ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

Phew/VIEW・ハイファイなPhew? 

ユーザーコメントを真に受けるかどうか?それが問題だ!

さて前回のPhewの新譜評にて「宣伝部長」宣言みたいなことを申し上げたましたので、これは1枚だけのレビューでは物足りないわけであります。それにしても何だろうね、この「ハムレット」みたいな小見出しは?その裏事情からこの本評を切り出して行きたいと考えなのです。
さて、ジャケが気に入ったこともあり本作の購入に踏み切りました(大袈裟!)このアルバムのコメントに「ダメです。これを聴かなくては」と件が在り、それが"強く背中を押した"というのがもうひとつの理由ではありますが(更に大袈裟!!)。このアルバムの受止め方で、聴き手のサウンドの指向、音楽アプローチに対するセンスが分かるという気がします。そう言った意味で本作は「踏み絵」みたいなイメージがあります。まず、最も分かりやすいところで言えばリズムのアプローチです。ドラムが普通にバックを押し上げるPhewを否定するわけではありません。また、、ドラムのサウンド、組み立てるリズムの内容によっては、新しい作品である「A New World」を超えた魅力を得ることは可能かと思います。例えばその昔、彼のレッドツェッペリンがガレージで収録したようなサウンドをイメージして、尚かつドラムはオカズを排除した特異なリズムセンスをリピートするような方法であれば、、、。

つまり、本作の気になるところを正直に言わせていただくと、リズムのサウンドと、そのアプローチが彼女の芸風に今ひとつマッチしていない!と感じます。この「感じます。」がくせ者でございまして、、、。感じ方は十人十色。上記の通り「これを聴かないで何がPhewであろうか?」とまでおっしゃる御仁も居られます。
結局は好き嫌いの範囲に足を踏み入れると、その先は不毛な世界になってしまうのですよね。僕の場合、本作は素直に受止められる曲と、この曲は要らなかったのではないか?とさえ思うものと分けられます。そして全体としてPhewにはハイファイ(死語か?)の色合いは出来るだけ避けたい要素であろうと、勝手に納得するわけです。"音楽においてサウンドが解像度高く鮮明であるということが不可欠"というのは大いなる勘違いです。どのような世界にも例外は(実に小さな欠片かもしれないのですが)声高らかに存在します。音楽制作において使用される器材とアプローチはその時代の様々な環境と相まってアルバム全体のサウンドを決めるわけです。アルバム全体の持つサウンドイメージが数年から数十年後に振り返った時、どのように聴こえるか?というのは音楽家にとって、とても頭の痛いところかも知れません。例えば、サラリーマンも知っていたYAMAHAの名器「シンセサイザーDX7」の音は"造った音"であればそれは素晴らしい。しかし流行に乗り過ぎた音は古い音楽より更に古くさい。そういう音色を無頓着、無意識に使うのは演奏家の深い落とし穴です。本作を聴くとサウンドのどこかに時代の色彩を感じます。そこがせっかくのオリジナルの良さを損ねているのが残念なところです。「ダメです!これを聴かないと」と書かれたコメントは「何をして」なのか。それは彼女が(意外に)普通に歌っているところでしょうか?であれば、僕はこの聴き手さんとは聴いている部分が全く異なると思います。
彼女は「A New World」という僕のような凡人ではとても思い浮かばない「世界」を音というツールを使って造り上げました。その世界とは時間軸が取り払われて夢と現実がゴチャゴチャになったような実に不思議な迷宮のようなものです。音楽はその迷宮構築のためのツールであるというところに共感を持ちます。

今現在の彼女は一人のPhewという作り手に研ぎ澄まされた印象を受けます。アプローチはシンプルを極めて、それがよりタイトでありますが決して小さくまとまっているわけではない。音楽家はどうしても音を注ぎ込むものです。それがまるで宿命であるかのように。であるからこそ飾りを捨て去り鋭く透明な線となる音楽家には心より敬意を持つものです。

如何なる種の音楽であれ絶えず精進し、試行錯誤を繰り返し、無駄を切り捨て研ぎ澄まされて行くという道が朧げながら在るのではないか?と考えさせられます。本作を聴き、そして僕の最も好きな「A New World」を聴くとそのように彼女の音楽家としての深き試行錯誤のレールが反射しているようです。比較して眺めてみる、そして自分の好む方向を認識してみるというのなら「VIEW」の立ち位置は興味深いものです。どのように感じるか?この踏み絵をどのように見るか、踏みつけるか、避けて通るか、最初から見ないか(笑)それによって自分の好む「音楽の造られ方」が分かるかも知れない。どうぞアナタもPhewの迷宮に足を踏み入れてください。

