ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

山下洋輔トリオ/キアズマ・聴き手の驚愕が伝わる

聴くのは、その日の体調と相談してから。

何とも酒池肉林というのか、まるでフェリーニサテリコンのようなコテコテの世界が展開されている。猛然と突き進む密度感が飽和したままの音の壁。ここまで突き抜けているとある意味、変な爽快感すらある。耳を峙てると実は、ピアノの音使いに深く考え抜かれた形跡があり、それはテーマや冒頭部分に垣間みることが見える。ピアノを打楽器と捉え、轟音の肘打ち連発は、ドラマーやサックスと対峙し、そして音楽を構築するピアニストとしての明確な回答であろうと思う。同じ鍵盤奏者でありますので、この辺はとても理解出来るところです。ライブにおいて鍵盤楽器PAや周辺機材に負けてしまい、他の爆音楽器の下側に潜り込んでしまうことが多い。それを回避するには、共演者を変えるか(笑)演奏法自体に工夫することが不可欠であろうことは言うまでもない。
それにしても、ここで感心するのはドラムのアプローチであり、ジャズドラマーがドラムという楽器のひとつの規範であろうことがよく分かって来る演奏内容です。少し長過ぎるドラムソロ(あくまでも僕の感じ方です。)を抜かせば、これという気になるところはなく、この大騒ぎで喜ぶ聴き手と共に舞い上がって行くのが本作通常の聴き方でありましょう。
しかし、不思議なのは、この音楽の根底にあるものだ。
山下洋輔さんは、この音楽をやる時に、一体どういうモノをイメージしているのであろうか?
例えば僕にとって、こういう根底にあるモノ、その正体ということであれば意外に坂本龍一さんの方が掴みやすい。
それは、もしかすると人間の本性というのか、本能や生理的なところに訴える音楽であり、受け取るイメージは聴き手一人一人に委ねるというスタンスのものなのか?とも思える。もしくは明確なテーマが存在しており、だからこそあのような世界になっているのかも知れないけれど。僕は山下洋輔トリオの作品は若い頃から定期的に沸き上がる頃合いというのがあって、このそこそこ長い人生においてポツポツと触れて来た方だと思う。しかし、その音楽の根本的なところが掴めないでいるような気もする。というか根本的なところなど、どうでも良いのか!(笑)
音楽的には、この三人の音の会話の密度感が凄い。こんなに細かいところで深堀するのか?と言う程に音の交差は鋭く、聴くのに大変な力が必要となる。
先日、風邪を悪化させて会社の昼休み、コレを聴きながら昼寝をしていたら、更に悪化させてしまいました。これは、アマゾンのコメント欄に「その日の体調」と相談してから聴いた方がイイかも、、というのがあり、それを拝見した時は「軟弱なやっちゃ!」と鼻で笑ったものが、自分も数日経たず実感した次第です。
それだけ、毒性と轟音が凄く、どーしたの?このオッサン達、、という1Lで足りるかも知れない音楽とも言えます。
変な表現ですが、凄くもあるけれど、どこか滑稽なところもある。暗くならず解き放たれているというところがヨーローッパでも評価を受けたところでしょうか。

一応、簡単に説明を入れますと本作は1975年(まだ僕が田舎で遊び惚けていた時代です。)ドイツ・ハイデルベルクにおけるジャズフェスティバルライブとなります。
ピアノは轟音と右手と左手の高速に繰り出す連打で大変なことになっておりますが、紡ぎ出されている音自体は決して野蛮なものではなく、実はピアノらしい音を描いております。この辺は山下洋輔さんが少年期にバイオリンを習っていたことや国立音大において作曲を専攻されていたことが理由としてあげられるかも知れません。それにしても興味深いのは、テーマのユニゾンなど僅かに表出するテーマはジャズというよりプログレに聴こえてしまいます。フランク・ザッパ辺りでしょうか。そう言えば、少し前にエリック・ドルフィーを聴いた時に同じようにザッパ方向の色合いを感じたものです。
年配の方達で(僕も充分に年配ではありますが)ジャズはこのようでなければいけない!という頑迷に考える集合体があります。例えば、ジャズにおけるドラムのスィング感とか、そのリズムアプローチにおいて。しかし、音楽において「このようでなければならない!」という物言いは個人的には好まない。
そして、本作が、そういった頑な考え方、凝り固まった観念的な思想を打ち砕く音楽に感じられるところが最良のポイントと思います。

ドイツ音楽はバッハ、ベートーベンに代表される羨ましくなるようなルーツがありますが、面白いことに今に生きるドイツ人達はその「伝統」を壊すことに一生懸命だったりする。そのドイツに於いて、これだけの指示を集めたことは何やら深く考えさせられるところがあります。Youtubeに日比谷野音でキアズマを演奏する三人の姿を拝見出来ますが、出音は根本的に同じではあります。が、研ぎ澄まされた音、鋭利なリズムというところでは若き日のハイデルベルクバージョンに軍配があがります。やはりこうした力技の必要な音楽は贅肉の付いてしまったお父さん達では厳しいところがあるのかもしれません。(坂田明の紡ぎ出すフレーズが年齢を重ねただけの新味が感じらたところは良かったように思います。)
余談ながら昔、池袋西武百貨店にスタジオ200という音楽ホールが併設されていた頃、坂田明さんが客として来場されておられました。加古隆さんのライブだったかと思いますが、すると海外から訪日されていた大柄な女性から「サカタサーン!」と声をかけられておりました。彼女はもしかするとドイツ人であり、彼らのハイデルベルクライブを聴いたことがあったのかも知れません、、、と想像したりする僕なのでした。

