ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

Phew/1st・サウンドの奉仕力が凄い傑作。

これが1stとは!!勉強不足を恥じる宣伝部長。

おーい、ライブが2回あるのだろうが。準備しなさいよ、、と心の声がする。しかし、これを書かねばその先がない感じ。
本作、改めて申し上げますとPhew(名義では)1stアルバムとなります。その前にアーント・サリー、あの一部では有名なジャケのアルバムもありますが、まあこれは後追いで書くことがあるでしょうかね。
それにしてもこの音世界は改めて聴くと昔聴いた印象より更に濃度を増して、それでいて聴きやすい。まあ、こちらだって指をくわえて数十年生きて来たわけではないのであり(と言いつつ、指を銜えていただけのような気もするが)音楽の若干の底上げにより、聴力もようやく人並みになって来たのである。ここ数年のPhewの特にライブでのパフォーマンスはどこか切なく、背中に電流がビィーッッッッと伝う感じがあるのですが、この若い頃は逆に醒めた感じがする。年を重ねて熱を帯びて来ているのだろうか?「枯れた味わい」とか「いぶし銀のような」という形容に真っ向から背を向けるような、凛とした佇まいだと思う。こういう人が真にカッコいいのだと僕は思う。突き放した感じのヴォーカルと言えばイイのだろうか、ジャストな位置から微妙な弧を描いて上昇する摩訶不思議な音程を発する声は、この頃より既に確立されており、黎明期のアルバムだからそこのところを割り引かないといけない、、などという国産にありがちな甘い見方は無意味ということになる。今現在の音楽と勘違いして聴いていただいてOK。
それはPhew自身によるところも勿論あるが、サウンドを形成しているカンのセンスによるところも大きい。このセンスは残念ながら日本ではあまり耳にすることの出来ない色調である。例えば、冒頭の作品「CLOSED」のベースのアプローチ。Phewの音楽において最も特長的なのはベースの存在である。所謂ごく普通のベースの在り方というのが見当たらない。長い尺でのベース不在、相当な違和感がある。おそらく、この辺で針を上げてしまう根性の無い(失礼)音楽ファンも居るかも知れない。しかし、ここは我慢しよう。すると、ベコッ、、ボコッ、、!と何だかミックカーン(ニューウェーブの旗手"ジャパン"(しかし、しっかり英国のバンドである。)の名ベーシスト)が風邪でもひいたのか、どうも調子が上がらない感じ(笑)、ヤケに間を空けたベースが地味な装いで出現する。
これが良いのである。何度も聴いてみるとイイ、癖になるから。
そして、Phewヴォイス。例の上ずった、天才的にズレた音程が重なると、もはや聴き手は音楽道の岐路に立たされていることを知る。左右に分かれる道。片方は「即座に針上げ!!Phewという得体の知れない音楽家など知らなかったことにする」そしてもう片方は向こうにトンネルが見えて、どうもそこを歩いて潜らないといけないような具合である(笑)それは「これからPhewの音にドップリと漬かりコールタールの海に浮き輪無しで飛び込む」(イメージとして)を意味する。真ん中の道というのは残念ながらない。気に入らないと思っても何だかうっかり聴いてしまう、、という場合、それはアナタ、、ほぼコールタール派の集合体に入っているのである。私が入り口にモギリ係として立っておりますから、どうぞ笑顔で入場してください。

例えば後半に出て来る普通ならどこにでもある8ビート、、Phewの他アルバムでも取り入れている単純なビートであるが、だからこそセンスの違いが浮彫りとなる。アーント・サリーの8ビートなんかもヘタウマですが(どちらかというと下手な部類か、、笑)僕は好んでおります。上手いということが「イコール魅力的」ということにはなりませんので。
いうなれば中途半端がよろしくないかも知れない。下手なら下手で堂々としていれば聴く方も意外に納得するものなのである。それを、そこそこ上手というのは気持ち悪い。いっそ練習など止めて思い切り下手になるか、地獄のような練習で雲の上に出るか、そこはハッキリした方がイイ。またまた問題発言ですね、、失礼しました!

そして、本作と「A New World」というリリースのタイミングとしては"端っこ同士の作品"が個人的に最も好む作品となります。サウンドもまた両極端と言えるでしょう。この2枚は座右の盤として我が成増山スタジオには常設、持出し厳禁というわけです。本作はアナログの良さが全面に出ております。シーケンサー(手弾かもしれない)で鳴らされるモコモコとしたシンセベースもありますが、リズムの振幅は広く、サウンドとして太く温かな印象を受けます。ところがその上に位置する音楽自体は陰鬱で冷たく、虚飾を排した赤裸々なPhewの世界が重なっている。その強いコントラストこそが本作の特長でありましょう。
人の目を通し、その絵柄が一旦心に焼き付けられる。脳内フィルターを通し、その絵柄は異形となって外界へと戻って来る。何故かそういうことを考えてしまう。
1stアルバムには理由は知らないが傑作が多い。ELPも、カルメンマキ&OZも、そしてレッドツェッペリンもなかなか渋い。Phew入門?だったら本作を薦めます。「宣伝部長特別推薦盤」(何が特別なのかは知らないが)というわけです。

上原ひろみ・Alive - ようやく聴いてみる!