STEPS/PARADOX「K子は今何処に、、、。」

演奏家に必要となる音楽性とは如何なるものか?教えてくれる!
今でもそうですが、僕の「面倒くさがり屋さん」は古来からの歴史がございます。自分のライブくらいならそこそこ真面目にやりますが、人様のライブに行くのが実にかったるい!
街の喧噪に揉まれ、帰宅が夜遅くになるのも好まない。
そんな人間なので、これまでのライブの半分くらいは付合っていただきました女性(奇特な方達です)、もしくは現嫁が「さあ、これは聴きましょうよ!」とチケットを用意してくれたのであります。
どうしようもない人間です。というか「音楽家として如何なものか?」と我ながら疑問を感じるところです。ところが一度入り込んでしまうと、どうにも止まらなくなるのが拙者のもうひとつの側面であり、本アルバムはその典型でございます。このステップスの面子にゲストとして渡辺香津美が入ったライブを同じ高校出身で当時付合っていたK子がチケットを買って来ました。彼女は別れるまでの4年間で4回くらいのライブ行きを勝手に決めて面倒臭いという僕をズルズルと引きずるように連れて行ってくれました。先ほど年月日を調べてみると1982年3月1日の厚生年金会館(新宿)、どうもこれらしいです。
今更ながら胸が熱くなる感じがします。
そのライブと本アルバムの演奏内容はほぼ同じイメージと言って良いと思います。
タイトルが変っている作品もあるようですが、このアルバム自体もライブアルバムであり、自分の心に刻まれた音と不思議なほど重なり、音楽というものが時を超えて訴えて来る美しさに改めて敬服するものです。
このメンバーの中で、今も敬愛するピアニスト・作曲家のドン・グロルニック、そしてテナーサックスのマイケル・ブレッカーは既に故人となられ今は天国にてセッションしていることと思われます。残念なことではありますが、しかしこのアルバムにおいては正に現在進行形で音として生きており、その演奏のあまりの神々しさに心打たれます。頑迷なジャズファンの多い世界で、これは問題発言の恐れあり(笑)と思われますが、ステップス以前・以降でジャズが分かれるとすら僕は思います。それはクラシック音楽において新古典派と言われるバルトークの立ち位置にも似たところを感じます。
振幅を大きくとり、少しくらいの引っかかりやミスは大らかに考え、それを味として消化してしまう従来の(それはそれで否定しないものですが)ジャズとは明らかに違う。音楽は煮詰められており、それはドラム、ベースの低域担当であっても例外ではない。この音楽内容を具現化出来るベーシストと言えば当時、エディ・ゴメス以外では考えられないところだったと思いますし、またスティーブ・ガッドにご遠慮願って、ピーター・アースキンに交代したのもバンドの深化にとっては、どうしても必要な流れであったと言えるでしょう。ガッドのドラムは嫌いじゃないしチックコリアの「妖精」辺りでの彼はやはり素晴らしい。しかし、ステップスにおいて彼のドラムではどこか平坦でバンドのスケールアップに歯止めをかけてしまう。あるファンによっては「ガッドはスィングしていないから」とコメントするが、そういう形容もありか。バンドにおいて如何にドラムが全体イメージを決定するのか!ということを雄弁に語っている例がこのステップスにおいても体現していると言うことになりましょうか。何度も聴いて行くと、これがジャズという形体を借りた、ジャンル不明なコンテンポラリーミュージックという体を成している気がしてまいります。例えばドン・グロルニックのソロや作品に対するアプローチはとてもジャズだけでは説明が付かない。作品はこのユニットを率いたヴィブラフォンのマイク・マイニエリが書くことが圧倒的に多いですが、本作ではドングロルニックがM1、M4を書いており、これが親方に負けずに出来が良い。担当楽器の性質から来るものなのか、ドン・グロルニック作品の方が若干叙情的な雰囲気が強いように思います。余談になりますが、ライブ当時ピーター・アースキンのヘアはまだ若干残っておりまして(笑)、撫で付けた髪の毛がライブ後半になるにつれて逆立って訳の分からないカオス状態になって行ったのが愛嬌でありました。このアルバムは僕にとって単なるお気に入りの作品を通り越しており、クラシック流な形容をすれば、自分にとっての「聖書みたいなもの」に近い存在です。聴いていると、この音楽からスキルを吸い上げたい!という出来の悪いポンプが作動するわけです。そしてコレと言って面白い音楽が見つからない時、本作があるではないか!と言うことになります。出来ればこのメンバー構成でスタジオ版を1枚リリースして欲しかったという気がします。この後改名した「ステップスアヘッド」も決して悪くないですが、このパラドックスのステップスを"イチオシ"としたいと思います。STEPSというとどうしてもK子の姿が浮かんできます。時が止まっており、若いままなのが嬉しいのか悲しいのかハッキリしませんけれど。でもこれって音楽のイイところかも知れませんね。今の彼女が幸せでありますように、、、ということで本日は筆を置きます。

アンドレマルケスは、ブラジル音楽だけでは括れない!

ブラジル・ジャズシーンの先鋭ピアニストを聴いてみる

本作は、ジャズピアノトリオの編成となります。また、最たる特長として"エルメート・パスコアール"というブラジルを代表する作曲家の作品を取り上げており、それは材料として十分に咀嚼され創出されたものだと思います。アンドレマルケスは芸風が多彩で形容に若干困るところがあるのです。ブラジル音楽のイメージで本作を聴くと異質な感じを受ける部分がありますが、伝統的なブラジル音楽をそのまま演奏されては飽きっぽい僕としては少し困ると。その点、これでOKということになりますか。僕は比較すれば、その幅広い音楽性が余すところ無く楽しめる6人編成のスタンスを評価しますが、聴きやすく、取っ付きやすいのは本作かも知れません。僕がこのアルバムを買った理由は2つあります。ひとつは偶然通りかかったYoutubeで聴いた(見た)内容に共感を持った事。この時、大変不勉強なことにその作品がエルメート・パスコアールをカバーしたものとは気付きませんでした。ピアノの左手がその役割を十分に発揮したアレンジには、ブラジル音楽やジャズというよりは、間違いなくクラシックの素養を感じさせるところであり、実際ピアノソロアルバムではそれが顕著なのであります。そして2つ目は、リズム隊に最近僕が最も気に入っているドラムのブライアン・ブレイド、ジャズシーンでは説明不要の超絶技巧ベーシストであるジョン・パテトゥチが名を連ねているというところです。この二人のリズム隊はピアニストやギタリストからすると、ひとつの理想とも言える組合せではないか?と思います。
これは、Youtubeでも確認出来ておりましたが、この二人のアプローチにも相当な期待を持っておりました。
結論から言えば、エルメート・パスコアールの音楽を「アンドレマルケスピ・アノトリオ」として煮詰めるには少々時間が不足していたところが僅かに感じられるものの、これが聴く回数を増やしてまいりますと、不思議に気にならなくなり全体としての音楽内容に耳が行くようになります。何しろ、テクニックがあるので、乗り越えちゃっておりますが、この二人だから何とか形に出来たのかな?という作品が散見されます。エルメート・パスコアールは彼のオーケストラで聴くと、大きな振幅、少々のズレや引っかかりをものともせず、音を前に前に進めるのが魅力です。しかし、ピアノトリオという小さな単位では、一人のパイの取り分が大きく状況は大きく異なる。そこはそれ、アルバム全体を聴き終わると、上手にまとめた印象が残ります。例えば"本家エルメート"のオーケストラではガチャガチャと賑やかだったところが、精錬で温度を涼し気なものに下げて、これはこれで聴いて共感する聴き手もおられると思うのです。
アンドレマルケスの音楽アプローチはジャズシーンではあまり見受けられない現代的な感覚を前面に出すところがあります。その現代的なアプローチは本作でも堪能出来ますが、これはピアノソロでの演奏が顕著でしょう。僕は上記でふれたピアノの左手に特長を持たせたM3.COALHADA、そしてピアノソロのM7.FERRABENSが本作を支える柱と思います。
本作は、もう少し柔らかく主張する作品も入っており、全体としてはカラフルな造作です。ジョン・パテトゥチのとても美しい弓弾きも聴けますし、ブライアン・ブレードも実はいつもの主張を少し奥に引っ込めて軽快でラテンを意識した演奏を考えたのかも知れません。こうして、何度も聴いて行くと評価を変更しなければいけないアルバムというのは少なからずあります。本作もその典型であり、今、こうして若干慌て気味で手直ししております。もう一度読んでいただければと思うのですが、さて。。《2019.05.05 加筆・修正》