ケイト・ブッシュ「ドリーミング」/ その切れ具合

歌とサウンドのバランスにおいて、、。

ケイトブッシュのリリースしたアルバムの中で本作が最も好きか?と言われれば正直2番手くらいかな、、と思います。このアルバムを初めて聴いたのは実は一週間程前となります。ケイトブッシュの熱き音楽ファンには叱られそうですが、昔、紙一重的(狂気と現実の境目に在るような)なアルバムという評を目にして気の弱い僕は何か恐ろしい世界を想像して腰が引けていたのですね。イメージというのはある意味恐ろしいものです。しかし、実際聴いてみると、その評価はドンピシャとは言わないまでも確かに当て嵌まるところがあるような気がします。それほどこのアルバムは(彼女の作品群においても)突出してインパクトが強い!音楽に対して何と言うのか押し倒されても良い(笑)という生粋のMの方には向いている傾向があります。まあ、、それは半分冗談として。実際の音楽の話で行きましょうか。1週間前に初めて聴いたとは言え、毎日何度も聴き返しておりますから、既に数十回はこの"夢の世界"にアプローチさせていただきましたが、本作の特長は、ケイトブッシュのヴォーカルとしての側面が強く押出されている点にあります。その何とも変幻自在な「声」と、楽音の混然一体具合に引き込まれます。比較的大人しい作品であっても、それは当然、一筋縄では行かず、仕掛けはあちらこちらに配置されており、この仕掛けの謎解きだけでも楽しめそうです。正しく長きに渡って愛聴出来る名盤でしょう。

このアルバムと比較すると最近の彼女はやはり力が落ちた!!と認めざるを得ない。もし本作を超える作品を今、リリースするのであれば、思い切ったサウンドアプローチや共演するアーティストにも工夫が必要でしょう。

音楽全体の基調になっているのは「魔物語」と同じように、柔らかでコーラス過多なベースであり、またアイデア満載のサンプリングの自由奔放なセンスとなる。この辺りを聴くと一体、DAW*等に代表される制作の進化って何なの?と文句のひとつも言いたくなる。
音楽において中心に位置するのはアーティストのアイデアと力量であり、テクノロジーはその下に入らなければ、結局出来上がるモノってのは知れている。ケイトブッシュもテクノロジー好きなアーティストではある。一般では、とても手のでなかったフェアライトも初期の頃から使用していたという話も聞く。しかし、大切なのはそれが、しっかり彼女のツールになっているということだ。本作でも、そういった機材の使いこなし、それから彼女以外の男性ヴォーカルの使いこなしにも大きなポイントが在る。ケイトブッシュは意外に自分以外のヴォーカル(ヴォイス)を混ぜ込むことを好む。それはおそらく、声の重さを良く知っているからに違いない。冒頭から変則的な6拍子と4拍子で切れ込んでくるが彼女には、こうしたリズムアプローチなど何でもない。普通に自然に歌い切るし、またそのフレーズも実に特長的だ。少女から老婆までを演じるようなヴォーカル。つまりは人の人生、人間模様を、一人で演じ切ることが出来るような特殊なヴォーカルだと思う。
猫の目のようにクルクルと変る僕の評価だが、本作に限って言えば、微妙に緩い曲線を描くだけで、その印象は変らないものと思う。面白い要素に気が付いたり、彼女のヴォーカルの機微に触れて、ふと忘れていたことを思い出したりと、、自分の傍に置かれて行く作品だと思います。ひとつだけ気になるところがあるのは、その歌い方でシャウトするところでしょうか。コレは個人的な好みとなるのですが、少し僕にはキツく感じられます。もう少し柔らかな方向でも良かったのに、、!と思うのですが、これは曲の方向性もあることであり、難しいところかも知れません。こういった自分の好みと相反する僅かな要素から、リリースしたアルバムの中で2番手となっているらしいです。若干ベタですが、僕の中でのベストアルバムは2枚「魔物語であり「Hound Of Love」であろうか、と思います。本作、頭ひとつで次点!と。でもこの順番は音楽ファンによって、どうにでも変るところでしょう。
ケイトブッシュは僕にとって女神みたいなものです。
今がすこし落ち目でも、過去にこうして凄いのが転がっております。そして先々、きっとその年齢でしか出来ない傑作を生むことでしょう。

心底期待しております!!

DAW:デジタルオーディオワークステーション、という音楽制作の中心に位置するコンピュータを中心に置く制作フロー。使用されるソフトは数多あり、勿論代表的な数種は存在する。生音とシンセ、サンプラーというデジタル機器をシーケンス上で自由に混在することが出来、尚かつ生音に関してのデータの修正も自由に行う事が可能となる。つまりは一音からの削除、ピッチ修正、移動、コピーと。古来から連綿と受継がれて来たMIDIのエディットにおいても進化しているが、このプログラミングに関してはソフトにおける差異は大きく、バンドルされているソフト音源の内容と共にソフト選択の重要な要素となっている。

今これを書く理由 / Beatles「Let It Be」

小6、その時の僕の衝撃とは、、?

