ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

君は"ウルトラQ"を知っているか?

懐かしいというよりはしっかり現在進行形!

アルバムのタイトルはウルトラQ総音楽集」作曲:宮内國一郎、ということになります。
以前一度このサイトに登場しました会社の同僚モリタさんからまたまたマニアな音楽が届きました。と言ってももう1年近くも放っておいて「聴かなければ!」という焦りの気持ちのまま、暇がなく気力もなく、そのままにしておりました。時が悲しく経過していくという辛い日々を送っておりました。しかし、調度バンドのライブが終わった翌日の日曜日、とうとうCDカートリッジに皿を投入したというわけです。我が社の音楽図書館と言っても良いモリタ氏のセレクトはマニアの中でも特に度数が高く、これまでも私のiPodを散々っぱら荒らしてまいりました(笑)その中では高橋幸宏率いる「ピューパ」の二枚はなかなかのヒット作でしたが。さてこの、やはり来たか!?と言うべきウルトラQ総音楽集という、まあ何ともCD2枚組1枚に100トラック入っていたりする溜息ものです。実は1曲が短いものが殆どで、例を挙げますとペギラ登場のジングルなど5秒という、まるでジョンケージもビックリの短曲も入っております。勿論、名作は例のテーマですが、通して聴いて行きますと、これが妙に聴きやすいわけです。家人にそれを伝えると「お前がおかしいのだ。ウルトラQ・100曲も聴いて、環境音楽みたいに聴くなど、変っっっ!!」とバカにしたように笑うのみである。

特長というと、そこここにSEとして入るテルミンのような(テルミンなのかしら?)ヒューゥゥゥゥゥンンという気味の悪い音、これが全体を特長付けている気もしますが、ラウンジで聴くような酒臭いBGMが入っていたり、3分以上もオカリナだけで演奏されるタイトルもまさに「オカリナ」等はもはや笑うしかなく、おそらくこれを聴く私の表情は気持ち悪く緩みっぱなしだったと想像される。あちらこちらに聴かれる新鮮なサウンド。ダサイが魅力的なエレキのフレーズと音、そしてスプリングリバーブが嬉しかったのかピッキングベースにかけまくる"ぴょんぴょんサウンド"は、実に魅力的。まるで昨今のDAWを嘲笑うかのような万華鏡具合で、これだけの大作ですが、すんなりと腹に収まります。
基本的にはビッグバンドジャズですが、そこはそれ怪獣番組に合わせるために、あれこれとSEを混ぜ込むというところが楽しい。普遍的なポップナンバーであっても木琴(マリンバ?)を多用し、少し捻りの利いた愛らしさを演出しております。ウルトラセブンの辺りまでのウルトラシリーズに共通する管楽器が活躍するのは、やはり個人的には好感を持つところです。変に電子音楽を使わず(というかそういう楽器が一般的ではなかったからだが)人力で吹き鳴らす楽器は、人間パワーが感じられて、そこが怪獣達のイメージとしっかり接続しているのだ。怪獣作品もCGに頼るようになってからは、リアリティを失った。ウルトラQペギラガラモンは今、視ても「ひょっとしたら、こういうのがどこかに潜んでいるかも、、」と感じさせるスケール感、立体感が在る。音楽も似たようなところがあるか。制作をするためのツールは進化した。しかしして、本作のような作品力はそうしたツールがない時代に産み落とされたものだ。不便であることがオリジナルを育てたのだ。あれれ、、何時の間にか熱くなって過激な口調?になってしまいました。