このリズムセクションの訴求力。

サイモン・フィリップスアンソニー・ジャクソンリズムセクションということで本作を手にした音楽ファンも多いかと思う。
僕もその一人かも知れない。
Youtubeで視て(聴いて)アルバムを買っちゃった!」というケースは少なくないが、これもまた例外ではなく。
しかし、キッカケとなったYoutubeの作品は入っていなかったようです。そこは少し残念。上原ひろみさんは同業者です。同じピアニストであり作曲家なのだけれど、これまで何故か避けて聴かなかった。しかし、食わず嫌いは自分の悪い癖です。ということで、ようやく聴いてみました。他アーティストの影響が微妙に感じ取れるところが面白いです。これは僕個人の感じ方かも知れないですが、不思議とプログレ色の混入?ありです。ELPであるとか、ザッパのような文法も入り込んでいる。ジャズピアニストとしては異例に変拍子が多く、それは彼女自前のフィルターを通して消化吸収し独特なフレーズにより創出されている。好感度が高いですね。サイモン・フィリップスは随分若い頃から耳にしておりますが、基本線は変らない。一聴すると引き出しの多い多彩なイメージで来るけれど、全体像を眺めるとパターンはハッキリしており意外に明快で分かりやすいドラムだと思う。サウンド的にはジョジョメイヤーのような細身な(彼は身体もえらく細身だが、、笑)音を好む僕としては若干違う音だけれど、これはこれで"タイコ"らしい音で悪くないと思う。ニュートラルなイイ音だ。サイモン・フィリップスは、群雄割拠するテクニカルなドラマーの中でも知的なイメージのする人です。実際、リズムの組み立ては練られており、ドラムの作曲と言ったスタンスでしょうか。鍵盤サイドからは好まれそうなドラマーではないだろうか。何となくこうなっちゃいました!というところが少ない、学究肌なところも強み。本作の相方ベーシストは、アンソニー・ジャクソンだが、これまた楽器が違うものの似たタイプと言える。このリズムセクション上原ひろみの組合せは、面子の面白さで決定されているというよりは、彼女が今、やりたい音楽の内容から呼ばれた二人という気がする。

音楽内容もまた、呆れるほど濃くて全体を聴くと腹一杯になるのであるが、僕は天の邪鬼なのでこんなには曲数は要らない。ブルース進行、つまりは7thコードでガチャガチャとソロを弾き倒すのはアメリカのライブシーンにおいては(まあ国内も似たり寄ったりか?)受けるのであろうが、僕はそういうのは辟易としてしまう。このアルバムからそれらを削ると、よりタイトでスッキリとした形。このリズム隊である必然性がより明確となり、聴く側へ向うパワーはずっと高まるはず。テーマの旋律、ハーモニーに素敵なセンスが沢山入っており、上原ひろみの人気の一旦がこの辺にあることが分かって来る。テクニックを聴かせることが悪いのではない。音楽内容に対する感心は多様であり、原理的にこう聴くべき、、という考え方は違っているように思う。ただ、本作の冒頭からの高い音楽性に耳が行くと「徹頭徹尾、こういう現代的なアプローチで通して欲しかった」というのが僕個人の見解です。
(本作をテーマとブリッジに絞り込むと、未だ尊敬する「る*しろう」(但し、かなり以前にリリースされた1stアルバムの頃)みたいになっちゃうのは見えている。それもまたちょっと違うだろうし。音楽造りの難しいところかも知れません。)

ジャケの帯にはこの「トリオ無限大」とある。

次回作は、シンセで大きな空間を演出するとか、音数を極力削った現代的なアプローチをしていみるとか、そういった試みを期待したいと思います。
今回の僕の評は、おそらくピアニスト・作曲家という同じ立場からの、かなり偏った内容であることは確かです。
本作を聴いて「何だ、タカの言うことは充てにならんなぁ」と思っていただいて大いにOKなのです。

る*しろう:インディーズシーンにおいて絶大な人気を誇るベースレスピアノトリオ。天衣無縫な音楽性は止まるところを知らず、共演すると間違いなく突き落とされたものです。おそらくは国内よりヨーロッパ方面の評価が高いのでは?と想像されます。

メシアン/世の終わりのための四重奏曲

もはや現代音楽の古典。意外にプログレなところもある?