東日本大震災でやられてしまった郷里・岩手県鵜住居地区。そこが実家の在るところです。鵜住居地区から小さな峠を超えると小さな漁師町に入ります。両石町に入って左側の坂を上がった付根付近。そこが母方の実家が在ったところです。母の妹、つまり僕にとって叔母さん二人が暮らしていた旧家です。この家は津波で流されて、現在、その場所はかさ上工事で埋められ見る影もありません。
僕にとってこの叔母さん二人の存在は意外なほど大きい。
津波で亡くなったK叔母さんは、その人間的インパクトにおいて。そして仮設で暮らして来た末っ子のT叔母さんは、ビートルズを教えてくれた恩人です。また物心付いた頃からよく遊んでくれた大切な存在でした。今でもよく憶えておりますが、本アルバムは(当時、釜石のような地方都市では)予約しておかないと手に入らなかったそうです。自慢気にこの二つ折りジャケットを開いて「ほら、こんな風に録音するんだって!」と教えてくれました。当時、小学校六年生です。バンドという概念がなく、よく分からなかったけれど、随分と線(シールド)がゴチャゴチャとして凄いことになっているなぁ、、と感心したものです。こうして作業したものがこの皿になっている、、ということが俄には信じ難いと言った感じでしょうか。
そして、まず聴き初めて素直に思ったのが、ロックという割には元気がないな、、ということです。しかし、そのうちに「Get Back」に突入すると「うぅ、、何てハードで過激な音楽なの!?」と衝撃を受けたわけです。当時、クラシック音楽や映画音楽しか知らなかった僕には、この程度のロックでも大変なサウンドだったわけです(笑)
それにしても、このアルバムは散漫なところがあり、そして独特な虚脱感があります。何度も聴いて行くとそれが逆に安心してしまう、というのかハマってしまうところがあり、このアルバムの不思議なところでもあります。おそらく、この全体的なイメージは流石のビートルズを持ってしても計算したところではないでしょう。しかし後年、このアルバムと表裏一体となるアップルレコード屋上でやらかした例のライブを映画(まだ見ておられない方は是非!)で見ましたが、皮肉なことにバンドとしてのビートルズの魅力が理解出来ます。ビートルズは中期の傑作と言われる「Rubber Soul」を分岐点としてライブ活動を停止しました。しかし、この屋上ライブは彼らの演奏がまだ生きていた!ということが分かります。
ビートルズは間違いなく演奏するバンドであり、そのリズムセンスとこのバンド唯一無二とも言える推進力を感じさせるものです。この屋上ライブほど僕にとってバンド本来の魅力を感じさせるものはありません。ロンドンのどこか荒涼とした空間の中に在る四人の合奏は、あれだけマイナス要素ばかりの状況であっても、ギターを持って声を出すと、しっかりと音楽を行える力が在りました。そこからは、言葉での表現はとても難しい、ある種音楽の根源を考えさせられます。四人の表情、所作には様々な心情が溢れており、それは実に人間的なもの。何とかしようと試みる気持ち、投げやりなところ、諦め、憐憫、そういうところが交錯している。尚、オリジナルアルバムとアップル本社屋上ライブとの最たる違いは「Don't Let Me Down」の有無である。この作品は制作過程で外されており、ライブでは演奏しているものの本作からは外されている。しかし、シングルリリースされた「Get Back」のB面に入れられていることで知られることとなった。個人的に好きな曲なので、この作品の力具合を考えると、他のどれかを外してこちらを入れたら良かったのに、、!と思います。
例えば(問題発言を承知で言えば)「One After 909」辺りと入れ替えると本作全体の作品力が上がったかも知れない。しかし「Get Back」のB面に同じようなロックンロール的な作品を持って来るのは如何なものだろうか?とも思う。リリースの難しいところか。フィル・スペクターが手を入れたアレンジ面に関しては僕個人は、それほど否定的ではないです。これはこれで良いところがあり、聴き手としてはあまり気難しく考える必要はないのかな、と思います。ただ、ビートルズ解散のキッカケとも言われている「The Long And Winding Road」などを聴くとポールの歌に精彩がなく、彼の考え方とは全く異なるアレンジを施されてしまった、そのやるせない気持ち伝わって来るようです。本来的には、このアルバムはビートルズ単独でアプローチすることで、アレンジ過多とも言える後期作品(そこがまた凄いわけですが)に対するバンドとして原理主義的な1枚を出しておきたかったということになるわけです。がしかし、それは中途半端ではありながら成功していると思います。やはりこのアルバムは後期作品ではありながら、その色合いが他作品とは全く異なっています。得意の「飛び道具」や「こけ脅し」は一切なく、そういう飾りは取払ってビートルズの中心線、バンドとして勝負したかった。それでいて初期作品とは違うものを提示したいという強いコンセプトが在ったのだと思います。フィル・スペクターのアレンジでフォーカスがぼやけたとは言え、そういったバンド「ビートルズ」は誰もが感じるところだと思います。

ビートルズを初めて聴いたステレオは別ページで紹介しているピンクグロイド「狂気」を"体験"したステレオと同じもの。このビクターのステレオの中心下部にはLPを入れるスペースが在ったが(当時ステレオは大体このレイアウトを採用していたと思う。)そこには、ビートルズ以外に、姉のK叔母さんの愛聴していたヴァン・クライバーン/チャイコフスキー・ピアノ協奏曲、プレスリー/ハワイライブ等が入っていたのを憶えている。今も、耳元でT叔母さんの声が聴こえるようです。
「こんな風に録音するんだって!」
僕にビートルズを教えてくれて、本当にありがとう。

"異端児" テリー・ライリーをご存知?

ミニマルミュージックの第一人者ではあるが、、。

"ではあるが、、。"と書いたのは、テリー・ライリーが他のミニマルミュージック作曲家の中にあって少し離れた所に佇んでいるイメージが(自分だけかも知れませんが)在るからです。活動の幅の広さ、また即興性を重視しているところ、ロックアーティストと距離が近いという、その辺りからの実に個人的な印象と思われます。
テリー・ライリーはアメリカの作曲家、演奏家となります。分野としては先にも述べましたミニマルミュージックということになります。ミニマルミュージックはミニマルと短く使われることもありますので、ここでは短い呼称でまいりたいと思います。ミニマルは小さなフレーズの反復で進行する特長を持ち、一応現代音楽から派生したジャンルと捉えられております。「一応」と枕詞を付けたのはミニマルを現代音楽として認めないという場合も少なからずあるからです。

僕個人は別段、そういうことは気にしないし、ミニマルがクラシックから現代音楽という一連の流れに、反作用として出現した音楽であるからこそ、堂々と現代音と名乗って良いのになぁ、、と思ったりもします。
ミニマルは昔、フィリップ・グラスをFMで流した坂本龍一さんのお陰で知ることが出来ました。今もってフィリップ・グラスの刷り込みは深く、アルバム「グラスワークス」を聴くと安心と納得が入り交じった不思議な気持ちになります。

