にはなれない。そこに決定的な違いがあります。でも、音痴になれないから駄目!!、というのでは可哀想ですよね(笑)このレーベルで他に聴いていたのは「インテリア」や「立花ハジメ」です。今も現行型の音楽として十分に応えてくれます。否、、それどころかこちらの方がずっと面白いかも知れない。こちらも機会があったら是非♬

摩天楼サウンド/マイケル・ブレッカー+クラウス・オーガーマン

こう言う音楽って売れないのだろうけれど、、。

悔しいなぁ、と思うのです。結婚前にレコードで聴いているからおそらく28年くらい前に耳にしていると思う。
今聴いても、全く古い感じがしない。
むしろ新鮮に思うくらいだ。大体、こういったアプローチのアルバムリリースは例え欧米であっても希なケースではないかと思う。当時これだけの売れっ子を集めて収録するのも緻密なスケジュール管理が必要だったに違いない。それにしても、この表現力はどうだろう?頭が地にくっ付きそうなくらいにショックを受ける。マイケル・ブレッカーのテナーサックスはそれは美しく、この夜のニューヨーク(でしょうか?)、その摩天楼のパノラマを音にし尽くしている。これだけイメージが的確に表現された例を僕はあまり知らない。まるで、自分がヘリコプターにでも乗せられて上空からニューヨークの夜景を眺めているようだ。この「音楽の表現するイメージ」ということで、思い浮かんだのは「現代音楽の寵児」と言われるリゲティのピアノエチュードから「」だろうか。本作と共にイメージ表現の素晴らしさを教えてくれた例として記憶に留めておきたい。タイトルにはマイケル・ブレッカーとクラウス・オーガーマンと在るが、これは実質クラウス・オーガーマンのアルバムではないだろうか。しかし、クラウス・オーガーマン一人の名前ではセールスにならないからフューチャーしたサックスのマイケル・ブレッカーと併記したのではないかと、捻くれている僕は勘ぐってしまう。(このサックスがなければ成立しないこともまた事実なのだけれど。)
それにしても、このオーケストレーションの妙、美しさは筆舌に尽くし難い。

クラウス・オーガーマンを知ったのは、確かNHK/FMで松任谷正隆さんが紹介してくれたからです。彼がそのオケの高域の音と音をぶつけながらも隠し味として鳴らし、アヴォイドしていることを逆手にとって美しいサウンド表現としていることを、説明してくれました。僕はそれからすぐにこのアルバムを買いましたが、その技術的なことよりも、全体のサウンドから受ける世界観の凄さ、眼前に広がる景色に圧倒されてしまいました。
音楽がこれだけの力を持てることに圧倒されましたが、しかし同時に、その頂に辿り着くまでに、一体どれだけの勉強・研究と実践が必要なのだろう?と愕然とするところもありました。
このページを書くにあたって久方ぶりに、本アルバムを聴きましたが、その感動具合には変化はないのですが、更にリードの旋律がとても良いことに気付かされます。この美しいラインを演奏させるにはマイケル・ブレッカーというのは必然だったのでしょう。今は亡き天才(「天才」という言葉は好みませんが、敢えて)サックス奏者を偲びつつ聴くには最適なアルバムであります。また、このオケを支える他の演奏家達もまた実に良いアプローチをしております。ドラムもこの音楽内容からスティーブ・ガッドでないとハマらないですね(笑)まだ若手であったであろうマーカス・ミラーのクレジットも見えます。
そして無視出来ないのが、このレコーディング技術です。オケと対峙するドラム、サックス、エレクトリックベース(時折ピアノの刻み等も入りますが)、実は多くの技術が結集してこの立体感溢れる音楽を記録しているわけです。繊細極まりないオーガーマンの弦アレンジとサックスとのバランス。そこには、完璧な収録からミックス・トラックダウン作業を垣間みることが出来ます。勿論、マスタリング技術も然りです。

当時の米・楽壇の勢いを感じさせる優れた作品という見方も出来るでしょう。本当はこういう音楽が売れて欲しいのだけれど、、、。無理か。。ジャケットのデザインも音楽内容をよく表しており、とても好感が持てます。