一柳慧「ピアノ作品集」凄過ぎるかも知れない

イメージ表現の手本。聴いて良し、流して良し。

久しぶりの脱線評です。90日も書かなかったので広告が勝手に出てしまう。それはあまり好きな状況ではないな、、と思っていた矢先、調度お気に入りのアルバムが出現しました。さて、、。
一柳慧は、若い頃から折に触れて耳にする作曲家ではある。一度、ライブで高橋悠治、ジェフスキー、そしてこの一柳慧の作曲家三人の自作自演を聴いたことがあるが、今思えば何と凄いものを目の当たりにしたのか、、と反芻するわけです。ジェフスキーは「不屈の民」を弾いた。高橋悠治は当時サンプリングに凝っていたらしくRoland社のS50を持って来てサウンドコラージュ的な今ひとつ訳の分からない音楽を展開した。そして、一柳は地味な風情でごく普通に自作をピアノで弾いた。そこから一柳音楽を事ある毎に気にするようになったと。つまり三人の中で最も共感したのがこの作曲家だったということになります。しかし、最近は意識の中から遠のいて存在が朧げになっておりました。何がきっかけと言えば「Youtube」です。別なアーティストから偶発的に辿り着いたのですが、これはYoutubeの功罪とも言えるポイントでしょう。このツールは、このように時折記憶の外側に在った作品を連れて来る。「今回の悪戯はなかなかのものだ!」ってところです。褒めてあげたい。
一柳は間違いなく日本を代表する作曲家と言っていいと思う。それは、伊福部昭から黛敏郎武満徹高橋悠治等のキラ星のように瞬く僕の中での"巨星達の輪"の中にしっかり置かれている。その割には何か社会的な認知度では今ひとつな感じがしないでもない。何故だろうか?作風が時代によって変化し、今ひとつこの作曲家の中心線が見えない、、もしくは本人がそういった自分の方向性というよりは、作品主義に重心を置いており、音楽家としての自分のキャラや、社会においての自分の立ち位置に意外に無頓着なところがあるから、、などと勝手に推測してしまう。例えば、武満徹を評して、親友の作曲家・湯浅譲二は「とても戦略的な男だった」と言っている。僕も、武満徹は自分の作品に対しての客観にとても深い思索があり、自分が表現したことに対して聴き手はどのような反応を返して来るのか、そこから紐付けて社会に対してどのように発信するのか?を深く意識した作曲家だったように思う。殆どの音楽家はもっと音楽本意であり、大変主観的な立場をとる。武満徹は身体もあまり丈夫ではなかったし、若い時分音楽をやっていく環境は決して恵まれてはいなかった。コンテストでの成績も芳しくなかったことから自分の作品に対する厳しい姿勢を生涯変えることなく、表現技術を磨き、社会に対峙し音で生き抜く術を学んだのだと思う。一柳はそれからしたら恵まれた才能と、音楽界からの認知も早かった。ジュリアードにも留学し、ジョンケージに触発された時期もあるが、その作品は初期の頃より完成していると思う。というかむしろ僕は本作のような小さな作品、初期から中期のものに魅力を感じる。ピアノソロのアルバムというと、個人的にはなかなか手を出さないのは自分の恥ずかしいところです。バッハの平均率、ベートーベンのソナタから、バルトークラヴェルメシアンリゲティと来て、本作が来た感じでしょうか。随分と間が抜け落ちておりますが(笑)この作品でとっかかりとして知ったのは「タイムシーケンス」ですが、何とも驚きました。ピアノテクニックにおいて音楽を聴くのではない!くらい肝に命じておりますが、それにしてもこれだけのテクニックで演奏される作品、それを作曲したのが驚きです。これは作曲者が弾けることが仕切り線としてあるわけで、どう転んでも、武満徹シューベルトがこんな作品には行き着かない(笑)また逆に言えば、このようなテクニックを使用しなくても表現に足る様々なテクニックが在り、それこそが作品の個性を形成するわけです。それでも、、、この作品は多くの聴き手が触れた方がイイと僕は思う。タイムシーケンスと比較すれば2曲目に配置された「インターコンチェルト」の方が、音楽が柔らかく圧倒されない分、こちらが入り込みやすい。聴いて行くと、昔、池袋西武の最上階に西武美術館があり(良き時代でした!!!)そこに併設されていたアールヴィバンでは、確かにこのようなピアノ曲が流れておりました。実際、一柳の作品だったかも知れない。暑い真夏エアコンもない江古田のアパートからサンダル履きのまま電車でここに来て、よく涼んでいたものです。そういった自分の二十歳そこそこの生活を思い出させるある種の環境音楽でもあります。この当時の音楽の造作は、リゲティバルトークとの近似性を強く感じさせます。しかし、リゲティの例えば「」(ピアノエチュードに収められている作品)のような感性とは違う。徹底して無機質で幾何学模様のデザインを思わせる印象がある。そのどこか無機質なところがキャラのポイント。苦手な聴き手はこの部分に違和感を憶えるのかも知れない。それにしてもショックなのはこのピアノ作品集全体が僕が目指しているイメージ表現に大変近いということです。しかも彼は大昔に、あっさりとゴールしている、、というショックが拭えない。このアルバムに出会ったことは、バンドへの提供している作品内容に間違いなく影響するでしょう。今、バンドにはマリンバ奏者がおります。何と素晴らしいタイミングかと思います。