テリー・ライリーは、このフィリップ・グラスと、知名度においては最も高いかも知れませんがスティーブ・ライヒと並んでミニマルを代表する作曲家ということになっております。おそらくはテリー・ライリーから作品選択するのであれば「IN C」辺りと思われますが、それでは本ブログがベタ過ぎて面白くない方向に行きそうでもあり、ここは天の邪鬼健在?を表明するためにも、このレクイエムを選ばせていただきました。
実は、先頃、某サイトWEB記事のライティングでボツになった駄文がテリー・ライリーの紹介というものでした。NGの理由は「宣伝にも何もなっていない失格文」ということでありました。宣伝というのはマイナス要因や、個人的見解、感想をこれ見よがしに書くと(そのつもりは無くても)"門前払い"ということになります。こうして、せっかく「あーでもない、こーでもない」と苦労した時間を失ってしまうわけです。宣伝文と「評」は全く違う世界です。しかし、その仕切り線はボンヤリして分かり難い面があるということも事実です。ということで、この自分だけの自由な世界「脱線CD評」に、テリー・ライリー評を書き直ししよう!というのが本編の主旨でございます。宣伝にならないから良いのだ〜っ!(バカボンのパパ調で。)と得意の開き直りです。さて、本作はこの異色のミニマル作曲家が、作品の提供で行動を共にして来た「クロノスSQ」のメンバー、その息子さんが急逝したことへのレクイエムとなっております。
音楽内容として、これがミニマルか否か、、それは意味を成さないでしょう。
そこには、とても深い表現、純粋な音があるだけです。
音楽としては、どちらかと言えば分かりやすいものだと思います。また、これが弦楽四重奏の音楽であること対して、素直に驚きを禁じ得ません。
僕にとって弦楽四重奏は、良くも悪くも実にクラシックを体現するものであり、それは敬愛するバルトークであっても例外ではありません。つまり、お恥ずかしい話、この弦楽四重奏という形体は実に敷居が高いというのか、その幅が広く飛び越えるのに億劫であるというのが正直な気持ちなのです。
よく知られたことではありますが、この4つの弦楽器はオーケストラの最も最小単位と考えられるわけで、小説で言うなら、彼のステーィヴン・キングが宣っていたように「短編ほど難しいものはない」と。
この言葉に類似にたところがり、骨組みだけで成立しているような弦楽四重奏は、作曲家の馬脚がうっかりすると出てしまい兼ねない厳しいアプローチであることは確かです。
ところが、本作はそれが全く感じられない。深淵で精神性を感じるのは勿論ですが、あまり深刻ではない。弦楽四重奏にレクイエムとタイトルを付けた、、と言うよりはレクイエムというある意味特殊なクラシック音楽の一形態に弦楽四重奏を持って来たところにテリー・ライリーの才気を感じさせるところですが、何しろこの音を聴いていただきたいと思います。個人の受止め方に大きな差異が出てしまう現代音楽ですが、素直に受止めれば心が揺り動かされるところがあると思います。
僕の弦楽四重奏という頑なイメージを、あっさりと打ち砕いてくれた作品です。
音楽とは関係ありませんが(否!!あるのかな、、、?)この紅葉を使ったジャケットがとても素敵です。聴いた音楽から来るイメージとどこか繋がっている感じと言えば良いのか。現代音楽の誤解を解く名作は実は多く存在しますが、本作品もこの仲間入りでしょう。是非、お試しあれ。オススメします♬

PUPA/良薬なのに口に苦くない!

気軽に聴けて飽きの来ない良質J-POP

手垢が思いっきりくっ付いたような、いまひとつな小見出しだが、1Lで形容すればこんなところだろうか。会社の同僚Mさんは、いつも僕にCDを強制的に?貸してくれる音楽ファンだが、彼が貸してくれたCDの中では間違いなく上位に入るのが本作。
高橋幸宏率いるバンドだが、どうしてか高橋幸宏のヴォーカルは聴こえて来ない。参加メンバー達が入れ替わりでヴォーカルを担当しており、それがリピートして音に触れる最たる理由となっている。Amazonのコメントに「弱過ぎる。だから一線超えられない連中なのだ」と勇ましいことを書いていた方が居られたが、やれやれ、、聴き手というのは本当に裾野が広い。たとえその音楽が弱過ぎたものであっても、それは個性のひとつであり、更に強弱を物差しにするのはあまりに短絡的ということになる。弱く見えてえらくしぶとい優男だっているのだ。まあ好き嫌いということだから仕方ないけれど。
この中には、やらたと超速で弾き倒したり、やたらとデカイ音をぶちかましたりというアーティストは見当たらない。僕のピアノトリオとはヒジョウに遠いところに在るバンドです(笑)。高橋幸宏さんがそういう意味では最も硬派かもしれないですが。僕がこのユニットを気に入っているのは、そのパロディ的な部分です。例えば、前作となります「floating pupa」で顕著ですが、バート・バカラックビートルズ、またフランシス・レイからエンニォ・モリコーネまでの映画音楽から上手にいただいているセンスが感じ取れます。その取り入れ方に彼らのバックボーンを感じるところであります。また、高橋幸宏さんのドラムは、例のYMO時代の「リズムマシンをドラムでやってます!」というリズム、フレーズではないところがポイントです。ロック、ポップス基調の中に微かながらフュージョン的な要素もあるところ、その匙加減が流石というところです。おそらく、ドラマーとしての自分に重きを置きたかったのかも知れません。この人のヴォーカルはとてもカッコいいのですが、灰汁もまた強いですよね。昔一時、音楽とファッションでイメージを象った「ジャパン」のセンス(個人的にはベースのミック・カーンが好きでしたが。)から影響を受けたのでは?(逆かもしれない)と思います。このヴォーカルが入ると音楽のかなりの部分でその色合いが決まってしまう。音楽ファンによっては「ちょっと飽きちゃった!」と言われ兼ねない。(ジャパン:ジャパンとは言うものの英国のバンドです。デビッドシルヴィアンを中心とした、退廃的な世界をロックで表現するところがカッコ良かったが人気絶頂で突然解散。)その「えー!!またそれやるの?」を回避したかったのでしょう。バンドとしての新味を暑苦しくない飄々としたイメージで押出したかったと。
それは、上手く行っていると思います。2枚のアルバムをリリースしておりますが、2枚手元に置いても良いかも知れません。微妙に違っており、その微妙な具合は少し興味深い差異でもあると。本作をセレクトしたのは、より音楽が有機質で温かな風合いがあったからです。これは前作にはなかった部分、もしくはその質量が少なかった。電気的でサウンドとしては凝ったものだったが、若干やり過ぎのところがあり、それが全体的に散漫な印象を受ける場合もあった(聴くこちらの体調や、気分によって。)そこが随分改善され、作品の押し出しが強くなったと思います。個人的な受取方ですが、僕は本作の方により美メロが散見されていると感じます。パッと聴きでは確かに弱々しく、頼りな気に歌う男性ボーカルですが、その旋律と歌い方には必然性があり、共感を持ちつつ音に触れることが出来ます。
PUPAは確かにマニアックな歌モノバンドでしょう。しかし、素直に接すれば気持ちよく心に入って来る刺さらない音楽です。「良薬なのに口に苦くない」と言うわけです。耳に刺さらない、聴きやすい音楽、それでいて力があるということ。音楽造りにおいてそれが一番難しい。しかし、そういう音楽が繰返して聴かれるわけです。