吉田美奈子/長く身近にある「声」

ヴォーカルアルバムでは珍しいイメージの押し出し

吉田美奈子は愛とか恋だけではない、イメージを歌える演奏家に近いヴォーカリストだと思う。
僕は「ヴォーカリストで誰かイイ人いない?」と聞かれたら迷わず吉田美奈子と反射的に応えると思う。これまでの人生、最も暗かった音大時代、クラシック音楽をやっていくことに反発していた頃に聴いたのが本作となる。陽のあたらない四畳半にアップライトピアノを押し込んで、小さなテーブルひとつの部屋。当時の僕にとってこれは別世界に連れて行ってくれる温かな光のようなものでした。
さて本題に入って行きましょうか。
作品力、バックを固めるアーティスト達もまた素晴らしいけれど、何と言っても吉田美奈子の場合は「声」が中心線に在る。日野皓正がどんなに気の利いた(それはもう素晴らしいソロですが)ラッパを吹いても彼女の声は微動だにしない。高域の透明感、低域の官能的な具合は一度ハマってしまうとなかなか抜け出すのが難しい。どこまでも延びて行くような錯覚を憶えるような人間離れしたヴォイスはライブで聴くともう少し暖かみを感じさせるものだった。本作はスタジオ録音では5作目ということになるらしい。前作とは方向性をガラリと変えている。バックに配されているのはジャズ・フュージョン分野の誰でも知っているアーティスト達であり、特にリズム隊の村上ポンタ秀一高水健司が良いアプローチをしている印象。ポンタさんは先ごろお亡くなりになったが、このアルバムを聴くと他では聴けない独特なリズムセンス。聴いてそれとすぐわかるアーティキュレーションが若々しく、この頃バイトしていたヤマハの特設ステージで聴いた(見た)ドラミングと繋がってくる。本アルバムは最初聴いた時から、その音質に違和感がありました。響きがデッドでまるでどこか学校の教室でテレコで録ったようなイメージ。平たく言うとエコー感がないというのか。

それは後々調べて分かりましたが、これは一発録音なのです。しかも驚きなのがヴォーカルも同時に収録されているらしい。
なるほど、一発で録る場合(つまり時間を置いてオーバーダビングを行わない。スタジオライブ状態である、ということ。)の他楽器の被りを排して臨場感を前面に出そうとすれば、このようになるか!というところです。これは演奏が頑張らないと形にならないのだけれど、そこはそれ手練ミュージシャンの集合体ですから逆手にとって、とても魅力的な音楽に仕上がっております。演奏の息づかいが届くような、素晴らしい録音アイデアですが、こうしたレコーディングの持つ方向性は吉田美奈子の音楽性にとって重大な影響があるはずです。個人的には本作が彼女のアルバム中、最も本来的というのか根っこの部分に寄り添った制作だったのでは?と思います。彼女は曲を作る時点で全体イメージが固まっており、アレンジやスタジオ作業においてその「孤独から見えたの世界」を変えられたくない!という気持ちが強いのではないかと推測されます。そういったことから本アルバムは、妥協点を限りなく削りとった吉田美奈子そのものである、と言ってもイイと思う。ちょっと大袈裟だけれど、、笑
荒井由美も、大貫妙子浅川マキも最初に聴いた時、その違和感は絶大でありました。そしてまたこの吉田美奈子の違和感もまた負けておりませんでしが、自分が長く聴くことになるヴォーカルの声というのは仕切り線がとても高く、そのユートピアは乗り越えた先にあるわけです。僕はどちらかというゴスペルとかソウルに傾いていった時代より、それ以前のジャンルのハッキリしない本作が好きです。ここに吉田美奈子の起点、中心が在るというのか。きっと、それは僕の勝手な「そうであって欲しい」という願望が書かせているのかも知れませんけれど。最後にこのアルバムで特に好きな作品は、何と言ってもタイトルの「トワイライト・ゾーン」、そして「恋は流れ星」です。余談ながら「恋の流れ星」のポンタの演奏は、スピード感がとても良く、こうした歌のバックであっても分かりやすい形で表出しております。随分と抑えた演奏ですが、それでもフィルインでクレッシェンドするようなところに彼らしい音楽性、歌っている感じがあって、こういうドラマーはもう出てこないかも知れない、とシンミリしてしまいます。このように本アルバムは演奏も楽しめますので、楽器をやられている方も是非!
〈加筆修正:2021.04.28〉