フランシス・レイ・悲し過ぎる旅立ち

作曲に対するワクワクとした気持ちを、、、。

教えてくれた大切な存在です。
中学生の僕が、どんなに時間をかけてコピーしたことか、、、!!!

フランシス・レイ
先日、お亡くなりになりました。
勤務先のお昼、お弁当を食べながら何時ものデジタルニュースをボンヤリ見ていると箸が止まってしまいました。
お昼後の仕事がどうにも悲しく、即行で帰宅したい気持ちでした。
さて、気を取り直しまして、、。
フランシス・レイの特長は、(これはとても個人的な感じ方だと思います。)アコーディオン奏者出身というところが、作品の至るところで溢れている印象を受けます。「白い恋人達」然り「雨の訪問者」然りと。
僕がフランシス・レイを初めて聴いたのは小学校6年生の頃。叔母の誕生プレゼントLPがキッカケです。残念ながら、今は廃盤ですが、検索するとジャケ画像を確認することは出来る。
一昨日、数十年ぶりにそのジャケを目にして時間の経過に驚くばかりでした。フランシス・レイを国内において一躍有名にしたのはおそらく「ある愛の詩」でしょうけれど、僕が彼の作品で好むのは当然の如く「白い恋人達」です。僅差で「個人教授」でしょうかね。勿論「ある愛の詩」の旋律は素晴らしい。僕も高校時代はピアノアレンジして、ガールフレンド関係では戦力になったものです(笑)、まあ、それはそれとして「白い恋人達」です。この某有名お菓子のようなネームはともかく、その何とも美しいのは、冒頭イントロから主題にかけての流れとなります。不安げで、不安定なハーモニーから、あの有名過ぎるテーマに移行する世界が、僕には到底真似出来ない芸風であります。どうして、こんな洒落た音楽を作り出せるのだろう?と不思議なほどです。この冒頭のシーンで殆どの聴き手は彼の世界に持って行かれるに違いない。
動画でこの音楽の寄り添ったところをみると、その魅力は倍加する。仏人って、旅番組とかで見ると、市場のオヤジでも赤いセーターなんか着こなしてお洒落なんですよね。街行く市民が皆、自分なりにお洒落なんだなぁ。そういうお国柄を感じさせる音楽でもあると思う。
例えば、宿敵とも言えるイタリア映画のニーノ・ロータやエンニォ・モリコーネとは明らかに旋律の持つ重さというのか、明度というのか、湿度感かな?違います。
イタリアは信心深くまた母性愛が強い国です。そういうところも関係あるのだろうか。この音楽の違いは興味深い。
コード進行は変に捻ることは少なく、自然な感じがします。ただ、その上にのるラインが言葉に出来ない程の世界を称えているわけです。
旋律こそ、作曲の原点であり、帰結するところであろう!!と声高らかに言われている感じがします。
本アルバムは、音楽ファンがよく気にする(僕も同感ですが)他オケのアレンジ版ではありません。サントラからの抽出されたものを集めたものですね。フランシス・レイの場合、好きな作品が程よく入っていること、、そしてサントラ版を聴きたいわけです。それがなかなか見たらない。
ボックスものとなると値が張るだけに、このアルバムは良心的かも知れません。
是非、この機会にこの仏・巨匠の世界に誘われてください。きっと良い旅に出られると思います。