Phew「A New World」/二度美味しいキャラメル

暗い夜道で笑ったら、、そりゃもう、、!

実はこのアルバム、救いを求めて買ったような気もする。酷い鬱な精神状態。音楽を止めてしまいたいという「また始まったか!」という"悪い病気"の再発。良薬は口に苦し、とはよくぞ言ったもの。結果として、自分が望むような救われ方ではない方向ではあるけれど、しっかりと救われた気がするのである。
昨年11月からスタートさせた副業のためこの町の至るところに出没する自分。一昨日も新しく考えた近道で坂を下り川の向こう側を目指す。人の住まなくなったN団地群の影は闇夜よりも深く不気味という他はない。こんなルートを考えた自分を呪いつつ愛用のiPodを遠くなりかけた両耳に差込む。聴こえて来るのは昼休み途中まで聴いていたPhewの新譜。思わず笑ったら出会ったオヤジがササッと避けていったのは当然であろう。暗闇で笑う男、、そりゃ恐ろしい。

そしてこの何しろこの音楽、、、。

この夜道にハマる最強の音楽と言い切れる。それは夕暮れの物憂い時間帯にECM・ギタートリオがお洒落に溶け込むのとは随分と趣が異なるわけだけれど。そして聴いていくと自然に出る反応は"笑ってしまう"こと。どこから来るのだろう?このヴォーカルの素晴らしき滑稽具合というのは。笑いを誘うのは、その上ずった音程感に在るのかも知れない。微妙にジャスト位置から#(シャープ)していく。それはPhewにしては(笑)まともに歌う「浜辺の歌」であっても例外ではない。しかし何をカバーするって、、「浜辺の歌」というところに真骨頂の一旦があると思う。英国にケイト・ブッシュあり、、そして日本にPhewあり!と言い切って良いか。Phewを知ったのはもう数十年前、限りなく遠い昔のこと。彼の坂本龍一NHK・FMで教えてくれたのがキッカケだ。即行でアルバムを買ったのだが、それがホルガーシューカイとのコラボレーションで知られている作品となる。比較すると今回の新作は圧倒的に自分の好みに近いように感じる。Youtube・ライブ動画を見ると、彼女は意外に"ライブの人"である。ヘッドセットマイクと、サンプラー、そして各種音源をバランスさせるミキサーを一人で操作しつつ、あの例の掴み所のない「声」を発して行く。サウンドや声にディレイを中心としたEF(音響効果)を付加したり、というところが目立ったところだが、実は歌詞にも注目していただきたい。
これが実は笑える、、というか面白い、、というか訳が分からない。Phewを聴く人間はデジタルの様にカッチリと分けられると思う。0/1の世界、、白か黒か、、紙媒体においては原則的に墨1Cで生成されるQRコードのようでもある。好きと嫌い、、この音楽に入り込む音楽ファンは一体どういう人達なのだろうか?聴き手側の個性もまた比例して面白そうだ(笑)本作に入っている作品はどれもこれも面白く、僕にとっては新しい音楽として聴こえる。全体的には「ひとつのカタマリ」として差し出されるところは、映画のようでもある。意外に様々な手法を凝らしているのだが決して散漫になることなく、自分の設定したレールを驀進するところが美しい。ぶっ飛び具合で言うなら「My Walts」だろうし、  その堂々とした歌いっぷりに呆れ笑ってしまう上記「浜辺の歌」も目立つところか。このアルバムの心に投影する力は信じられないほどで、さっぱり上手く行かない手前の音楽など畳んで彼女の宣伝部長になりたいくらいの気持ちでコレを聴く。そして教えられることもまたある。自分の音楽を見つめそこから自然で曲がらない形で表現方法を捻出すること。上記で少し触れた動画ではR社のSPシリーズ(直感的な操作を可能としている小型サンプリングマシン)を使っている。このマシンの使いこなしから彼女が自然体で音楽をやっていることが見て取れる。頑固で不器用で「このようにやりたい」ということが明確ということ。人にどのように見られようが「知ったこっちゃない」自分の信じた道を突き進むというカッコいいオバサマ(失礼!)なのである。
楽しく聴けるだけではなく、音楽のやり方まで教えてくれる某キャラメルのような二度美味しいアルバムなのであります。