もの凄いソロがあるわけじゃない。驚くべきヴォーカルが居るわけでもない。しかし、センスの重なりと工夫、知的な遊び心でこうした優れた作品を完成させるところがポイントでしょう。キッカケはTVで偶然みたライブでした。そして、同僚MさんがCDを貸してくれたと。異動となり顔を合わせる事がなくなりましたが、僕のiPodでは今もPUPAが鳴っております。時々聴きたくなる、癒されて、温かくなって、少し別な町へとワープする。なかなか効能の多い音楽ではあります。

これを個性と言う/ゲルニカ・改造への躍動(拡大版)

戸川純というなら、、僕の場合「玉姫様」よりはこちら?

最近、喉に小骨が刺さったように(この表現をネットで調べようとすると恐い病気の話ばかりとなる、、笑)忘れられたバンドとその展開された世界。それが一体何だったのか?
遅い夕食(肉じゃが+ツミレ汁)をとりながら、このCD評に肝心なバンドが漏れていることにふと思い当たりました。その昔、戸川純は「ヤプーズ」というバンドをやっておりましたが、当時僕はのこのバンドの「玉姫様」ってアルバムを持っておりました。しかし、彼女のヴォーカルを楽しく聴くなら「ゲルニカ」ということになると思います。〈怒られないうちに書いておきますが、「ヤプーズ計画」は間違いなく名盤でありましょう。〉ゲルニカ戸川純と作曲・キーボード担当の上野耕路、プラスして歌詞・アートワークを担当していた太田螢一を加えた三人のユニットということになります。戸川純の個性で成り立っているところは確かにありますが、しかし、このユニットの最たる特長はその音楽内容そのものにあります。交響曲管弦楽、協奏曲といったクラシック音楽の特徴的な要素を数分の小さな尺に大袈裟な手法でぶち込むと。シンセのこれでもか!という程の「オーバーダビング」、裏方ながら"絶対的な存在感"際立つリズムボックスの組合せがサウンドの要です。おそらくは「Dr.リズム」辺りではないかと思われます。
「TR606」や、まして「TR808」ではこのようなチープ具合にはならない。リズムマシンはドラムに特化した自動演奏装置の事。作成者が任意にプログラムすることが出来る。Dr.リズムはRoland傘下のBOSSがリリースしたコンパクトなリズムマシン。長年、改良を続けて新しいモデルを送り出すが、ゲルニカが使ったのは勿論初期モデル、かなりの力技を使わないとこの音楽の成立は難しい。TR606・808はローランドがリリースしたリズムマシン、共に多方面で使われ特ににTR808は愛称を「ヤオヤ」と付けられアメリカのソウルシーン等でも活躍した。