この作品に関しては前々から書かなくては、、と思っておりましたが何やら難しく感じてしまい逡巡しておりました。
しかし、気軽なスタンスのこのサイト。本作を囲むマニアな音楽ファンを気にする事なくまいりたいと思います。
僕が、この作品のことを述べたい理由。
それは至極単純なことです。
この作品を深く敬愛しているからです。
本作を宗教音楽の観点から聴くと、一気に事が難しくなってしまう、、とコメント欄にありましたが「ヨハネの黙示録10章」に沿った形で作曲されていると作家本人が述べている以上(コレと言って強い宗教観を持たない一般的な日本人からすると)理解が難しい面があるのかも知れない。また音楽ファンによっては「世の終わり、、」と言っておりながら随分脳天気なところがあり、国が変ればこれほどに死生観が違うの?と皮肉まじりにおっしゃる方もおります。僕は、本作を最初に聴いたのは随分昔のことになりますが、そんなことまで考える余裕はありませんでした。恥ずかしながら、、この音楽を理解することが出来なかった。この音楽がひょっとしたら凄く魅力的で面白いのでは?と思ったのは、ジャズの理論を一通りやってしばらく後になります。音楽ファンの中には、素直に気軽にメシアンクセナキスを楽しめる方がおります。僕はそういう方達にはとても叶わないし、聴き手の偉大さに気付くわけです。僕なんて天の邪鬼の上に、恐ろしく不器用だから音と音との宇宙的な組合せに泥んこ状態になっていた状況からようやく楽しくなって来たのです。メシアンの音楽全体に言えることですが、その造作は数理的であり、緻密なシステムを構築しているところに特長があります。自分の表現に足る要素を徹底的に追い込んだ結果として、この作風があると思います。勿論、他の偉大な作曲家はそういった部分があります。クラシック音楽の中心として誰もが知るベートーベンはその代表格でしょう。それからするとメシアンは現代音楽の古典と言えるかも知れない。そして、僕個人のメシアンに対するアプローチ、その学究的なところ、方法論的なところは一切無視です。メシアンの音を聴くと、そういった雑音(失礼!)が邪魔で仕方がない。この音楽には正々堂々と自分の耳で純粋な気持ちで対峙したい。音楽理論のドロドロ状態など、このさい即行で封印と。
さて、全体8作品を通して聴くと、まずはピアノの造り上げるサウンドが浮世離れしたような世界を展開させていることが掴み取れる。そして全体のサウンドを決めているのがクラリネットという気がして来る。これは聴く人によって違って来ると思います。僕はこの作品によってこのクラリネットという楽器の魅力と可能性に取りつかれてしまいました。
今も周囲の演奏家の中ではクラリネット奏者を贔屓するところがあり、それは本作が理由です。僕は音楽の好き嫌いも、そして聴かれ方も自由であり、そこにルールなど在ってはならない、、みたいなことを事ある度に書いて来ました。しかし、本作を魅力が無いとか、メシアンの作品群においては駄作、と言い切る音楽ファンには申し訳ないけれど、納得が行かない気がします。若い頃の僕のように、こういう現代音楽の免疫がなくて面食らってしまった!というのなら分かるのですが、、。しかし、本作は現代音楽のあまりに専門的かつ独善的な作業の弊害とも言えるタイプとは一線を画していると断言出来ます。そのハーモニーと旋律は、メシアンを小難しい学問の神輿の上に乗せちゃっている近視眼的な帯域とは次元の異なるイメージ世界を展開しております。
それにしても、この作品のカラフルなことには呆れる。カラフルなだけではなく何と言うのか独特の湿度感や室内で聴いているのに微風を感じているような錯覚に捕われる。8曲目に配置される、独特な遅いテンポ感を持つ作品(エスの不滅性への賛歌)が最も好きな作品です。これを聴くと「とても大切な人が次第に遠のいて行く、、そして何時か消え去るその一瞬、こちらをチラリと振り向くのです。」何故なのかそういう絵柄を想像してしまします。本作を構成する楽器は、ピアノ、バイオリン、チェロ、クラリネットとなります。近現代になって来ますと、演奏のキャラよりも作品で聴くという形になる場合がとても多い。ラヴェルしかりドビュッシーしかりと。しかし、この四重奏曲は演奏家によって随分イメージが変って来る。チョン・ミュンフン(ピアノ)のものがグラモフォンから出ており、これを強く推すファンもおります。僕はこのゆっくり目で演奏したアルバムも決して悪くないと思います。が、やはり本作を演奏するためにピーター・ゼルキンが結成した「タッシ」のバージョンが多少ベタではありますが、今のところ打ち止めであります。そのテンポ感、勿体付けない凛とした清涼感が好きです。実際メシアンの演奏指導もあったと聞いておりますが、(特にこういった作品において)作曲家の意図が音の中に入っているのは素晴らしいことだと思います。最後に、ご存知の方も多いかと思いますが、本作はメシアンが仏兵として捕虜になったゲルリッツ捕虜収容所内にて作曲されました。初演もその所内に於いて、という特殊な環境下に於いてでした。この作品が、メシアンが捧げた祈りや、幸福であること、平和への希求が、この作品に根底に在るのだと(僕個人が勝手に)信じております。僕の実家は祖母が熱心な法華さんでしたが、僕はコレといった宗教は持たないのです。その代わり、音楽の神様がいるので大丈夫なのです。その神様というのが、ベートーベンとメシアン。人間臭い神様と、人間離れした二人の神様というわけです。

フィリップ・グラス/グラスワークス

先生はミニマルとは呼ばれたくないらしい!

フィリップ・グラスアメリカ合衆国の作曲家です。現代音楽・ミニマルミュージックを代表する作家と言って良いと思います。ご本人はミニマルと呼ばれるのを好まないらしいけれど、仕方がないでしょうね。スティーブ・ライヒ、ティリー・ライリーと並んでミニマルの代名詞ですから。
さて、遅いタイミングとなりましたが「ミニマルミュージック」を取り上げたいと思います。ミニマルという言葉で本サイトを検索すると、おそらく「ウニタミニマ」が出て来ると思う。この本文にて若干触れておりますので。しかしこの男女デュオとミニマルはあまり関係はない。そういう匂いはするものの、あちらは「超絶テクニカル人力ポップス」とも言うべき国産音楽では希な存在なのであります。

ミニマルミュージックを自分なりに形容させていただきますと、、シンプルかつ禁欲的な小さなブロックを延々とリピートさせ、その楽器の出し入れや、若干の音楽的変化によって進行、構築させるものであろうと個人的に解釈しておりますが、まあそう遠くない形容と思います。
その変化が微小であり、絞り込まれたテーマを繰り返すのが特長で、これを「気持ちイイ〜♬」と変態のメーターが振り切れるか、、、もしくは「何コレ?つまらん!」と途中で針を上げるかは、おそらくは即行で決着が付くタイプの音楽と考えられます。一般的には「現代音楽」に類すると言わることが多いのですが、それを認めないという頑迷な主張もあります。CM音楽にはその要素が多く散見され、ミニマルを知らなくても無意識のうちに耳に入っていることになります。またミニマル自体が、環境音楽的なところがあって、BGMとしてもOKなところがポイントでしょうか。勿論、単なる癒し系のBGMとは一線を隔てております。その効果は絶大ですから、お部屋に何となく流しておく音であっても「人は違うセンスを演出したいという」小難しい音楽オタクにはドンピシャな存在と言えます。