※本記事は白紙からの書き直しです。このアルバムがより好きになったところでリニューアルしました。

加藤登紀子・坂本龍一/愛はすべてを赦す

坂本センスは黒子に徹したところで冴える!
これを聴いたのは随分昔になる。LPで聴いたので理想を言えば今、買い直すとしたら迷わずLPとなる。しかしプレーヤーは数回の引越のどこかで処分したのか今はなく、まずは先行投資が必要となり財務省「嫁」を通さないとヤバいこととなる。音大に入るために1浪したところで友人となったOさんは僕よりひとつ年上で、声楽科に入ったが、この部門の輩からすると随分と特殊なタイプだった。クラシックは勿論、現代音楽に精通しジャズやポップスも渋いところをおさえており、本アルバムはその1枚ということになる。この作品は彼が僕に教えてくれた数々のアルバムのなかでも取分けお気に入りの1枚となった。その理由は分かりやすく、つまり加藤登紀子のヴォーカルは当然の事として、坂本龍一さんのセンスが素晴らしい!ということになる。
これは私見ですが、坂本音楽の最良のポイントは意外に小さなCMとか歌謡曲のアレンジ、映画音楽、そして本作のように黒子に徹してピアノアレンジからシンセ、サンプラー、リズムボックスまで駆使して仕上げるそのトータルな才能に在ると思います。全体としては、透明感のあるスッキリとした聴きやすいサウンドにまとめられているのですが、実は作業量は多く、ピアノ以外にも適材適所にYMO的なアプローチが見られます。これは、別ページで紹介した大貫妙子のロマンス辺りとも共通した世界でしょうか。
音楽ファンのコメント欄では、加藤登紀子がこういった三文オペラを取り上げることを意外に感じている方も散見されますが、昔からシャンソン歌手と近似性を感じるところからクルトワイルを歌うということ自体僕個人、自然なことのように思えました。
意外性ということではむしろ、坂本教授のシンセサイザープロフェット5かな?)とか、リズムボックスはおそらくRolandTR606(勿論、黎明期の旧型、銀色ボックスのモノ)を使ったりというところがゲリラ的で楽しい。加藤登紀子と言えば僕の勝手なイメージとしては、どうしてもアコギ一本とか、アナログ生というところになります。
坂本さんは、それを逆手にとって"外し"でサウンド制作を行ったのかも知れませんが、しかし全体のイメージとしてはアコースティックの雰囲気は色濃く残しております。この「電気と生のバランスは実に微妙で、彼の仕事の中でもピカイチの部類と判断しております。勿論、加藤登紀子の歌いっぷりは、その坂本音楽に引けを取らず安定度抜群で、しかも単に上手で安定しているというのではなく、微妙なアーティキュレーションと楽曲に入り込む"演技力"には脱帽です。そして何と言ってもその声質でしょう。太く少し引きずるような官能的な声(それでいて不思議にサッパリしている!)。多くのファンを抱えるヴォーカルは生まれながらの声を持っています。荒井由美を聴くと分かりやすいですが、ヴォーカルにおいてはテクは二の次かも知れません。まず唯一無二の「声」を持っているか?ということになると思います。
諄いようですが、本作の好感が持てるところは、その腕っこき二人が制作したアルバムでありながら、それが押し付けがましくなくアッサリとした清涼感を伴っている事です。
内容は相当に濃い!しかし、それでいて聴き疲れしない作品とするのは大変難しい。本作は一度ハマると折りにふれて聴きたくなるアルバムです。個人的見解ながら、パッと聴きで圧倒されるというよりは、何だか知らないが長く聴き続けてしまうアルバムというのが希にあります。そういったところで言えば本作は間違いなく名盤の部類に違いないでしょう。
さて、Oさんはその後音信不通となってしまいましたが、今はどうされているのでしょうか。いつも懐かしい人リストの最上位です。当時は音楽の糧となるような良き音楽を沢山教えていただきました。こんなところでお礼を言うのも変ですが(笑)御礼を申し上げたいと思います。

MSB・two/これを本当のフュージョンと言う!

佐藤允彦のアルバムと言った方が早いか?

空気を入れ替えるために母が半開きにした窓硝子の間から雲が流れて行くのが見える。身体を壊して布団に横になった僕の目に映るのは嘘くさいほど美しい真っ青な空と、コントラストを描く真っ白な大きな雲の群れ。当時24歳、酒とタバコとギャンブル(主にパチンコ、、笑)と荒れた生活で十二指腸が変形してしまった、このどうしようもない若者は田舎に逃げ帰って来ました。食べ物を受け付けず、布団から立ち上がるのもフラフラな状態でしたが、病院に検査結果を聞くために何とかバスに乗りました。そして医師に「酒とタバコ、どちらかを止めるように」とキツく叱られて「タバコ」と元気なく応えて病院を後にしたのでしたが、その時ふとラジオから流れて来たこのMSBの音を思い出し、レコード店に寄ることにしました。他のページでもよく登場する「レコード・ユキ」ですが、この時は高校時代の初々しさも。未来を信じて疑わなかったバカバカしいほどの自信もなく、燃えカスみたいな自分だったと思います。
しかし、微かに、本当に小さな欠片のように音楽に対する興味が残っていたらしい。それがこのMSBを聴いた刹那、火花が散った「何がどのようにして、このようなソロを演奏出来るのか!?また、バックの音との構築が如何にして成されるのか」という深い疑問、というか好奇心。
それから数日後、僕は寝ていた布団を畳みました。本アルバムは僕にとってあまりに大きなポイントとなった作品と認識しております。このような状況で聴いたのでなければ、ここまで記憶に残らなかった可能性もあります。否、この作品に力があったからこそ、僕は精神的なダメージから逃れることが出来たのかも知れません。