大貫妙子「ROMANTIQUE」/「雨の夜明け」が、、。

品のある旋律、そして「声」

荒井由美ミスリムが、今もって国産ポップスでは名盤としたい。しかし名盤も数聴いていては悲しいかな飽きてしまう。そんな時、遜色無く、でいながら世界の違うヴォーカルは居ないのだろうか?となるのだけれど、尾崎亜美ですとセンスとしては推したいのだけれど若干弱く物足りない(ファンの皆様、すいません!)、と言う気がする。1曲取り出して聴くと、歌も上手くて悪くないのだけれど。そこで登場するのは、僕の場合、この大貫妙子吉田美奈子(先々、取り上げたいと思います。)となる。この二人は、ミスリムでコーラスで参加しており、あのサウンドのカラーの一部となっている。結局、荒井由美から引っ張り出された二人ということになり、なにやらユーミンの大きさみたいなものを感じないではいられない。
しかしだ、、では大貫妙子の作品力がどんなものか?と言えば、この特徴的な声を持つ女性シンガーソングライターは大昔から存じておりますが、美メロ作りにおいては、唯一無二のセンスを持っており他のアーティストでは代わりは勤まらない。
その美メロが分かりやすく、ハッキリとした形で表出しているのは本作と、もっと若い時分にリリースした「MIGNONNE」になると個人的には思う。この旧作であっても既に珠玉の名曲揃いであり、後に腕っこきのアコースティック楽器奏者による、カバーアルバムのリリースもあるが、これも出来が大変良くオススメです。
特にそこそこのオーディオで聴くと彼女の息づかいが感じられ、その魅力が倍加するということになるわけです。さて本作の最たる特長は、そのサウンドにあります。
YMOが絡んでいるのです。これに関してはいろいろと賛否が持ち上がっているようです。例えば、主役がYMOであり、大貫妙子は彼ら三人のサウンドに寄り添っている、もしくは合わせている感じがする、、という類いの内容である。
確かにこのアレンジはリズム然り、フレーズ然り、あまりにYMO的(笑)という気がしないでもない。
しかし、全体を通して聴くと、彼らはYMOサウンドと彼女の持つ音楽との棲み分けを丁寧かつ繊細な作業においてクリアしていると感じます。
また、たとえサウンドにあの灰汁の強いシンセとフレーズが貼り込んでも、彼女の作った旋律が揺るがないのは勿論、あの少女のような声、でいて深く聴くと"力強い声"は欠片も揺るがないという気がします。

因に本アルバムの名曲揃いの中、最も好きな曲は、ハッキリと「雨の夜明け」です。彼女の全曲の中で「横顔」と並んで群を抜きます。ビックリするほどに良い曲、形容するのもバカバカしい。どうぞ聴いいただければ、とそれだけです。
大貫妙子は女性シンガーソングライターの中でも、おそらく頑固な一面があり(もちろん良い意味で)、また不器用な面があるのだと思います。(これもまた良い意味で。)
よって、その個性に変化は軽微であり、変って行くのは作風だけです。根底に横たわる品格の高さ、そしてこれ以上あろうか?という繊細な旋律、そして「声」は驚く程、一環していると思います。本作を選んだのは、彼女の旋律において頂点にある作品と判断したからです。これから秋の夜長、女性ヴォーカルを聴きたい気分の音楽ファンにピッタリでしょう。