僕はフィリップ・グラス坂本龍一さんのラジオDJで教えられましたが、確かに最初は「随分風変わりな音楽だな!!」と少々驚きました。しかし否定的なところはなく世の中には実に面白い音楽が転がっているものだと感心したものです。その後、自分の音楽に取り入れる要素としては「変拍子の割り方」と共に(笑)最も身近なものとなったわけです。あれから数十年経過してもミニマルの影響はどこかに残しております。さて本作は1982年の作品でグラスとしてはかなり初期となります。このアルバムは評価が分かれており、それは決着することなく先々続いて行くことと思われます。本作を聴かないでもっと後発の作品から聴けば、もっと早いタイミングでグラスの良さを発見出来たのにと臍を噛む音楽ファンも少ないです。
しかし、それほど大袈裟に捉えなくても、と少々呆れてしまいます。
むしろ、このアルバムはミニマルの登竜門として気軽に聴くのが良いように思います。また、長い時を経て、聴きなおしてもそのフレーズひとつひとつに有機質な美しさが練り込まれており、これぞイメージ表現の規範とすべき内容と結論付けております。特に冒頭のピアノのみで演奏される作品と最後に演奏される作品は、楽器構成を変えて異なる絵柄を表しているようで、僕の最も好きなM3に配置された「アイランド」を柱として、キレイな(それこそ硝子のような)対象形を成しているように思えます。本作の作品としての力は、様々な聴かれ方を許容するその大らかさと、音を磨き抜いて、虚飾を排し結果残った音を拾い上げてシンプルに奏でたところあります。

久しぶりで耳にした本作ですが、凛とした姿は色褪せることなく、新しいも古いもなく「時間を超越したところに佇む音楽」と感動を新たにしました。
また、冒頭から音楽に入り込んで行くと不思議に自分が「鳥」になって空から街を見下ろしているような気分になりました。このゆったりと旋回する動きは鷲や鷹のような大きな鳥です。こういうイメージの作用がある音楽は聴く側によって、また同じ人間であってもその環境によって異なって来ます。グラスワークスを聴いても鳥どころか、何も感じない人もいるはずであり、それこそが音楽の面白いところ、興味深い謎です。グラスのファンでさえ本作を駄作と言い切るのですから、やれやれ!です。しかし、皆が皆僕と同じように鳥になってしまうのは少し不気味です。(諸星大二郎の漫画のようでもあり、、笑)趣向というのは脈絡なく規則性がない状態が健全だと僕は思います。
様々な聴かれ方をされてこそ音楽家も本望でありましょう。

Phew/VIEW・ハイファイなPhew? 

ユーザーコメントを真に受けるかどうか?それが問題だ!

さて前回のPhewの新譜評にて「宣伝部長」宣言みたいなことを申し上げたましたので、これは1枚だけのレビューでは物足りないわけであります。それにしても何だろうね、この「ハムレット」みたいな小見出しは?その裏事情からこの本評を切り出して行きたいと考えなのです。
さて、ジャケが気に入ったこともあり本作の購入に踏み切りました(大袈裟!)このアルバムのコメントに「ダメです。これを聴かなくては」と件が在り、それが"強く背中を押した"というのがもうひとつの理由ではありますが(更に大袈裟!!)。このアルバムの受止め方で、聴き手のサウンドの指向、音楽アプローチに対するセンスが分かるという気がします。そう言った意味で本作は「踏み絵」みたいなイメージがあります。まず、最も分かりやすいところで言えばリズムのアプローチです。ドラムが普通にバックを押し上げるPhewを否定するわけではありません。また、、ドラムのサウンド、組み立てるリズムの内容によっては、新しい作品である「A New World」を超えた魅力を得ることは可能かと思います。例えばその昔、彼のレッドツェッペリンがガレージで収録したようなサウンドをイメージして、尚かつドラムはオカズを排除した特異なリズムセンスをリピートするような方法であれば、、、。

つまり、本作の気になるところを正直に言わせていただくと、リズムのサウンドと、そのアプローチが彼女の芸風に今ひとつマッチしていない!と感じます。この「感じます。」がくせ者でございまして、、、。感じ方は十人十色。上記の通り「これを聴かないで何がPhewであろうか?」とまでおっしゃる御仁も居られます。
結局は好き嫌いの範囲に足を踏み入れると、その先は不毛な世界になってしまうのですよね。僕の場合、本作は素直に受止められる曲と、この曲は要らなかったのではないか?とさえ思うものと分けられます。そして全体としてPhewにはハイファイ(死語か?)の色合いは出来るだけ避けたい要素であろうと、勝手に納得するわけです。"音楽においてサウンドが解像度高く鮮明であるということが不可欠"というのは大いなる勘違いです。どのような世界にも例外は(実に小さな欠片かもしれないのですが)声高らかに存在します。音楽制作において使用される器材とアプローチはその時代の様々な環境と相まってアルバム全体のサウンドを決めるわけです。アルバム全体の持つサウンドイメージが数年から数十年後に振り返った時、どのように聴こえるか?というのは音楽家にとって、とても頭の痛いところかも知れません。例えば、サラリーマンも知っていたYAMAHAの名器「シンセサイザーDX7」の音は"造った音"であればそれは素晴らしい。しかし流行に乗り過ぎた音は古い音楽より更に古くさい。そういう音色を無頓着、無意識に使うのは演奏家の深い落とし穴です。本作を聴くとサウンドのどこかに時代の色彩を感じます。そこがせっかくのオリジナルの良さを損ねているのが残念なところです。「ダメです!これを聴かないと」と書かれたコメントは「何をして」なのか。それは彼女が(意外に)普通に歌っているところでしょうか?であれば、僕はこの聴き手さんとは聴いている部分が全く異なると思います。
彼女は「A New World」という僕のような凡人ではとても思い浮かばない「世界」を音というツールを使って造り上げました。その世界とは時間軸が取り払われて夢と現実がゴチャゴチャになったような実に不思議な迷宮のようなものです。音楽はその迷宮構築のためのツールであるというところに共感を持ちます。