MSB(メディカルシュガーバンク)は、佐藤允彦のユニット。当時の国内腕っこきのジャズ系アーティストが名を連ねている。ジャズ系と「系」をくっ付けたのは、ベースの高水健司みたいにジャズの演奏家と言うには少し違うか?という面子もいらっしゃるので。高水健司と言えばスタジオの売れっ子というイメージが僕にはあるのですね。因にドラムは山木秀夫となります。当時の音楽雑誌、確か「アドリブ」か「ジャズライフ」だっと思いますが、このアルバムの山木秀夫の評価が海外中心にとても高かったと記憶しております。演奏の中心は言うまでもなく佐藤允彦で、彼の存在がこのアルバムをただのフュージョンとは違う、言うなればキッチリ進化した形の"ジャズ・フュージョン"にしていると思います。その作品のオリジナリティ、それからソロにおいて描かれるラインは、間違いなくジャズの理論的なところを収めた人でなければ弾けない音使いであり、またそれが単に頭でっかちな理論に負けた(そういう演奏家もまた多いです。残念ながら)表層的な内容ではなくて、作品ひとつひとつに寄り添ったイメージに合致した必然性を感じさせるものです。
フロントプレーヤーとして清水靖晃が参加しておりますが、彼のサックスもまたこの当時から完成されており(和製マイケル・ブレッカーというイメージではありますが)以後、多彩なアプローチを行う以前のニュートラルな演奏を聴けるのはこのアルバムの興味深い点です。
さて本アルバム簡単にまとめれば(稚拙な形容をお許し願いたいのですが、、)
チック・コリアウェザーリポートをごちゃ混ぜにして、そこに和ティストを少し加味した」
という感じでしょうか。
この和ティストというのが、しかしどうして悪くないです。作品に日本的な要素を入れるのは、どこかに無理を生じるのか、上手く行っていない場合が多いという気がします。現代音楽の巨匠・武満徹であっても、全てが自然で馴染んだ形になっているか?と言えば、個人的見解ですが若干疑問を感じます。それは、日本的な演出を施すために尺八や、琴、琵琶などを取り入れるからだと思います。僕は、それが方法として否定しているものではありませんが、しかし、西欧の楽器とこれらをブレンドするには無理があるという気がします。(実を言いますと、僕も少々の経験があるのですが、難しい!やるなら一生かけて試行錯誤するくらいの覚悟がないと駄目かも、、と思います。)その点、矢野顕子のジャパニーズガールは何だか脳天気に超えちゃっているところがあり、凄いな!!と思うのですが。そしてこの佐藤允彦のアプローチは、別段何か飛び道具を使っているわけではなく、せいぜい曲のタイトルにそういった「"らしい"ネーミング」を施している程度です。それでも、聴くとしっかり「和」を感じることの出来る曲があるのは、僕としては好感が持てますし、おそらく佐藤允彦の真骨頂とでも言ったらイイのかも知れません。レコード・ユキは昔になくなりました。震災で流されたというのではなく、もっと遠い話です。しかし、本アルバムは期間生産限定版という形ながら手に入れることが出来ます。今、聴いても古さを感じない、最近リリースされたかのような音楽というわけです。メーカには本当に音楽が好きな方が居るらしい、ということ。また、音楽ファンにも復刻を望む声があったのでしょう。安価というのも大切なポイント!この機会に是非、、ジャケデザインも都会的なセンスで、内容をよく表していると思います。

音楽に世界が在ると言うこと/            ケイトブッシュ・Hounds Of Love

ケイト・ブッシュでは一番好きなアルバム

ケイト・ブッシュは僕にとって女神であることは確かだ。
彼女の中では新しい作品と言える「50 Words For Snow」では個人的見解ながら力の衰えを隠せなかったと思う。これを彼女の新しい方向と捉えるなら別かもしれないけれど。意外に評価するファンが多いので、僕ももう少し聴いてみたいと思います。
その彼女の作品群においては中期を代表するアルバムがコレと言って良いかもしれない。中期と言っても1985年が中期なの?と疑問が出そうだけれど、あくまでもイメージとして。
僕の場合1980年リリース「Never For Ever」が起点となるので、本作がそこから5年後にリリースされていることから「中期」なのである。まあ、勝手な解釈ですよね。
小見出しにある通り、彼女のアルバムの中では本作が最も好みということになる。

僕がこの作品に好感を持つ理由は、そのサウンドのデティールが作品に溶け込んでおり、柔らかな質感を持っていること。それでいて音楽自体は鋭い感性で溢れかえっており、そのコントラストはとても他のアーティストでは真似出来ない温度感を持っている。ケイトブッシュ製作総指揮、監督、主役、脇役、照明、カメラ、そして音楽と、全てを彼女ひとりで担当したひとつの映画のようなアルバムだと思う。M4「Mother Stands For Comfort」からM5「Cloudbusting」のくだりが最も僕の好みであり不思議なほどの共感を持つ。
ヴォーカリストとしての凄み、声そのものだけを抽出すると「ドリーミング」に軍配が上がるかもしれない。しかし、本作の歌い方には、何と言うのかここまでの作品にはない気高さみたいなものが感じられて胸が熱くなる。
2011年「50 Words For Snow」はおそらく「深い試行錯誤の結果」ということだろうが、意外なほどあっさりとしたアレンジに終止している。ピアノ中心で、リズム系もごく一般的なアプローチと言える。しかし、こうして中期の傑作を聴くと(今、聴きながらコレを書いております。)彼女に関しては徹底的なプログラムと凝ったサウンドアプローチ、もっと下品な言い方をしてしまえば"コテコテに加工された音楽"こそが、そのイメージには馴染んでしまうような気がする。しかし、それがどうしたというのだろう。新しい世界を構築するのにNGな制作方法などあろうはずがない。ハッキリとしたイメージ、ヴィジョンを持っているのであれば、尚更のこと。
それにしても、このヴォーカルは呆れるほどリズムマシンに馴染んでいる。これほどまで、人工的なリズムマシンを逆手にとって成功した例と言えば、クラフトワーククラフトワークリズムマシンというよりはリズムパッドと言った方が良いのか)とゲルニカくらいしか僕は知らない。
乱暴に結論付けると、こうして様々な要素を探ってみるけれど、自分がこのアルバムが好きで仕方のない理由。その最もなところは、単純に旋律の描き方と寄り添うハーモニーの美しさによるものだと思う。音楽を更に持ち上げる数々のサウンドメイクは、その作品の優れた根幹があって初めて力を発揮するものだと思う。
今、曲は「Jig of Life」が流れている。
溜息が出て来る。一体、この方の頭の中はどうなっているのであろうか。
音楽を聴いて、世界を感じることが出来る作品は残念ながらそう多くはない。世界を感じるということは、その音楽と共に旅に出るということだ。たとえ自分の部屋で聴いていても、心は別世界を彷徨っている。それは抜け殻の自分を置いて、幽体離脱するのとどこか似ている。音楽をIF(インターフェイス)として自分が訪れたい世界(景色)を眺めることが出来る。ケイト・ブッシュを初めて聴く方に、本作を推薦したいと思います。珍しく?自信を持ってオススメです!