電話の向こう彼女の声は明るかった!/浅川マキ

時が経つほどに存在感を増す希有なシンガー

思い出深い人です。若い頃(20歳を少し超えた頃)の自分は向こう見ずというのか、厚顔無恥の針がメーターを飛び出しており、思い出すと布団に潜ってしまいたくなるようなことばかりして来ました。著名なアーティストに自作を聴いて評価をいただく、という一連の「無茶シリーズ」は2年程続きましたが、その間送付した"カセットテープ"は30本くらいでしょうか。手書きの手紙を添えて、もちろん返事など期待せずドーンと送りました。躊躇などしませんでしたね。根拠のない自信があって、今思うとそういうのを「真性バカ」というのであろうと苦笑いです。しかし人生、そういう冒険をしなくなったら終わりなのかも知れません。昨今の僕は人と上手くいかないことを恐れて本当に大人しくなりました。その30本のテープに返事をくれた物好きな著名アーティストさんは3名おられます。もう時効だから言っても良いでしょう(笑)本アルバムの浅川マキさん、矢野顕子さん、深町純さんです。
冷静に考えれば、この3人から反応があったのであれば、後は失礼ながらどうでも良いと思えるくらいだと思います。これは、今もって自分の糧となり、励ましでもあります。浅川マキさんは、イメージが先行しており根暗と思われがちですが、おそらくライブをご覧になった方はお分かりの通り、決して暗い人ではありません。
大らかで明るい人だったと僕は思っております。少なくとも僕の知る彼女は姉御肌で気風が良く、よく笑う人、女性としてとても魅力的な方でした。ご自分のヴォーカリストとしての要素を深く試行錯誤するにおいてジャケットや、音へのアプローチがあのようなイメージを確立していたわけで、本人のキャラとは意外に乖離しているというのが僕の持論です。そしてまた、それが彼女の才能であり、ひとりの音楽家として凄いところだと思います。そして、少しでも面白いなと思えば(思ったらしい)僕のような無名アーティストでも、一音楽ファンであってもしっかりと手書きで手紙を送るという、つまりは信じられないほど謙虚で心の広い方です。また、有名アーティストでありながら、自給自足的な方法をとり音楽産業の一要素であること・迎合することを徹底的に嫌った人だったと思いますし、浅川マキを語る上で欠かせないひとつの要素ではないかと考えております。
人間力というのか、それが彼女の音(声)にストレートに出ているので、確かに本アルバムでも「赤い橋」などを聴くと「ウォーッ、こりゃ暗過ぎるぅ〜!!」となりますが(笑)、コメントでどなたかが言っておりましたが、「暗くてまいった!、でも先にまた聴きたくなる気がする」
そうなんですね。僕も最初彼女の姿、歌をTVで拝見したときは「あわわっ、こりゃ駄目!」と思ったのですが、今では、その魅力を理解している一人と少しだけ自負がございます。好き嫌いは実は紙一重なんです。僕の場合「親友に限って第一印象が良くなかった」いうことが多いですが、似たようなところがあります。嫌い、聴けない!というのも大きな感動なのですね。
本人に(当時ハッキリ言ったと思いますが、、)「暗い、暗過ぎる!」と言っても「ひどいー!!!!ハッキリ言うね、、あはははっっっ!」と笑うだけで怒ることなどありません。むしろウソを言う人を嫌うのでしょう。そう言う人です。

本作の素晴らしいのは企画に浅川マキに対する愛情と理解が感じられることでしょうか。ライブテイク(それも一カ所ではなく紀伊国屋ホールアケタの店等)を上手にミックスしていることです。この不世出のシンガーが目の前に生き生きと蘇るようで、心打たれます。僕も当時「暮れ恒例」でありました池袋文芸座ル・ピリエのライブは聴いたことがあります。あの時ベースを担当されていた川端民生さんも亡くなられて久しく寂しさこの上ないです。が、だったらCDを聴くのだ!と強く思います。CDの中、展開される世界においてアーティストは生き生きと演奏しております。つまりその時間において生きていることと何も変わらない。記録することの意味を深く考えさせられます。

モーツァルト後期交響曲集/カールベーム+BPO

ベームの演奏が当り前になっていた。

これはモーツァルトに関して、ということです。僕はもしかするとモーツァルトの交響曲に関してはベームで上がり!という気がしないでもない。先ほど久しぶりに聴くと以前聴いた時よりもその安心感というのか、腑に落ちる感じが強くなっている。
その理由はおそらくベームだけが持ち得るモーツァルトのテンポ解釈から来るのではないかと思う。
本アルバムは後期の人気交響曲(個人的にはこの中では36番「リンツ」が好きですが。)/カール・ベーム+ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団という鉄壁の組合せで演奏・収録した名盤です。
他のマエストロの演奏、例えば名盤と推すファンの多いレナード・バーンスタイン、ヘルベルト・フォン・カラヤンの同じ作品では、興味深い程にテンポが早く、自分にとっては拙速に聴こえる。もしかするとベームを「それほど」と感じない方は、そのテンポがノンビリしていてイライラしてしまうのかも知れない。しかし、僕はそのようには感じない。このモーツァルトの精密機械の如く一切の無駄を排したアレンジ力、迷いを感じさせない繊細なラインの描き方をオーケストラで表現するにおいて、これほどピッタリなテンポ感があるだろうか?と思う。例え実際の速度において明らかに遅くても音楽としてノンビリしているわけではない。その緊張感と密度を維持したまま、ここまでコントロールし深化させるマエストロの意志の強さに打たれる思いです。
記憶を辿ると、僕がベームという指揮者を知ったのは来日公演の収録をNHKで見た時からだった。演奏したのはベートーベン・交響曲7番だったが、それですっかり気に入ってしまった。「運命」も聴いたが、どちらにしてもそのテンポは聴き慣れたカラヤンからは大分地味で鈍く感じたものだったが、それが反って新鮮だったのだ。当時中学生だった僕にとって派手で、速いテンポで行うことだけが結果を生むとは限らないのだな、、ということが朧げながら理解出来たのでした。
ベームはこの時、インタビューで「大切にしていることは何か?」ということに対して実にシンプルに「合奏すること」と応えたのでしたが、これは僕の心に響きました。その言葉の裏側にとてつもなく深い意味合いが含まれており、この大指揮者の中心線にあるもの、その確信に共感するものです。
モーツァルトは、クラシックから現代音楽の長い歴史の中でも、その確立された個性、音の構成においてバッハと共に頂点に在る作曲家だと思う。その流麗で緻密なところを最大限押出して行くのが指揮者とオケの仕事になるわけですが、同じウィーンフィル、ベルリンフィルを振っても他の指揮者ではこんな感じにはならない。CDコメント欄で「重心が低い」と書いた音楽ファンおられましたが、全くその通りだと思います。余談となりますが、リハーサル中「アクセントがどこにも書かれていないのに勝手にアクセントを付けるのはどうしてだ?」と厳しく突っ込みを入れていたのが、ベームもカラヤンも一緒でした。カラヤンはネチネチと、、ベームは癇癪を起こしたように、、(笑)態度は違ってもマエストロは同じポイントに耳が行くようです。
モーツァルト交響曲の「とっかかり」にも本アルバムはオススメですが、最初から「上がり」となる可能性もありますので、最初は前述のカラヤン、バーンスタイン辺りを聴いてから、ベームを聴くと自分のテンポに対する好みが掴めるかも知れません。またDVDやYoutubeで動画を見るのも面白いです。その指揮者の「棒さばき」が全く違うので楽しいです。例えば小沢征爾さんやカラヤン、バースタインは派手で体裁が良く指揮者がエンターティナーの側面があるのだ!ということを教えてくれます。しかし対して、本ページの主役・ベームは特に晩年となると棒の動きが極端に小さく、震えているのか振っているのかさっぱり分からない(笑)でも、そこが実に渋く味わいがあると思うのです。皆様もどうぞ、指揮者をチェックしてみてください。個性派揃いで楽しいですよ!!