今現在の彼女は一人のPhewという作り手に研ぎ澄まされた印象を受けます。アプローチはシンプルを極めて、それがよりタイトでありますが決して小さくまとまっているわけではない。音楽家はどうしても音を注ぎ込むものです。それがまるで宿命であるかのように。であるからこそ飾りを捨て去り鋭く透明な線となる音楽家には心より敬意を持つものです。

如何なる種の音楽であれ絶えず精進し、試行錯誤を繰り返し、無駄を切り捨て研ぎ澄まされて行くという道が朧げながら在るのではないか?と考えさせられます。本作を聴き、そして僕の最も好きな「A New World」を聴くとそのように彼女の音楽家としての深き試行錯誤のレールが反射しているようです。比較して眺めてみる、そして自分の好む方向を認識してみるというのなら「VIEW」の立ち位置は興味深いものです。どのように感じるか?この踏み絵をどのように見るか、踏みつけるか、避けて通るか、最初から見ないか(笑)それによって自分の好む「音楽の造られ方」が分かるかも知れない。どうぞアナタもPhewの迷宮に足を踏み入れてください。

STEPS/PARADOX「K子は今何処に、、、。」

演奏家に必要となる音楽性とは如何なるものか?教えてくれる!
今でもそうですが、僕の「面倒くさがり屋さん」は古来からの歴史がございます。自分のライブくらいならそこそこ真面目にやりますが、人様のライブに行くのが実にかったるい!
街の喧噪に揉まれ、帰宅が夜遅くになるのも好まない。
そんな人間なので、これまでのライブの半分くらいは付合っていただきました女性(奇特な方達です)、もしくは現嫁が「さあ、これは聴きましょうよ!」とチケットを用意してくれたのであります。
どうしようもない人間です。というか「音楽家として如何なものか?」と我ながら疑問を感じるところです。ところが一度入り込んでしまうと、どうにも止まらなくなるのが拙者のもうひとつの側面であり、本アルバムはその典型でございます。このステップスの面子にゲストとして渡辺香津美が入ったライブを同じ高校出身で当時付合っていたK子がチケットを買って来ました。彼女は別れるまでの4年間で4回くらいのライブ行きを勝手に決めて面倒臭いという僕をズルズルと引きずるように連れて行ってくれました。先ほど年月日を調べてみると1982年3月1日の厚生年金会館(新宿)、どうもこれらしいです。
今更ながら胸が熱くなる感じがします。
そのライブと本アルバムの演奏内容はほぼ同じイメージと言って良いと思います。
タイトルが変っている作品もあるようですが、このアルバム自体もライブアルバムであり、自分の心に刻まれた音と不思議なほど重なり、音楽というものが時を超えて訴えて来る美しさに改めて敬服するものです。
このメンバーの中で、今も敬愛するピアニスト・作曲家のドン・グロルニック、そしてテナーサックスのマイケル・ブレッカーは既に故人となられ今は天国にてセッションしていることと思われます。残念なことではありますが、しかしこのアルバムにおいては正に現在進行形で音として生きており、その演奏のあまりの神々しさに心打たれます。頑迷なジャズファンの多い世界で、これは問題発言の恐れあり(笑)と思われますが、ステップス以前・以降でジャズが分かれるとすら僕は思います。それはクラシック音楽において新古典派と言われるバルトークの立ち位置にも似たところを感じます。
振幅を大きくとり、少しくらいの引っかかりやミスは大らかに考え、それを味として消化してしまう従来の(それはそれで否定しないものですが)ジャズとは明らかに違う。音楽は煮詰められており、それはドラム、ベースの低域担当であっても例外ではない。この音楽内容を具現化出来るベーシストと言えば当時、エディ・ゴメス以外では考えられないところだったと思いますし、またスティーブ・ガッドにご遠慮願って、ピーター・アースキンに交代したのもバンドの深化にとっては、どうしても必要な流れであったと言えるでしょう。ガッドのドラムは嫌いじゃないしチックコリアの「妖精」辺りでの彼はやはり素晴らしい。しかし、ステップスにおいて彼のドラムではどこか平坦でバンドのスケールアップに歯止めをかけてしまう。あるファンによっては「ガッドはスィングしていないから」とコメントするが、そういう形容もありか。バンドにおいて如何にドラムが全体イメージを決定するのか!ということを雄弁に語っている例がこのステップスにおいても体現していると言うことになりましょうか。何度も聴いて行くと、これがジャズという形体を借りた、ジャンル不明なコンテンポラリーミュージックという体を成している気がしてまいります。例えばドン・グロルニックのソロや作品に対するアプローチはとてもジャズだけでは説明が付かない。作品はこのユニットを率いたヴィブラフォンのマイク・マイニエリが書くことが圧倒的に多いですが、本作ではドングロルニックがM1、M4を書いており、これが親方に負けずに出来が良い。担当楽器の性質から来るものなのか、ドン・グロルニック作品の方が若干叙情的な雰囲気が強いように思います。余談になりますが、ライブ当時ピーター・アースキンのヘアはまだ若干残っておりまして(笑)、撫で付けた髪の毛がライブ後半になるにつれて逆立って訳の分からないカオス状態になって行ったのが愛嬌でありました。このアルバムは僕にとって単なるお気に入りの作品を通り越しており、クラシック流な形容をすれば、自分にとっての「聖書みたいなもの」に近い存在です。聴いていると、この音楽からスキルを吸い上げたい!という出来の悪いポンプが作動するわけです。そしてコレと言って面白い音楽が見つからない時、本作があるではないか!と言うことになります。出来ればこのメンバー構成でスタジオ版を1枚リリースして欲しかったという気がします。この後改名した「ステップスアヘッド」も決して悪くないですが、このパラドックスのステップスを"イチオシ"としたいと思います。STEPSというとどうしてもK子の姿が浮かんできます。時が止まっており、若いままなのが嬉しいのか悲しいのかハッキリしませんけれど。でもこれって音楽のイイところかも知れませんね。今の彼女が幸せでありますように、、、ということで本日は筆を置きます。

アンドレマルケスは、ブラジル音楽だけでは括れない!