山下洋輔トリオ/キアズマ・聴き手の驚愕が伝わる

聴くのは、その日の体調と相談してから。

何とも酒池肉林というのか、まるでフェリーニサテリコンのようなコテコテの世界が展開されている。猛然と突き進む密度感が飽和したままの音の壁。ここまで突き抜けているとある意味、変な爽快感すらある。耳を峙てると実は、ピアノの音使いに深く考え抜かれた形跡があり、それはテーマや冒頭部分に垣間みることが見える。ピアノを打楽器と捉え、轟音の肘打ち連発は、ドラマーやサックスと対峙し、そして音楽を構築するピアニストとしての明確な回答であろうと思う。同じ鍵盤奏者でありますので、この辺はとても理解出来るところです。ライブにおいて鍵盤楽器PAや周辺機材に負けてしまい、他の爆音楽器の下側に潜り込んでしまうことが多い。それを回避するには、共演者を変えるか(笑)演奏法自体に工夫することが不可欠であろうことは言うまでもない。
それにしても、ここで感心するのはドラムのアプローチであり、ジャズドラマーがドラムという楽器のひとつの規範であろうことがよく分かって来る演奏内容です。少し長過ぎるドラムソロ(あくまでも僕の感じ方です。)を抜かせば、これという気になるところはなく、この大騒ぎで喜ぶ聴き手と共に舞い上がって行くのが本作通常の聴き方でありましょう。
しかし、不思議なのは、この音楽の根底にあるものだ。
山下洋輔さんは、この音楽をやる時に、一体どういうモノをイメージしているのであろうか?
例えば僕にとって、こういう根底にあるモノ、その正体ということであれば意外に坂本龍一さんの方が掴みやすい。
それは、もしかすると人間の本性というのか、本能や生理的なところに訴える音楽であり、受け取るイメージは聴き手一人一人に委ねるというスタンスのものなのか?とも思える。もしくは明確なテーマが存在しており、だからこそあのような世界になっているのかも知れないけれど。僕は山下洋輔トリオの作品は若い頃から定期的に沸き上がる頃合いというのがあって、このそこそこ長い人生においてポツポツと触れて来た方だと思う。しかし、その音楽の根本的なところが掴めないでいるような気もする。というか根本的なところなど、どうでも良いのか!(笑)
音楽的には、この三人の音の会話の密度感が凄い。こんなに細かいところで深堀するのか?と言う程に音の交差は鋭く、聴くのに大変な力が必要となる。
先日、風邪を悪化させて会社の昼休み、コレを聴きながら昼寝をしていたら、更に悪化させてしまいました。これは、アマゾンのコメント欄に「その日の体調」と相談してから聴いた方がイイかも、、というのがあり、それを拝見した時は「軟弱なやっちゃ!」と鼻で笑ったものが、自分も数日経たず実感した次第です。
それだけ、毒性と轟音が凄く、どーしたの?このオッサン達、、という1Lで足りるかも知れない音楽とも言えます。
変な表現ですが、凄くもあるけれど、どこか滑稽なところもある。暗くならず解き放たれているというところがヨーローッパでも評価を受けたところでしょうか。

一応、簡単に説明を入れますと本作は1975年(まだ僕が田舎で遊び惚けていた時代です。)ドイツ・ハイデルベルクにおけるジャズフェスティバルライブとなります。
ピアノは轟音と右手と左手の高速に繰り出す連打で大変なことになっておりますが、紡ぎ出されている音自体は決して野蛮なものではなく、実はピアノらしい音を描いております。この辺は山下洋輔さんが少年期にバイオリンを習っていたことや国立音大において作曲を専攻されていたことが理由としてあげられるかも知れません。それにしても興味深いのは、テーマのユニゾンなど僅かに表出するテーマはジャズというよりプログレに聴こえてしまいます。フランク・ザッパ辺りでしょうか。そう言えば、少し前にエリック・ドルフィーを聴いた時に同じようにザッパ方向の色合いを感じたものです。
年配の方達で(僕も充分に年配ではありますが)ジャズはこのようでなければいけない!という頑迷に考える集合体があります。例えば、ジャズにおけるドラムのスィング感とか、そのリズムアプローチにおいて。しかし、音楽において「このようでなければならない!」という物言いは個人的には好まない。
そして、本作が、そういった頑な考え方、凝り固まった観念的な思想を打ち砕く音楽に感じられるところが最良のポイントと思います。