それにしても、プロコフィエフからストラヴィンスキー、はたまたヨハン・ショトラウスまで登場するパロディとパロディのぶつかり合いで、凄い密度感のシンセサウンドに呆れる。しかし、それも電子的でもなく、MIDI的でもなく、どこか微笑ましい電気音楽なのである。しかし、こうしたクラシック調音楽全開(全て上野耕路が作曲したオリジナルとなる。)の上で、オペラ調で歌う戸川純のぶっ飛び具合がまた素晴らしい。これを憶えて歌うだけでも大変だったに違いない。これを聴いたのは随分昔になる。当時、ジャズスクールに一緒に通っていたN君と江古田の貸レコード店(死語)で借りたのがコレ。二人でゲラゲラ笑いながら聴いたのを憶えている。彼が聴いて欲しかった曲は「動力の姫」だが、実はなかなかの旋律を持つ「カフェ・ド・サヰコ」「曙」楽しさ満載の「潜水艦」、本当に登山しているような気分になる「夢の山嶽地帯」等、魅力は尽きない。また本作は初期のアルバム収録の作品が網羅されており、音質も2016年のリマスタリングにより質感が圧倒的に向上している。僕としては、あのチープだったガサガサした音こそゲルニカだと思うところがあるので、胸中は複雑なのでありますが。しかし、ゲルニカ初心者?(是非、頑張って聴いていただきたいです。)にはこちらのキレイな音の方がより入り込みやすく作品の機微が分かって楽しい気分になれるでしょう。この限界を突き抜けたような個性に入り込めるかどうか、それは聴き手の踏絵のようでもあり、音楽IQ(数値が高いから良いとは限らない)のメータとも言えるかも知れません。まあ、これを嫌いだ!と言っても全く問題ないと思います。「こんなの受け入れられない」ということもまた感動のひとつ。数多の音楽がこの世に在れど、ゲルニカほど白黒ハッキリ付けやすい音楽もそうないだろうと思います。余談になりますが、ゲルニカのライブは一度見た(聴いた)ことがあります。神保町の教育会館というところでしたが、確かチェロとピアノを中心としたシンプルな編成ながら、しっかりゲルニカを再現しておりました。戸川純上野耕路のMC、マニアな音楽と共に今でも印象に残っています。こうした音楽を生み出した背景にはやはり、¥(エン)レーベルを主宰した細野晴臣の存在が大きいでしょう。僕は国産音楽に限って言えば、この辺の時代が一番楽しかった。また違った形で自分の想像を超える音楽の波が来ることを願っております。更に脱線しますと、戸川純が影響を受けたアーティストとしては「Phew」ということになるそうです。なるほど、少し上ずった感じの音程の取り方等に影響が見受けられます。しかし、戸川純Phewほどには音痴にはなれない。そこに決定的な違いがあります。でも、音痴になれないから駄目!!、というのでは可哀想ですよね(笑)このレーベルで他に聴いていたのは「インテリア」や「立花ハジメ」です。今も現行型の音楽として十分に応えてくれます。否、、それどころかこちらの方がずっと面白いかも知れない。こちらも機会があったら是非♬

摩天楼サウンド/マイケル・ブレッカー+クラウス・オーガーマン

こう言う音楽って売れないのだろうけれど、、。

悔しいなぁ、と思うのです。結婚前にレコードで聴いているからおそらく28年くらい前に耳にしていると思う。
今聴いても、全く古い感じがしない。
むしろ新鮮に思うくらいだ。大体、こういったアプローチのアルバムリリースは例え欧米であっても希なケースではないかと思う。当時これだけの売れっ子を集めて収録するのも緻密なスケジュール管理が必要だったに違いない。それにしても、この表現力はどうだろう?頭が地にくっ付きそうなくらいにショックを受ける。マイケル・ブレッカーのテナーサックスはそれは美しく、この夜のニューヨーク(でしょうか?)、その摩天楼のパノラマを音にし尽くしている。これだけイメージが的確に表現された例を僕はあまり知らない。まるで、自分がヘリコプターにでも乗せられて上空からニューヨークの夜景を眺めているようだ。この「音楽の表現するイメージ」ということで、思い浮かんだのは「現代音楽の寵児」と言われるリゲティのピアノエチュードから「」だろうか。本作と共にイメージ表現の素晴らしさを教えてくれた例として記憶に留めておきたい。タイトルにはマイケル・ブレッカーとクラウス・オーガーマンと在るが、これは実質クラウス・オーガーマンのアルバムではないだろうか。しかし、クラウス・オーガーマン一人の名前ではセールスにならないからフューチャーしたサックスのマイケル・ブレッカーと併記したのではないかと、捻くれている僕は勘ぐってしまう。(このサックスがなければ成立しないこともまた事実なのだけれど。)
それにしても、このオーケストレーションの妙、美しさは筆舌に尽くし難い。

クラウス・オーガーマンを知ったのは、確かNHK/FMで松任谷正隆さんが紹介してくれたからです。彼がそのオケの高域の音と音をぶつけながらも隠し味として鳴らし、アヴォイドしていることを逆手にとって美しいサウンド表現としていることを、説明してくれました。僕はそれからすぐにこのアルバムを買いましたが、その技術的なことよりも、全体のサウンドから受ける世界観の凄さ、眼前に広がる景色に圧倒されてしまいました。
音楽がこれだけの力を持てることに圧倒されましたが、しかし同時に、その頂に辿り着くまでに、一体どれだけの勉強・研究と実践が必要なのだろう?と愕然とするところもありました。
このページを書くにあたって久方ぶりに、本アルバムを聴きましたが、その感動具合には変化はないのですが、更にリードの旋律がとても良いことに気付かされます。この美しいラインを演奏させるにはマイケル・ブレッカーというのは必然だったのでしょう。今は亡き天才(「天才」という言葉は好みませんが、敢えて)サックス奏者を偲びつつ聴くには最適なアルバムであります。また、このオケを支える他の演奏家達もまた実に良いアプローチをしております。ドラムもこの音楽内容からスティーブ・ガッドでないとハマらないですね(笑)まだ若手であったであろうマーカス・ミラーのクレジットも見えます。
そして無視出来ないのが、このレコーディング技術です。オケと対峙するドラム、サックス、エレクトリックベース(時折ピアノの刻み等も入りますが)、実は多くの技術が結集してこの立体感溢れる音楽を記録しているわけです。繊細極まりないオーガーマンの弦アレンジとサックスとのバランス。そこには、完璧な収録からミックス・トラックダウン作業を垣間みることが出来ます。勿論、マスタリング技術も然りです。

当時の米・楽壇の勢いを感じさせる優れた作品という見方も出来るでしょう。本当はこういう音楽が売れて欲しいのだけれど、、、。無理か。。ジャケットのデザインも音楽内容をよく表しており、とても好感が持てます。