ブラジル・ジャズシーンの先鋭ピアニストを聴いてみる

本作は、ジャズピアノトリオの編成となります。また、最たる特長として"エルメート・パスコアール"というブラジルを代表する作曲家の作品を取り上げており、それは材料として十分に咀嚼され創出されたものだと思います。アンドレマルケスは芸風が多彩で形容に若干困るところがあるのです。ブラジル音楽のイメージで本作を聴くと異質な感じを受ける部分がありますが、伝統的なブラジル音楽をそのまま演奏されては飽きっぽい僕としては少し困ると。その点、これでOKということになりますか。僕は比較すれば、その幅広い音楽性が余すところ無く楽しめる6人編成のスタンスを評価しますが、聴きやすく、取っ付きやすいのは本作かも知れません。僕がこのアルバムを買った理由は2つあります。ひとつは偶然通りかかったYoutubeで聴いた(見た)内容に共感を持った事。この時、大変不勉強なことにその作品がエルメート・パスコアールをカバーしたものとは気付きませんでした。ピアノの左手がその役割を十分に発揮したアレンジには、ブラジル音楽やジャズというよりは、間違いなくクラシックの素養を感じさせるところであり、実際ピアノソロアルバムではそれが顕著なのであります。そして2つ目は、リズム隊に最近僕が最も気に入っているドラムのブライアン・ブレイド、ジャズシーンでは説明不要の超絶技巧ベーシストであるジョン・パテトゥチが名を連ねているというところです。この二人のリズム隊はピアニストやギタリストからすると、ひとつの理想とも言える組合せではないか?と思います。
これは、Youtubeでも確認出来ておりましたが、この二人のアプローチにも相当な期待を持っておりました。
結論から言えば、エルメート・パスコアールの音楽を「アンドレマルケスピ・アノトリオ」として煮詰めるには少々時間が不足していたところが僅かに感じられるものの、これが聴く回数を増やしてまいりますと、不思議に気にならなくなり全体としての音楽内容に耳が行くようになります。何しろ、テクニックがあるので、乗り越えちゃっておりますが、この二人だから何とか形に出来たのかな?という作品が散見されます。エルメート・パスコアールは彼のオーケストラで聴くと、大きな振幅、少々のズレや引っかかりをものともせず、音を前に前に進めるのが魅力です。しかし、ピアノトリオという小さな単位では、一人のパイの取り分が大きく状況は大きく異なる。そこはそれ、アルバム全体を聴き終わると、上手にまとめた印象が残ります。例えば"本家エルメート"のオーケストラではガチャガチャと賑やかだったところが、精錬で温度を涼し気なものに下げて、これはこれで聴いて共感する聴き手もおられると思うのです。
アンドレマルケスの音楽アプローチはジャズシーンではあまり見受けられない現代的な感覚を前面に出すところがあります。その現代的なアプローチは本作でも堪能出来ますが、これはピアノソロでの演奏が顕著でしょう。僕は上記でふれたピアノの左手に特長を持たせたM3.COALHADA、そしてピアノソロのM7.FERRABENSが本作を支える柱と思います。
本作は、もう少し柔らかく主張する作品も入っており、全体としてはカラフルな造作です。ジョン・パテトゥチのとても美しい弓弾きも聴けますし、ブライアン・ブレードも実はいつもの主張を少し奥に引っ込めて軽快でラテンを意識した演奏を考えたのかも知れません。こうして、何度も聴いて行くと評価を変更しなければいけないアルバムというのは少なからずあります。本作もその典型であり、今、こうして若干慌て気味で手直ししております。もう一度読んでいただければと思うのですが、さて。。《2019.05.05 加筆・修正》

Phew「A New World」/二度美味しいキャラメル

暗い夜道で笑ったら、、そりゃもう、、!

実はこのアルバム、救いを求めて買ったような気もする。酷い鬱な精神状態。音楽を止めてしまいたいという「また始まったか!」という"悪い病気"の再発。良薬は口に苦し、とはよくぞ言ったもの。結果として、自分が望むような救われ方ではない方向ではあるけれど、しっかりと救われた気がするのである。
昨年11月からスタートさせた副業のためこの町の至るところに出没する自分。一昨日も新しく考えた近道で坂を下り川の向こう側を目指す。人の住まなくなったN団地群の影は闇夜よりも深く不気味という他はない。こんなルートを考えた自分を呪いつつ愛用のiPodを遠くなりかけた両耳に差込む。聴こえて来るのは昼休み途中まで聴いていたPhewの新譜。思わず笑ったら出会ったオヤジがササッと避けていったのは当然であろう。暗闇で笑う男、、そりゃ恐ろしい。