今、一番好きなギタリスト・Ben Monder

音使いを聴くと無意識に頷いてしまう。

また「Ben Monderかよ?」と叱られそうである。今年自分の聴いたベストはヤコブ・ブロトリオの一連の作品と決めつけていた。おそらくあの狂ったような猛暑を迎える直前までは。しかし、このアメリカの高速アルベジョを特長とするギタリストは、まるでその昔レコード大賞を急速なぶっちぎりでもぎ取った「ちあきなおみ喝采」の如く、ECMの売れっ子ギタリストを涼し気に抜き去ったのである。勿論、それは僕の心の中の世界であり、それが逆の音楽ファンもいらっしゃるだろうし、またこの辺りのギター作品に感心を持たないジャズファンも多いことだろう。確かに、この音楽はジャズという頑で、ある集合体においては形骸化している(そこが良いというのも分からないではないけれど。)場所からは意外なほど遠い位置に佇む音楽だと思う。前回、このサイトで評を書かせていただいたポール・モチアンのドラムが光る名盤「Amorphae」も例外ではなかったが、Ben Monderの音楽はジャズの括りだけでは少し苦しい。プログレみたいなところもあるし、サウンド自体がとても重い役割を果たしているところがあると思う。その点では、ヤコブ・ブロなんかも共通しているけれど。
ただ、僕が驚くのは本作「Excavation」のその音の構築、ハーモニーの内容である。それは、例えばバークリーで高次元な理論に基づくテクニックを収めたとしても、とても行き着けないような、ある種の異次元を感じさせる。大切なのは、その彼の使う音楽の言葉達が、しっかりとイメージ表現に結びついていること。
繊細極まりないライン、構成は、実に美しく微妙なものだ。これを聴くと、現代音楽の寵児と呼ばれた「リゲティ」を思い起こす。
この偉大な作曲家(という言い方をリゲティは好まないだろうけれど、、笑)のピアノエチュードに「虹」という信じられないほど素敵な作品が在る。読者の皆様には是非、機会があったら聴いて欲しいのだけれど、その世界と本作の音楽にどこか共通した部分があり、それがとても興味深い。

本アルバムの特長は、ヴォイスのテオ・ブレックマンが参加していることだ。ジャズ・フュージョンの世界において、ヴォイスをゲスト参加させることは決して珍しくない。チック・コリアパット・メセニー然りと。アレンジの方向性としては、やはり同じギタリストと言うこともあるのか、メセニーグループと近似するところがあるように思う。しかし何度か聴くうちに、その表現したいイメージというか、空気感とでもいうのか、かなり違っていることが分かって来る。パット・メセニーの音楽が明らかにポップで分かりやすく万人受けする方向だろうけれど、本作は陰影に富み美しさではこちらに軍配が上がる。Ben Monderは、他ギタリストの誰とも違う。ギタリスト達の技術指向、テクスチャーの形成は、皆共通したところがあるように思うけれど。おそらく、ずっと作曲指向なのであり、調度長きクラシックの歴史において、飛び抜けて異質な存在であるバルトークみたないところがあるようにも感じる。
自分の表現したい世界に対して、どういった音を使うのか、どのようなサウンドを考えるのか、、という音楽要素に対して、極めてストイックに追求する姿勢が垣間見える。前回の評ではどちらかというとサウンド主体に、本作では音そのものの使い回しによって、というように思考のベクトルは変化するが、その根底に横たわるのは飽くなき表現への渇望なのだろうと想像される。その、凛とした佇まいに心打たれる。音楽が産業化し、聴き手も演奏家も一様に横並びで"大量消費主義"へ媚びていることへのデカイ一石とでも言うのか。聴いて、不思議なほど心が浄化される気がします。

スマラ・ラティ「ガムラン変貌」/就寝前はNG?

踊り抜き、純粋に音楽としてガムランを聴いてみると、、!

8月中旬、家族旅行で訪れたバリ島。25年ぶりのバリ島は空港付近の様変わりから始まって、その変貌ぶりに驚いたのですが、滞在2日のウブドまで行ってみるとバリの良いところが残っているように思いました。数年前に訪れたペナンもそうですが、観光地の近代化は以前持っていた長閑な雰囲気、街のイメージを大きく変えてしまいます。ただ、バリ島には私にとって最後の砦があります。

ガムランです!