吉田美奈子/長く身近にある「声」

ヴォーカルアルバムでは珍しいイメージの押し出し

吉田美奈子は愛とか恋だけではない、イメージを歌える演奏家に近いヴォーカリストだと思う。
僕は「ヴォーカリストで誰かイイ人いない?」と聞かれたら迷わず吉田美奈子と反射的に応えると思う。これまでの人生、最も暗かった音大時代、クラシック音楽をやっていくことに反発していた頃に聴いたのが本作となる。陽のあたらない四畳半にアップライトピアノを押し込んで、小さなテーブルひとつの部屋。当時の僕にとってこれは別世界に連れて行ってくれる温かな光のようなものでした。
さて本題に入って行きましょうか。
作品力、バックを固めるアーティスト達もまた素晴らしいけれど、何と言っても吉田美奈子の場合は「声」が中心線に在る。日野皓正がどんなに気の利いた(それはもう素晴らしいソロですが)ラッパを吹いても彼女の声は微動だにしない。高域の透明感、低域の官能的な具合は一度ハマってしまうとなかなか抜け出すのが難しい。どこまでも延びて行くような錯覚を憶えるような人間離れしたヴォイスはライブで聴くともう少し暖かみを感じさせるものだった。本作はスタジオ録音では5作目ということになるらしい。前作とは方向性をガラリと変えている。バックに配されているのはジャズ・フュージョン分野の誰でも知っているアーティスト達であり、特にリズム隊の村上ポンタ秀一高水健司が良いアプローチをしている印象。ポンタさんは先ごろお亡くなりになったが、このアルバムを聴くと他では聴けない独特なリズムセンス。聴いてそれとすぐわかるアーティキュレーションが若々しく、この頃バイトしていたヤマハの特設ステージで聴いた(見た)ドラミングと繋がってくる。本アルバムは最初聴いた時から、その音質に違和感がありました。響きがデッドでまるでどこか学校の教室でテレコで録ったようなイメージ。平たく言うとエコー感がないというのか。

それは後々調べて分かりましたが、これは一発録音なのです。しかも驚きなのがヴォーカルも同時に収録されているらしい。
なるほど、一発で録る場合(つまり時間を置いてオーバーダビングを行わない。スタジオライブ状態である、ということ。)の他楽器の被りを排して臨場感を前面に出そうとすれば、このようになるか!というところです。これは演奏が頑張らないと形にならないのだけれど、そこはそれ手練ミュージシャンの集合体ですから逆手にとって、とても魅力的な音楽に仕上がっております。演奏の息づかいが届くような、素晴らしい録音アイデアですが、こうしたレコーディングの持つ方向性は吉田美奈子の音楽性にとって重大な影響があるはずです。個人的には本作が彼女のアルバム中、最も本来的というのか根っこの部分に寄り添った制作だったのでは?と思います。彼女は曲を作る時点で全体イメージが固まっており、アレンジやスタジオ作業においてその「孤独から見えたの世界」を変えられたくない!という気持ちが強いのではないかと推測されます。そういったことから本アルバムは、妥協点を限りなく削りとった吉田美奈子そのものである、と言ってもイイと思う。ちょっと大袈裟だけれど、、笑
荒井由美も、大貫妙子浅川マキも最初に聴いた時、その違和感は絶大でありました。そしてまたこの吉田美奈子の違和感もまた負けておりませんでしが、自分が長く聴くことになるヴォーカルの声というのは仕切り線がとても高く、そのユートピアは乗り越えた先にあるわけです。僕はどちらかというゴスペルとかソウルに傾いていった時代より、それ以前のジャンルのハッキリしない本作が好きです。ここに吉田美奈子の起点、中心が在るというのか。きっと、それは僕の勝手な「そうであって欲しい」という願望が書かせているのかも知れませんけれど。最後にこのアルバムで特に好きな作品は、何と言ってもタイトルの「トワイライト・ゾーン」、そして「恋は流れ星」です。余談ながら「恋の流れ星」のポンタの演奏は、スピード感がとても良く、こうした歌のバックであっても分かりやすい形で表出しております。随分と抑えた演奏ですが、それでもフィルインでクレッシェンドするようなところに彼らしい音楽性、歌っている感じがあって、こういうドラマーはもう出てこないかも知れない、とシンミリしてしまいます。このように本アルバムは演奏も楽しめますので、楽器をやられている方も是非!
〈加筆修正:2021.04.28〉

大貫妙子「ROMANTIQUE」/「雨の夜明け」が、、。

品のある旋律、そして「声」

荒井由美ミスリムが、今もって国産ポップスでは名盤としたい。しかし名盤も数聴いていては悲しいかな飽きてしまう。そんな時、遜色無く、でいながら世界の違うヴォーカルは居ないのだろうか?となるのだけれど、尾崎亜美ですとセンスとしては推したいのだけれど若干弱く物足りない(ファンの皆様、すいません!)、と言う気がする。1曲取り出して聴くと、歌も上手くて悪くないのだけれど。そこで登場するのは、僕の場合、この大貫妙子吉田美奈子(先々、取り上げたいと思います。)となる。この二人は、ミスリムでコーラスで参加しており、あのサウンドのカラーの一部となっている。結局、荒井由美から引っ張り出された二人ということになり、なにやらユーミンの大きさみたいなものを感じないではいられない。
しかしだ、、では大貫妙子の作品力がどんなものか?と言えば、この特徴的な声を持つ女性シンガーソングライターは大昔から存じておりますが、美メロ作りにおいては、唯一無二のセンスを持っており他のアーティストでは代わりは勤まらない。
その美メロが分かりやすく、ハッキリとした形で表出しているのは本作と、もっと若い時分にリリースした「MIGNONNE」になると個人的には思う。この旧作であっても既に珠玉の名曲揃いであり、後に腕っこきのアコースティック楽器奏者による、カバーアルバムのリリースもあるが、これも出来が大変良くオススメです。
特にそこそこのオーディオで聴くと彼女の息づかいが感じられ、その魅力が倍加するということになるわけです。さて本作の最たる特長は、そのサウンドにあります。
YMOが絡んでいるのです。これに関してはいろいろと賛否が持ち上がっているようです。例えば、主役がYMOであり、大貫妙子は彼ら三人のサウンドに寄り添っている、もしくは合わせている感じがする、、という類いの内容である。
確かにこのアレンジはリズム然り、フレーズ然り、あまりにYMO的(笑)という気がしないでもない。
しかし、全体を通して聴くと、彼らはYMOサウンドと彼女の持つ音楽との棲み分けを丁寧かつ繊細な作業においてクリアしていると感じます。
また、たとえサウンドにあの灰汁の強いシンセとフレーズが貼り込んでも、彼女の作った旋律が揺るがないのは勿論、あの少女のような声、でいて深く聴くと"力強い声"は欠片も揺るがないという気がします。