そしてこの何しろこの音楽、、、。

この夜道にハマる最強の音楽と言い切れる。それは夕暮れの物憂い時間帯にECM・ギタートリオがお洒落に溶け込むのとは随分と趣が異なるわけだけれど。そして聴いていくと自然に出る反応は"笑ってしまう"こと。どこから来るのだろう?このヴォーカルの素晴らしき滑稽具合というのは。笑いを誘うのは、その上ずった音程感に在るのかも知れない。微妙にジャスト位置から#(シャープ)していく。それはPhewにしては(笑)まともに歌う「浜辺の歌」であっても例外ではない。しかし何をカバーするって、、「浜辺の歌」というところに真骨頂の一旦があると思う。英国にケイト・ブッシュあり、、そして日本にPhewあり!と言い切って良いか。Phewを知ったのはもう数十年前、限りなく遠い昔のこと。彼の坂本龍一NHK・FMで教えてくれたのがキッカケだ。即行でアルバムを買ったのだが、それがホルガーシューカイとのコラボレーションで知られている作品となる。比較すると今回の新作は圧倒的に自分の好みに近いように感じる。Youtube・ライブ動画を見ると、彼女は意外に"ライブの人"である。ヘッドセットマイクと、サンプラー、そして各種音源をバランスさせるミキサーを一人で操作しつつ、あの例の掴み所のない「声」を発して行く。サウンドや声にディレイを中心としたEF(音響効果)を付加したり、というところが目立ったところだが、実は歌詞にも注目していただきたい。
これが実は笑える、、というか面白い、、というか訳が分からない。Phewを聴く人間はデジタルの様にカッチリと分けられると思う。0/1の世界、、白か黒か、、紙媒体においては原則的に墨1Cで生成されるQRコードのようでもある。好きと嫌い、、この音楽に入り込む音楽ファンは一体どういう人達なのだろうか?聴き手側の個性もまた比例して面白そうだ(笑)本作に入っている作品はどれもこれも面白く、僕にとっては新しい音楽として聴こえる。全体的には「ひとつのカタマリ」として差し出されるところは、映画のようでもある。意外に様々な手法を凝らしているのだが決して散漫になることなく、自分の設定したレールを驀進するところが美しい。ぶっ飛び具合で言うなら「My Walts」だろうし、  その堂々とした歌いっぷりに呆れ笑ってしまう上記「浜辺の歌」も目立つところか。このアルバムの心に投影する力は信じられないほどで、さっぱり上手く行かない手前の音楽など畳んで彼女の宣伝部長になりたいくらいの気持ちでコレを聴く。そして教えられることもまたある。自分の音楽を見つめそこから自然で曲がらない形で表現方法を捻出すること。上記で少し触れた動画ではR社のSPシリーズ(直感的な操作を可能としている小型サンプリングマシン)を使っている。このマシンの使いこなしから彼女が自然体で音楽をやっていることが見て取れる。頑固で不器用で「このようにやりたい」ということが明確ということ。人にどのように見られようが「知ったこっちゃない」自分の信じた道を突き進むというカッコいいオバサマ(失礼!)なのである。
楽しく聴けるだけではなく、音楽のやり方まで教えてくれる某キャラメルのような二度美味しいアルバムなのであります。

※本記事は白紙からの書き直しです。このアルバムがより好きになったところでリニューアルしました。

加藤登紀子・坂本龍一/愛はすべてを赦す

坂本センスは黒子に徹したところで冴える!
これを聴いたのは随分昔になる。LPで聴いたので理想を言えば今、買い直すとしたら迷わずLPとなる。しかしプレーヤーは数回の引越のどこかで処分したのか今はなく、まずは先行投資が必要となり財務省「嫁」を通さないとヤバいこととなる。音大に入るために1浪したところで友人となったOさんは僕よりひとつ年上で、声楽科に入ったが、この部門の輩からすると随分と特殊なタイプだった。クラシックは勿論、現代音楽に精通しジャズやポップスも渋いところをおさえており、本アルバムはその1枚ということになる。この作品は彼が僕に教えてくれた数々のアルバムのなかでも取分けお気に入りの1枚となった。その理由は分かりやすく、つまり加藤登紀子のヴォーカルは当然の事として、坂本龍一さんのセンスが素晴らしい!ということになる。
これは私見ですが、坂本音楽の最良のポイントは意外に小さなCMとか歌謡曲のアレンジ、映画音楽、そして本作のように黒子に徹してピアノアレンジからシンセ、サンプラー、リズムボックスまで駆使して仕上げるそのトータルな才能に在ると思います。全体としては、透明感のあるスッキリとした聴きやすいサウンドにまとめられているのですが、実は作業量は多く、ピアノ以外にも適材適所にYMO的なアプローチが見られます。これは、別ページで紹介した大貫妙子のロマンス辺りとも共通した世界でしょうか。
音楽ファンのコメント欄では、加藤登紀子がこういった三文オペラを取り上げることを意外に感じている方も散見されますが、昔からシャンソン歌手と近似性を感じるところからクルトワイルを歌うということ自体僕個人、自然なことのように思えました。
意外性ということではむしろ、坂本教授のシンセサイザープロフェット5かな?)とか、リズムボックスはおそらくRolandTR606(勿論、黎明期の旧型、銀色ボックスのモノ)を使ったりというところがゲリラ的で楽しい。加藤登紀子と言えば僕の勝手なイメージとしては、どうしてもアコギ一本とか、アナログ生というところになります。
坂本さんは、それを逆手にとって"外し"でサウンド制作を行ったのかも知れませんが、しかし全体のイメージとしてはアコースティックの雰囲気は色濃く残しております。この「電気と生のバランスは実に微妙で、彼の仕事の中でもピカイチの部類と判断しております。勿論、加藤登紀子の歌いっぷりは、その坂本音楽に引けを取らず安定度抜群で、しかも単に上手で安定しているというのではなく、微妙なアーティキュレーションと楽曲に入り込む"演技力"には脱帽です。そして何と言ってもその声質でしょう。太く少し引きずるような官能的な声(それでいて不思議にサッパリしている!)。多くのファンを抱えるヴォーカルは生まれながらの声を持っています。荒井由美を聴くと分かりやすいですが、ヴォーカルにおいてはテクは二の次かも知れません。まず唯一無二の「声」を持っているか?ということになると思います。
諄いようですが、本作の好感が持てるところは、その腕っこき二人が制作したアルバムでありながら、それが押し付けがましくなくアッサリとした清涼感を伴っている事です。
内容は相当に濃い!しかし、それでいて聴き疲れしない作品とするのは大変難しい。本作は一度ハマると折りにふれて聴きたくなるアルバムです。個人的見解ながら、パッと聴きで圧倒されるというよりは、何だか知らないが長く聴き続けてしまうアルバムというのが希にあります。そういったところで言えば本作は間違いなく名盤の部類に違いないでしょう。
さて、Oさんはその後音信不通となってしまいましたが、今はどうされているのでしょうか。いつも懐かしい人リストの最上位です。当時は音楽の糧となるような良き音楽を沢山教えていただきました。こんなところでお礼を言うのも変ですが(笑)御礼を申し上げたいと思います。

MSB・two/これを本当のフュージョンと言う!