ドイツ音楽はバッハ、ベートーベンに代表される羨ましくなるようなルーツがありますが、面白いことに今に生きるドイツ人達はその「伝統」を壊すことに一生懸命だったりする。そのドイツに於いて、これだけの指示を集めたことは何やら深く考えさせられるところがあります。Youtubeに日比谷野音でキアズマを演奏する三人の姿を拝見出来ますが、出音は根本的に同じではあります。が、研ぎ澄まされた音、鋭利なリズムというところでは若き日のハイデルベルクバージョンに軍配があがります。やはりこうした力技の必要な音楽は贅肉の付いてしまったお父さん達では厳しいところがあるのかもしれません。(坂田明の紡ぎ出すフレーズが年齢を重ねただけの新味が感じらたところは良かったように思います。)
余談ながら昔、池袋西武百貨店にスタジオ200という音楽ホールが併設されていた頃、坂田明さんが客として来場されておられました。加古隆さんのライブだったかと思いますが、すると海外から訪日されていた大柄な女性から「サカタサーン!」と声をかけられておりました。彼女はもしかするとドイツ人であり、彼らのハイデルベルクライブを聴いたことがあったのかも知れません、、、と想像したりする僕なのでした。

ケイト・ブッシュ「ドリーミング」/ その切れ具合

歌とサウンドのバランスにおいて、、。

ケイトブッシュのリリースしたアルバムの中で本作が最も好きか?と言われれば正直2番手くらいかな、、と思います。このアルバムを初めて聴いたのは実は一週間程前となります。ケイトブッシュの熱き音楽ファンには叱られそうですが、昔、紙一重的(狂気と現実の境目に在るような)なアルバムという評を目にして気の弱い僕は何か恐ろしい世界を想像して腰が引けていたのですね。イメージというのはある意味恐ろしいものです。しかし、実際聴いてみると、その評価はドンピシャとは言わないまでも確かに当て嵌まるところがあるような気がします。それほどこのアルバムは(彼女の作品群においても)突出してインパクトが強い!音楽に対して何と言うのか押し倒されても良い(笑)という生粋のMの方には向いている傾向があります。まあ、、それは半分冗談として。実際の音楽の話で行きましょうか。1週間前に初めて聴いたとは言え、毎日何度も聴き返しておりますから、既に数十回はこの"夢の世界"にアプローチさせていただきましたが、本作の特長は、ケイトブッシュのヴォーカルとしての側面が強く押出されている点にあります。その何とも変幻自在な「声」と、楽音の混然一体具合に引き込まれます。比較的大人しい作品であっても、それは当然、一筋縄では行かず、仕掛けはあちらこちらに配置されており、この仕掛けの謎解きだけでも楽しめそうです。正しく長きに渡って愛聴出来る名盤でしょう。

このアルバムと比較すると最近の彼女はやはり力が落ちた!!と認めざるを得ない。もし本作を超える作品を今、リリースするのであれば、思い切ったサウンドアプローチや共演するアーティストにも工夫が必要でしょう。

音楽全体の基調になっているのは「魔物語」と同じように、柔らかでコーラス過多なベースであり、またアイデア満載のサンプリングの自由奔放なセンスとなる。この辺りを聴くと一体、DAW*等に代表される制作の進化って何なの?と文句のひとつも言いたくなる。
音楽において中心に位置するのはアーティストのアイデアと力量であり、テクノロジーはその下に入らなければ、結局出来上がるモノってのは知れている。ケイトブッシュもテクノロジー好きなアーティストではある。一般では、とても手のでなかったフェアライトも初期の頃から使用していたという話も聞く。しかし、大切なのはそれが、しっかり彼女のツールになっているということだ。本作でも、そういった機材の使いこなし、それから彼女以外の男性ヴォーカルの使いこなしにも大きなポイントが在る。ケイトブッシュは意外に自分以外のヴォーカル(ヴォイス)を混ぜ込むことを好む。それはおそらく、声の重さを良く知っているからに違いない。冒頭から変則的な6拍子と4拍子で切れ込んでくるが彼女には、こうしたリズムアプローチなど何でもない。普通に自然に歌い切るし、またそのフレーズも実に特長的だ。少女から老婆までを演じるようなヴォーカル。つまりは人の人生、人間模様を、一人で演じ切ることが出来るような特殊なヴォーカルだと思う。
猫の目のようにクルクルと変る僕の評価だが、本作に限って言えば、微妙に緩い曲線を描くだけで、その印象は変らないものと思う。面白い要素に気が付いたり、彼女のヴォーカルの機微に触れて、ふと忘れていたことを思い出したりと、、自分の傍に置かれて行く作品だと思います。ひとつだけ気になるところがあるのは、その歌い方でシャウトするところでしょうか。コレは個人的な好みとなるのですが、少し僕にはキツく感じられます。もう少し柔らかな方向でも良かったのに、、!と思うのですが、これは曲の方向性もあることであり、難しいところかも知れません。こういった自分の好みと相反する僅かな要素から、リリースしたアルバムの中で2番手となっているらしいです。若干ベタですが、僕の中でのベストアルバムは2枚「魔物語であり「Hound Of Love」であろうか、と思います。本作、頭ひとつで次点!と。でもこの順番は音楽ファンによって、どうにでも変るところでしょう。
ケイトブッシュは僕にとって女神みたいなものです。
今がすこし落ち目でも、過去にこうして凄いのが転がっております。そして先々、きっとその年齢でしか出来ない傑作を生むことでしょう。

心底期待しております!!

DAW:デジタルオーディオワークステーション、という音楽制作の中心に位置するコンピュータを中心に置く制作フロー。使用されるソフトは数多あり、勿論代表的な数種は存在する。生音とシンセ、サンプラーというデジタル機器をシーケンス上で自由に混在することが出来、尚かつ生音に関してのデータの修正も自由に行う事が可能となる。つまりは一音からの削除、ピッチ修正、移動、コピーと。古来から連綿と受継がれて来たMIDIのエディットにおいても進化しているが、このプログラミングに関してはソフトにおける差異は大きく、バンドルされているソフト音源の内容と共にソフト選択の重要な要素となっている。

今これを書く理由 / Beatles「Let It Be」

小6、その時の僕の衝撃とは、、?