因に本アルバムの名曲揃いの中、最も好きな曲は、ハッキリと「雨の夜明け」です。彼女の全曲の中で「横顔」と並んで群を抜きます。ビックリするほどに良い曲、形容するのもバカバカしい。どうぞ聴いいただければ、とそれだけです。
大貫妙子は女性シンガーソングライターの中でも、おそらく頑固な一面があり(もちろん良い意味で)、また不器用な面があるのだと思います。(これもまた良い意味で。)
よって、その個性に変化は軽微であり、変って行くのは作風だけです。根底に横たわる品格の高さ、そしてこれ以上あろうか?という繊細な旋律、そして「声」は驚く程、一環していると思います。本作を選んだのは、彼女の旋律において頂点にある作品と判断したからです。これから秋の夜長、女性ヴォーカルを聴きたい気分の音楽ファンにピッタリでしょう。

電話の向こう彼女の声は明るかった!/浅川マキ

時が経つほどに存在感を増す希有なシンガー

思い出深い人です。若い頃(20歳を少し超えた頃)の自分は向こう見ずというのか、厚顔無恥の針がメーターを飛び出しており、思い出すと布団に潜ってしまいたくなるようなことばかりして来ました。著名なアーティストに自作を聴いて評価をいただく、という一連の「無茶シリーズ」は2年程続きましたが、その間送付した"カセットテープ"は30本くらいでしょうか。手書きの手紙を添えて、もちろん返事など期待せずドーンと送りました。躊躇などしませんでしたね。根拠のない自信があって、今思うとそういうのを「真性バカ」というのであろうと苦笑いです。しかし人生、そういう冒険をしなくなったら終わりなのかも知れません。昨今の僕は人と上手くいかないことを恐れて本当に大人しくなりました。その30本のテープに返事をくれた物好きな著名アーティストさんは3名おられます。もう時効だから言っても良いでしょう(笑)本アルバムの浅川マキさん、矢野顕子さん、深町純さんです。
冷静に考えれば、この3人から反応があったのであれば、後は失礼ながらどうでも良いと思えるくらいだと思います。これは、今もって自分の糧となり、励ましでもあります。浅川マキさんは、イメージが先行しており根暗と思われがちですが、おそらくライブをご覧になった方はお分かりの通り、決して暗い人ではありません。
大らかで明るい人だったと僕は思っております。少なくとも僕の知る彼女は姉御肌で気風が良く、よく笑う人、女性としてとても魅力的な方でした。ご自分のヴォーカリストとしての要素を深く試行錯誤するにおいてジャケットや、音へのアプローチがあのようなイメージを確立していたわけで、本人のキャラとは意外に乖離しているというのが僕の持論です。そしてまた、それが彼女の才能であり、ひとりの音楽家として凄いところだと思います。そして、少しでも面白いなと思えば(思ったらしい)僕のような無名アーティストでも、一音楽ファンであってもしっかりと手書きで手紙を送るという、つまりは信じられないほど謙虚で心の広い方です。また、有名アーティストでありながら、自給自足的な方法をとり音楽産業の一要素であること・迎合することを徹底的に嫌った人だったと思いますし、浅川マキを語る上で欠かせないひとつの要素ではないかと考えております。
人間力というのか、それが彼女の音(声)にストレートに出ているので、確かに本アルバムでも「赤い橋」などを聴くと「ウォーッ、こりゃ暗過ぎるぅ〜!!」となりますが(笑)、コメントでどなたかが言っておりましたが、「暗くてまいった!、でも先にまた聴きたくなる気がする」
そうなんですね。僕も最初彼女の姿、歌をTVで拝見したときは「あわわっ、こりゃ駄目!」と思ったのですが、今では、その魅力を理解している一人と少しだけ自負がございます。好き嫌いは実は紙一重なんです。僕の場合「親友に限って第一印象が良くなかった」いうことが多いですが、似たようなところがあります。嫌い、聴けない!というのも大きな感動なのですね。
本人に(当時ハッキリ言ったと思いますが、、)「暗い、暗過ぎる!」と言っても「ひどいー!!!!ハッキリ言うね、、あはははっっっ!」と笑うだけで怒ることなどありません。むしろウソを言う人を嫌うのでしょう。そう言う人です。

本作の素晴らしいのは企画に浅川マキに対する愛情と理解が感じられることでしょうか。ライブテイク(それも一カ所ではなく紀伊国屋ホールアケタの店等)を上手にミックスしていることです。この不世出のシンガーが目の前に生き生きと蘇るようで、心打たれます。僕も当時「暮れ恒例」でありました池袋文芸座ル・ピリエのライブは聴いたことがあります。あの時ベースを担当されていた川端民生さんも亡くなられて久しく寂しさこの上ないです。が、だったらCDを聴くのだ!と強く思います。CDの中、展開される世界においてアーティストは生き生きと演奏しております。つまりその時間において生きていることと何も変わらない。記録することの意味を深く考えさせられます。