ハービーハンコック/芸風のデカさに頭が下がります。

フュージョンの辿り着いた楽園。

このページの音楽評はハービーハンコック/MR.ハンズとなります。「チックコリア評を2作品取り上げておいて、ハービーハンコックを取り上げないというのは片手落ちじゃないの?」と言われそうです。慌て加減で選びましたアルバムは、思い出深い1枚となりました。昔は、この天才的なピアニスト・キーボーディストが興味の対象でした。それがピークに達していいたのが25歳、某ジャズスクールで理論とかジャズピアノを学んでいた頃だ。アンサンブルクラスという、バンド単位で演奏スキルを付けるというコースが用意されておりました。この発表会にあたり僕の我が儘で、本作から「Just Around the Cornerというのを練習して何とか形にした憶えがある。あの時のバンドメンバー(というか生徒さん達)には無理をさせたなぁ、、と今でも申し訳ない気持ちです。本作に関してネットを浚ってみると、ひとつ興味深い評を書いていた方がおりまして、これはベーシストのためのアルバムだそうです。「キーボードがどうしたこうした」という要素は、、全く聴こえて来ないと。ベーシストが聴くと、どうしてもベースに耳が行くアルバムということらしい。言われてみれば、ロン・カーター、ジャコ・パストゥリアス、ポール・ジャクソンと錚々たる顔ぶれ、しかも皆さん実に良き仕事ぶりです。
僕がこのアルバムに入れ込んだ理由は、しかしベーシスト云々ということではないのです。このアルバムの最後を飾る名曲「テクスチャーズ」がその理由だからです。何故か?それは本作がシンセベースであり、更に言えばこれはハービーひとりの多重録音であるからです。ドラムも彼が演奏しております。当時25歳の自分がどれだけ本作品に魅力を感じたか、文才ゼロの小生では表現が追いつかないです。音色の官能的なところ、旋律の艶かしさ、そしてこのベースラインに強く魅かれたに違いありません。この曲を探し当てるために3枚、4枚とハービーのアルバムを買ったものです。ラジオから流れて来た音を少し聴いただけだったので、曲名まで知ることはなかった。お陰で、彼の作品の多くを知るきっかけにもなりました。そしてこのアンサンブルクラスで演奏するために耳コピするために、貸レコード店から借りて来たところ、探していた曲、それも諦めかけていたところで、耳に届いた時の嬉しさはなかったです。久しぶりに聴くと本作は実にカラフルな色彩を帯びております。チックの作品造りとは対象的に、振り幅が大きく、口悪く言えば散らかった感じ、脈絡がない。しかし、その飛んでいるところがハービー・ハンコックたる所以であり、天才的なところでしょう。時折聴かせるソロの、アウト加減も、芸風が大きく、キレイに収めるチックとは趣が異なります。本アルバムの例えばオープニング「スプリング・プリズム」と前述しました「テクスチャーズ」の旋律、サウンドは彼の真骨頂とも言えるセンス満載です。他のアーティストでは到底辿り着くことの出来ない「音楽の楽園」みたいなものでしょう。ハービーの動向は今もって気になります。まだまだ老け込まないで欲しいと願います。

チックコリアのバンド『RTF』/浪漫の騎士

懐かしいだけではない!現在進行形として聴くべき?