ガムランは大小の打楽器を組み合わせた合奏団と踊り手の混合芸術です。バリ島に限らずジャワ地方、またタイにも似た様式のものがあります。しかし、その内容の激しさ、技術的なところではバリガムランガムランの代名詞になっているところがあると思います。バリ以外のものは何かノンビリと間延びした印象受ける筆者なのです。さて、ウブド観光の夜に聴いた(見た)のがスマラ・ラティのパフォーマンス。本作を聴くとあの感動の夜が蘇るわけですが、ひとつ大きくことなるところがあります。
それは踊り手の存在です。
踊り手はそれはそれで唯一無二の美しい動作が魅力です。また合奏団との関係性も見過ごせない要素で、このスマラ・ラティの超絶技巧と踊り手のシンクロ具合の凄さは是非ご覧になっていただきたい!と切に思うものです。とは言うものの、自分として音楽だけを取り出して聴いてみたいという気もします。帰国して即行で手に入れた本CDは録音も素晴らしく、この現代的なガムランを楽しむ音楽ファンにとって十分な内容を持っていると思います。ひとつだけ引っかかるところをあるとすれば、本作が少し古い収録となるところです。スマラ・ラティは常に深化し新しいことに貪欲な集団です。2002年にアメリカの作曲家、エヴァンジボリが自作を彼らのために捧げましたが、実際にバリを訪れてレクチャーしたという話が伝わっております。その後の一連の変貌が音として分かるアルバムが欲しい。今現在、その作品の演奏内容は円熟の極地に達しており、もはや曲をなぞっている段階を遥かに超えて彼らの音として伝わって来る。
さて、本作に話を戻しましょう。
改めて冷静に聴いてみると、あの例の金属的なサウンドには個人差による微妙なズレを生じており、ウブドで聴いた時のようなイメージとは異なることが分かります。しかし、コレこそが人間の行う音楽なのであり、シーケンサーガムランを奏でさせることは可能でしょうけれど、それは音楽としては全く違うものとなり意味を成さないと思います。ブレイクからの入り方、無音から一気に畳み掛ける音の洪水、このダイナミクス。そして各打楽器で超高速で奏でられる(打ち出される)フレーズは上記で述べたように微妙な人間的ズレによって、何とも言えないカオスな音響を生み出していくことになります。
ここでスマラ・ラティに付いて簡単にご説明しますと、この楽壇は1989年にバリ南部のアーティストにより結成されております。(インドネシア国立芸術大学の卒業生を中心とする、、という説明もあります。)
結成の中心となったのは踊り手の中心となるアナッ・アグン・アノム・プトラ(以下アノムさん)さんで、この方の踊りはウブドで実際に見ることが出来ましたが、その両目を中心とする独特な表情と手足の動きが素晴らしいもので、音楽内容と共に他のガムランと一線隔てている部分と思われます。その動きと表情を唖然として見ていると、まるで何かがヒョウイして人間とは違う、表向き人間の形をした異形の生物のようです。不気味であり、どこか滑稽であり、結局とても不思議なのです。また女性の踊り手、アユ・スリ・スクワマティ(以下アユさん)さんもまた負けていない!!今回、最も心に刻まれた踊り手です。両目の動き、そして身体全体のタイトな動きがもの凄い。余談になりますが、彼女はアノムさんの奥様で、この二人「ジョン・レノン・ヨーコ小野」に匹敵する夫婦であろうと納得してしまいました。このアユさんのリズムの取り方は、他の踊り手達は少し違う気がします。私は踊りのことは全くもって素人なので専門的なところは分かりませんが、彼女の踊りはとても強いリズムを感じさせます。タイトで正確なリズムを身体で押出すところに特長があり、何とも言えない魅力を感じてしまいます。ガムラン以外のジャズやロックなどにも造詣が深いのかも知れない。
スマラ・ラティはトラッドなガムランからアメリカ人作曲家エヴァン・ジボリの作品まで幅広く演奏しますが、この現代的ガムランと言える音楽は何しろ想像を絶するもので、8ビート、16ビートのようなジャズ・フュージョンて使用されるリズムセンスまで取り入れてしまう。ポイントはそれが決して付焼き刃な感じに聴こえないことです。使用する楽器の特殊性、アレンジ、音楽を追い求め純粋な気持を物語るところです。それにしても、ガムランサウンドの特長は打楽器で打ち鳴らされるカンカンとした金属質な高速ビートですが、実は低域で鳴らされる音価の比較的長いパートで、その音は柔らかく耳に届くと私は何かいつも大晦日とか、煩悩とか、盆暮れの世界に誘われてしまいます。本作も勿論、同様に何とも形容のし難い別世界に誘われてしまいます。
サウンド的には統一されたところがあるので、身体が疲れている時などは小さな音量でラジオでも聴くように空間に放出しておくという手もありです。