佐藤允彦のアルバムと言った方が早いか?

空気を入れ替えるために母が半開きにした窓硝子の間から雲が流れて行くのが見える。身体を壊して布団に横になった僕の目に映るのは嘘くさいほど美しい真っ青な空と、コントラストを描く真っ白な大きな雲の群れ。当時24歳、酒とタバコとギャンブル(主にパチンコ、、笑)と荒れた生活で十二指腸が変形してしまった、このどうしようもない若者は田舎に逃げ帰って来ました。食べ物を受け付けず、布団から立ち上がるのもフラフラな状態でしたが、病院に検査結果を聞くために何とかバスに乗りました。そして医師に「酒とタバコ、どちらかを止めるように」とキツく叱られて「タバコ」と元気なく応えて病院を後にしたのでしたが、その時ふとラジオから流れて来たこのMSBの音を思い出し、レコード店に寄ることにしました。他のページでもよく登場する「レコード・ユキ」ですが、この時は高校時代の初々しさも。未来を信じて疑わなかったバカバカしいほどの自信もなく、燃えカスみたいな自分だったと思います。
しかし、微かに、本当に小さな欠片のように音楽に対する興味が残っていたらしい。それがこのMSBを聴いた刹那、火花が散った「何がどのようにして、このようなソロを演奏出来るのか!?また、バックの音との構築が如何にして成されるのか」という深い疑問、というか好奇心。
それから数日後、僕は寝ていた布団を畳みました。本アルバムは僕にとってあまりに大きなポイントとなった作品と認識しております。このような状況で聴いたのでなければ、ここまで記憶に残らなかった可能性もあります。否、この作品に力があったからこそ、僕は精神的なダメージから逃れることが出来たのかも知れません。

MSB(メディカルシュガーバンク)は、佐藤允彦のユニット。当時の国内腕っこきのジャズ系アーティストが名を連ねている。ジャズ系と「系」をくっ付けたのは、ベースの高水健司みたいにジャズの演奏家と言うには少し違うか?という面子もいらっしゃるので。高水健司と言えばスタジオの売れっ子というイメージが僕にはあるのですね。因にドラムは山木秀夫となります。当時の音楽雑誌、確か「アドリブ」か「ジャズライフ」だっと思いますが、このアルバムの山木秀夫の評価が海外中心にとても高かったと記憶しております。演奏の中心は言うまでもなく佐藤允彦で、彼の存在がこのアルバムをただのフュージョンとは違う、言うなればキッチリ進化した形の"ジャズ・フュージョン"にしていると思います。その作品のオリジナリティ、それからソロにおいて描かれるラインは、間違いなくジャズの理論的なところを収めた人でなければ弾けない音使いであり、またそれが単に頭でっかちな理論に負けた(そういう演奏家もまた多いです。残念ながら)表層的な内容ではなくて、作品ひとつひとつに寄り添ったイメージに合致した必然性を感じさせるものです。
フロントプレーヤーとして清水靖晃が参加しておりますが、彼のサックスもまたこの当時から完成されており(和製マイケル・ブレッカーというイメージではありますが)以後、多彩なアプローチを行う以前のニュートラルな演奏を聴けるのはこのアルバムの興味深い点です。
さて本アルバム簡単にまとめれば(稚拙な形容をお許し願いたいのですが、、)
チック・コリアウェザーリポートをごちゃ混ぜにして、そこに和ティストを少し加味した」
という感じでしょうか。
この和ティストというのが、しかしどうして悪くないです。作品に日本的な要素を入れるのは、どこかに無理を生じるのか、上手く行っていない場合が多いという気がします。現代音楽の巨匠・武満徹であっても、全てが自然で馴染んだ形になっているか?と言えば、個人的見解ですが若干疑問を感じます。それは、日本的な演出を施すために尺八や、琴、琵琶などを取り入れるからだと思います。僕は、それが方法として否定しているものではありませんが、しかし、西欧の楽器とこれらをブレンドするには無理があるという気がします。(実を言いますと、僕も少々の経験があるのですが、難しい!やるなら一生かけて試行錯誤するくらいの覚悟がないと駄目かも、、と思います。)その点、矢野顕子のジャパニーズガールは何だか脳天気に超えちゃっているところがあり、凄いな!!と思うのですが。そしてこの佐藤允彦のアプローチは、別段何か飛び道具を使っているわけではなく、せいぜい曲のタイトルにそういった「"らしい"ネーミング」を施している程度です。それでも、聴くとしっかり「和」を感じることの出来る曲があるのは、僕としては好感が持てますし、おそらく佐藤允彦の真骨頂とでも言ったらイイのかも知れません。レコード・ユキは昔になくなりました。震災で流されたというのではなく、もっと遠い話です。しかし、本アルバムは期間生産限定版という形ながら手に入れることが出来ます。今、聴いても古さを感じない、最近リリースされたかのような音楽というわけです。メーカには本当に音楽が好きな方が居るらしい、ということ。また、音楽ファンにも復刻を望む声があったのでしょう。安価というのも大切なポイント!この機会に是非、、ジャケデザインも都会的なセンスで、内容をよく表していると思います。