チックコリアのバンド、あまりにも有名なRTFリターン・トゥ・フォーエヴァー)の代表作となる。またこのアルバムを最も良い出来と評するファンもまた多い。いつもズレている僕の「現在最も聴いているアルバム」です。RTFは3期に分けられますが、こちらは黄金期と言われる2期ということになります。少しだけ在籍したアール・クルーが脱退して代わりにアル・ディメオラが加入した、その辺の時期となります。
作品はメンバーが各自1曲づつ、残りをチックが書いております。例えばスタンリークラークの演奏やフレーズ要素にはソロアルバとしては最も成功作であろう「School Days」との近似性を伺わせます。今、聴くとそのテクニック的な側面においてはさして驚かない。しかし、それはあくまでも「メカニカルな側面において」という"但し書き"が付きます。現在、宇宙人かと思うようなアーティストがゴロゴロしているわけですが、その内容はスピードであったり、ユニゾンで奏でられる高速フレーズだったりするわけです。そこに果たして音楽的な裏打が在るのか?というところは大切なところではないか、と思います。むしろ本作のポイントは、その奏でている内容そのものにあります。全ての楽曲においてその音の使い方とリズムの割り方には興味が尽きません。本作をプログレと近く感じる音楽ファンも少なくないのも(その手法において)理解出来ますが、やはり似て非なるものでしょう。このメンバー配置において初めて可能になった音の構築という気がします。
そしてそれは、過去のモノとして扱うには勿体ないほど魅力を称えている。全体として軽快かつ明るくコミカルな要素もあり(だからと言って音楽性までが軽くなっているわけではないです)チックのアルバム中でもとりわけ特長の掴みやすい内容となっていると思います。何回か聴いて行くと心に残るフレーズが出現し、次の段階では噛めば噛む程という"スルメ具合"となる。チックは生ピも弾いておりますが、この時代のピアノの「ハイ上がり」な音質の傾向は、まあ仕方ないとしても、流石に弾かれる内容は素晴らしく、表現したい事象とテクニックとが「符合」している希有な例であろうと同業者ながら溜息が出てしまいます。得意とするラテン的な手法からラヴェルの連打のようなクラシックテクニックまで呆れてしまいますが、それがテクニックを超えたところに在る表現を感じさせるところが素晴らしいです。また、ファンクとしてアレンジされた楽曲であっても展開部においては、茫洋とした印象的なパートが出現したりして、気難しい音楽ファンの耳であっても決して飽きさせない。このアルバムがRTFでは最も好き!というジャズ・フュージョンファンの気持ちが痛いほど分かるところでもあります。

しかし、Amazonのコメント欄を見ると「機械的な感じで好きではない」とか「自分が望むジャズ・フュージョンではない」と言った否定的な意見も散見され聴き手というのは実に多彩なものだな、と感心させられます。正直なところ「もう少し聴き込んでいただければ」と思うのですが。
これまで聴いたチック・コリアの作品では「妖精」「THREE QUARTETS」辺りを好んでおりますが、相当に遅い出番?ながら本作が3番手に上がってまいりました。このアルバムの懐の深いところは「聴かれ方」を選ばないところ。ウォーキングのBGM、カーオーディオにも向いております。聴き込むことは勿論ですが。
そのひとつの理由としてレニー・ホワイトのドラムのサウンド、フレージングがポイントではないでしょうか。彼のドラムは昔から大好きです。
ビリー・コブハムに似たところもありますが、あそこまで大袈裟ではなく(あれはアレで凄いわけですが、、。)タイトでとても整理された音、という気がします。
音数はもの凄く多いですが、リズムが正確で引き締まっており音と音の間がキレイに空いている。隙間がキッチリ取られているドラム演奏はうるさく感じないものです。チックが長く共にしたのもそういった同じく音を埋めてしまうキーボードとの相性を考えたからではないでしょうか。ギターのアル・ディメオラとキーボードのバランスもとても考えられており、エレクトリックギターが入ることから危惧される?「ギターバンド」になってしまうことを上手に回避しております。このギターが居ながらその利するところは、しっかりと前面に出しておいて、しかし全体を聴いた時にメンバーの取るべき「パイの配分」が等分に感じられるところが緻密な作業を連想させるところです。僕が本作を最も評価するところは、そのバランスにあります。