東日本大震災でやられてしまった郷里・岩手県鵜住居地区。そこが実家の在るところです。鵜住居地区から小さな峠を超えると小さな漁師町に入ります。両石町に入って左側の坂を上がった付根付近。そこが母方の実家が在ったところです。母の妹、つまり僕にとって叔母さん二人が暮らしていた旧家です。この家は津波で流されて、現在、その場所はかさ上工事で埋められ見る影もありません。
僕にとってこの叔母さん二人の存在は意外なほど大きい。
津波で亡くなったK叔母さんは、その人間的インパクトにおいて。そして仮設で暮らして来た末っ子のT叔母さんは、ビートルズを教えてくれた恩人です。また物心付いた頃からよく遊んでくれた大切な存在でした。今でもよく憶えておりますが、本アルバムは(当時、釜石のような地方都市では)予約しておかないと手に入らなかったそうです。自慢気にこの二つ折りジャケットを開いて「ほら、こんな風に録音するんだって!」と教えてくれました。当時、小学校六年生です。バンドという概念がなく、よく分からなかったけれど、随分と線(シールド)がゴチャゴチャとして凄いことになっているなぁ、、と感心したものです。こうして作業したものがこの皿になっている、、ということが俄には信じ難いと言った感じでしょうか。
そして、まず聴き初めて素直に思ったのが、ロックという割には元気がないな、、ということです。しかし、そのうちに「Get Back」に突入すると「うぅ、、何てハードで過激な音楽なの!?」と衝撃を受けたわけです。当時、クラシック音楽や映画音楽しか知らなかった僕には、この程度のロックでも大変なサウンドだったわけです(笑)
それにしても、このアルバムは散漫なところがあり、そして独特な虚脱感があります。何度も聴いて行くとそれが逆に安心してしまう、というのかハマってしまうところがあり、このアルバムの不思議なところでもあります。おそらく、この全体的なイメージは流石のビートルズを持ってしても計算したところではないでしょう。しかし後年、このアルバムと表裏一体となるアップルレコード屋上でやらかした例のライブを映画(まだ見ておられない方は是非!)で見ましたが、皮肉なことにバンドとしてのビートルズの魅力が理解出来ます。ビートルズは中期の傑作と言われる「Rubber Soul」を分岐点としてライブ活動を停止しました。しかし、この屋上ライブは彼らの演奏がまだ生きていた!ということが分かります。
ビートルズは間違いなく演奏するバンドであり、そのリズムセンスとこのバンド唯一無二とも言える推進力を感じさせるものです。この屋上ライブほど僕にとってバンド本来の魅力を感じさせるものはありません。ロンドンのどこか荒涼とした空間の中に在る四人の合奏は、あれだけマイナス要素ばかりの状況であっても、ギターを持って声を出すと、しっかりと音楽を行える力が在りました。そこからは、言葉での表現はとても難しい、ある種音楽の根源を考えさせられます。四人の表情、所作には様々な心情が溢れており、それは実に人間的なもの。何とかしようと試みる気持ち、投げやりなところ、諦め、憐憫、そういうところが交錯している。尚、オリジナルアルバムとアップル本社屋上ライブとの最たる違いは「Don't Let Me Down」の有無である。この作品は制作過程で外されており、ライブでは演奏しているものの本作からは外されている。しかし、シングルリリースされた「Get Back」のB面に入れられていることで知られることとなった。個人的に好きな曲なので、この作品の力具合を考えると、他のどれかを外してこちらを入れたら良かったのに、、!と思います。
例えば(問題発言を承知で言えば)「One After 909」辺りと入れ替えると本作全体の作品力が上がったかも知れない。しかし「Get Back」のB面に同じようなロックンロール的な作品を持って来るのは如何なものだろうか?とも思う。リリースの難しいところか。フィル・スペクターが手を入れたアレンジ面に関しては僕個人は、それほど否定的ではないです。これはこれで良いところがあり、聴き手としてはあまり気難しく考える必要はないのかな、と思います。ただ、ビートルズ解散のキッカケとも言われている「The Long And Winding Road」などを聴くとポールの歌に精彩がなく、彼の考え方とは全く異なるアレンジを施されてしまった、そのやるせない気持ち伝わって来るようです。本来的には、このアルバムはビートルズ単独でアプローチすることで、アレンジ過多とも言える後期作品(そこがまた凄いわけですが)に対するバンドとして原理主義的な1枚を出しておきたかったということになるわけです。がしかし、それは中途半端ではありながら成功していると思います。やはりこのアルバムは後期作品ではありながら、その色合いが他作品とは全く異なっています。得意の「飛び道具」や「こけ脅し」は一切なく、そういう飾りは取払ってビートルズの中心線、バンドとして勝負したかった。それでいて初期作品とは違うものを提示したいという強いコンセプトが在ったのだと思います。フィル・スペクターのアレンジでフォーカスがぼやけたとは言え、そういったバンド「ビートルズ」は誰もが感じるところだと思います。

ビートルズを初めて聴いたステレオは別ページで紹介しているピンクグロイド「狂気」を"体験"したステレオと同じもの。このビクターのステレオの中心下部にはLPを入れるスペースが在ったが(当時ステレオは大体このレイアウトを採用していたと思う。)そこには、ビートルズ以外に、姉のK叔母さんの愛聴していたヴァン・クライバーン/チャイコフスキー・ピアノ協奏曲、プレスリー/ハワイライブ等が入っていたのを憶えている。今も、耳元でT叔母さんの声が聴こえるようです。
「こんな風に録音するんだって!」
僕にビートルズを教えてくれて、本当にありがとう。