RTFは紛れもなくチック・コリアが率いたバンドでした。ジャズ・フュージョンという演奏に比重が傾く分野であってもバンドとして合奏というものを追込み、ライブで作品を披露するというニュートラルな音楽行為。これだけキャラの濃い面々ですから、そのチックの統率力と実力に敬服するのみです。〈2017.9.10 加筆・修正〉

ジャズの可能性・メセニーGP/OFFRAMP

演奏がイメージと結合している。

このアルバムを聴いたのは、貸レコード屋さんが乱立していた頃で、まだ練馬の江古田に居た時分であるから、随分前のことになる。
当時持っていたオンキョーのアンプと中古で見つけて来たマイクロのプレーヤー、そしてこれまた近所の少々胡散臭いアウトレットに転がっていたスピーカ「YAMAHA・N10」が自分の誇る?セットでありました。このアルバムはレコードで聴きたいソースの数枚に入る。パットメセニーGPのリリースしたアルバムはベーシストの変った分岐点により分けられると思う。マークイーガンがエレクトリックベースを弾いていた前期、それをウッドのスティーブ・ロドビーとした後期と。比較してどちらが良いとか、好みであるとか、僕としては珍しくそういった判断はない。どちらにも良いところがあって、気分で選んで聴く形だ。ただ、このグループの全体を通して本作が最も好きなアルバムであることは確か。ここまでイメージの統一された作品はジャズ・フュージョンでも珍しいと思うし、その独特な暗さ、重さはどうだろう。パットメセニーのアプローチは流石だが、特筆すべきはライル・メイズによるサウンド構築、この人ならでは繊細かつ独特なリズムセンスのピアノ、使用していたシンセはオーバーハイムだったと思うが、昨今のシンセとは一線を画す太く温かく広さを感じさせる音。これ無くして本作品の成立はなかっただろう。
後年ライル・メイズは音楽雑誌でこのバンドで演奏して行くことに付いて、随分と愚痴っていたが(笑)それでも、こうして記録された音楽は紛れもなく素晴らしいものだ。鍵盤奏者がギタリストと共に長い期間共にするのは、やってみた者でなければ分からない辛さがある。それはまたギタリストからしても同じことが言えるのだろうと思う。僕も私事ながら、7年程ギタリストと共に作業したことがあるが、ギターとピアノというのは、そもそも相性が良いわけではない。サウンドがぶつかりやすく、混濁しやすいのである。よって本作のピアノとシンセサイザーの使い分け、バランスには慎重であり、試行錯誤が在ったことは想像に難くない。
しかし、本作が多くの音楽ファンに支持を得たのは、こうした裏側の作業が云々ということはあまり関係がないと思う。
作品力に尽きるのである。
つまり同業者のライル・メイズには同情を禁じ得ないが、パットメセニーが仕事をした!!ということに尽きるかな?と。

僕はジャズに対して兼ねてより誤解していたところがあり、、それは以下のような内容だった。
ジャズが作品というよりも演奏内容、そのメカニズムを楽しむという側面。「それの何処が悪いのか?」とも同時に思うのだけれど、おそらく自分の作曲家としての部分が否定的な見方をするのだろうと推察される。
しかし、この1年間、現在活動しているピアノトリオの影響から無意識にジャズに近づいて行ったわけだけれど、このジャンルは一括りは出来ない。多様性があってジャズ自体が試行錯誤している途中に在るのだと思う。
簡単に言ってしまえば、アルバム2枚を比較して「コレとコレ、、どちらもジャズなの?」ということが往々にして多いのである。でも、それはジャズの持つ大らかで自由な最良のポイントだと思う。
その多様性ということで、出現する方向性のひとつ「ECM」。
本作もまたこのレーベルからリリースされている。このジャズレーベルの作品群は、全てではないにしろ、その多くが情景描写に主眼を置いているように聴こえる。そして、本アルバムの更なる要素として、その情景に触れている人間の心理、心の移ろいが感じられる。そこが素晴らしいと思う。
単に「何かキレイな曲だな、、!」と言うのではなくて、その先に何か隠れている素敵なことが在る。深く聴いて行くと、その世界が自分の心に投影される気がして来る。レコードに針を落として、ボリュームを大き目にする。まずドコ、ドコッとまるでピンクフロイドの狂気のようなアプローチで一定のリズムから想像も出来なかった広大な世界が展開され、やがてゆっくりとフェイドアウトしていく。
そして、ボリュームを大き目にしたからこそ分かる、次の"タッタン"というダン・ゴッドリーブ(dr)のフィルイン。控え目ながら気合いの入った導入で名曲が奏でられて行く。そこから最後まで一気にこのアルバムと共に旅を続けるのである。音が終わり自分に帰った時の虚脱感、絵でも写真でも圧倒されることにおいては同じなのだな、、と感じ入ります。本アルバムはCDで所有しておりますが、レコードで聴きたくなります。しかし、またオーディオ道に足を踏み入れるのは我が家の財務省が許可が必要です。道は険しいのであります(笑)

チョン・キョンファを聴く今年後半か?

確かにバイオリンと同化しているらしい、、!

これ完全に白紙から書き直しです。何回か聴いた今現在の感じ方で文を書いた方が良いでしょう。昔の思い出と混濁して美化するのはCD評としては失格でしょう。ということで、本アルバムを聴いて、まず最も聴ける演奏はメンデルスゾーンです。これもまた変化して行くのかも知れませんが。とりあえず今のところ、これが一番素直に心にストンと落ち着きます。もしかすると、それは作曲家のスタンスと関係しているのかも知れません。バイオリニストの技術的な側面を前面に押出したい誘惑には大作曲家の先生達も大人しく従うのみです。本当にイメージ表現とはどういうことなのか?を問いただしたくなる場面もまた多い。まあだからこそクラシック音楽は現代音楽に向って表現手法に試行錯誤を重ねていくわけですけれど。この4つの協奏曲で「こうしてやれ!!」みたいな作為性が最も小さいのはメンデルスゾーンと思います。おそらく彼の人間性が誠実で野心のないタイプだったのだと思います。純粋に良き旋律、良きアレンジを突き詰めており、好感が持てます。僕はこの"メンコン"(音大生・クラシックファンはよくこのように略形を使います。長ったらしいのが多いので、、。)てのは飽きる程聴いて、もう沢山になっておりましたが、こうして他のライバル達と比較すると、その自然な作曲姿勢に心打たれる思いがしました。チョン・キョンファの演奏はこのアルバムに関して言えばこの作品が一番かな、、と率直に思います。意外にガッカリしたのがチャイコフスキーで、これはYoutubeにあがっている凄い演奏からすると、特に一楽章でリズムが悪いところが気になり、また音も荒んだ印象を受けます。何故なのだろう?オケとリズムセンスが合わなかったのか、、指揮者との相互理解が進まなかったのか?は謎。このニ長調の協奏曲はそもそも素晴らしい旋律と、何だかゴチャゴチャしたオーバーデコレイトなところと共存しているような、少し特殊な曲だと思います。チャイコは交響曲でもそういうところがあるのですが、完成に至るまでの紆余曲折を感じさせます。ブラームスの交響曲でも似たようなところがあるように思います。モーツァルトのような一貫性とベートーベンのような精緻なところが欲しいところなのですが、チョン・キョンファの演奏はそのチャイコフスキーのネガを強調するような雑然とした音楽になっていると感じ少し残念でした。この作品は「つまらないと思うなら聴くな!」と言わんばかりに徹頭徹尾、テクニックで押し通してしまえば良かったのに、、と問題発言したくなります。平たく言えば十代のデビュー当時の方が好みということになりますか。それからすればシベリウスはこのアルバムでは中庸な出来。というかチョン・キョンファであるなら、このくらいは当然となる。意外に僕が気に入ったのがベートーベンですね。メンデルスゾーンとベートベーンが良かったとなると、まるで古典を売りとするバイオリニストみたいですが、それは早計でしょう。この一枚でそれを決めるのは乱暴です。もう少し、他も聴いてみたいと思います。またクラシックの深いところなのですが、同じ演奏家でも年代によって全く演奏の傾向が違っていたりするし、また共演するオケや指揮者によっても大きく変わって来る。1枚のアルバムで分かることは確かに少なくないけれど、それで判断するのは止めた方がいい。本アルバムは、4大バイオリン協奏曲を比較しつつ聴いて作曲家のアプローチを違いを楽しむ、ということに(僕の場合)なっております。チョン・キョンファはキャラもとても好きなので、同じ作品で別な年代のモノを追っかけてみたいと思います。おそらく随分違う世界が展開されているのでは、、と推測しております。