www.youtube.com上記はタルナジャヤというアユさんの十八番です。
素晴らしさは伝わりますが、やはり生には到底叶わない。
来日することもあるようですので、次回日本公演、時間があったら是非またビックリさせていただきたいです。ひとつだけ注意点、本作を寝る直前に聴くと(私の場合)頭の中でガムランが鳴り響いてしばらく眠ることが出来ませんでした。深夜の試聴は小さめの音が吉かもしれませんね(笑)
ノムさん宅では、踊りを習うためにホームスティ可能となっております(8室)。キレイなお部屋が用意されていて、好感が持てます。ガムランを学ぶ方には良いかも知れません。また、ここにはガムランで使用する衣装、器具等が保管されており、本番ではトラックで運び出すそうです。

ここで筆者よりご挨拶 FLAT122「THE WAVES」

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さて、、人の作品をあれこれと評するのも良いけれど自分も音楽家の端くれですから、たまには自作を叩き台にのせてみたいと思います。
THE WAVESは、ベースレスギタートリオ「FLAT122」の一作目となります。
2005年に仏先行にてリリースされ、その後国内ディスクユニオンHMV通販などでも発売されました。レーベルはPOSEIDONです。今、どうなったのでしょうかね?
さて、このアルバムは2004年にFLAT122の屋台骨であるドラムが田辺君に決まり、その勢いのまま制作されました。制作のタイミングは若干早過ぎた感じがありますが、バンドを短期間で向上させる絶好の手段としてレコーディングが大きな要素であることは確かです。
レコーディングは、中野の某スタジオで6時間を2回行っておりますが、時間を要したのは何と言ってもその後のミックスとなります。
使用した媒体がプロツールスに代表されるDAWではなく、ハードとしてのA-DATでしたので、僕は同じ機器を中古楽器店で購入し(最初に買ったマシンはローラーがテープを巻き込んでしまい破損!結局16トラックを同期させるために、改良モデルを2台買う羽目になる。)自宅にミックスの現場を構築して半年ほどの作業となりました。
ミックスにあたり収録を確認すると、このバンドの未完成なところが散見され、それを補完するために削除、修正、新しいトラックの挿入と、躊躇なく大屶をドーンと振り落としたわけですが、この迷わず叩き切っていった修正具合というのが、この音楽に開き直ったような妙な力を与えたところがあり、全体の出来具合としては決して悪くないものだったと少しだけ自負しております。それは、国内・世界各国からいただいた好評価にもよく現れておりました。

器材関係は以下の通りとなります。大きく3ブロックに分かれております。
01.楽器達をまとめる「ミキサー」
ミキサーには以下の楽器達が接続されております。
ピアノ:YAMAHA/P-80(10年以上とにかく使い切りました。今も愛着が強いです。)
シンセサイザーKORG/MS2000、Roland/U220
サンプラーYAMAHA/SU200

02.スタジオ収録データの入っている「A-DAT」
録音機として、A-DATを2台。この2台は16TRで扱うため(A-DATは8TRモデルです。)同期させておりましたが、数日使用の結果、オプションのリモコンを導入しこれが劇的に作業効率を上げました。

03.一旦ミックスをまとめるための「VS1650」
これは平田君が貸してくれました。当時住んでいたのは練馬春日町というところですが、今も平田君がこの機材を届けてくれました時の絵柄が脳裏に残っています。これがないとおそらく作業は頓挫していたと思われます。本作業最大の功労者?と言えますでしょう。何しろA-DATが安定しないので、まとめられた2TRデータは一度ここに保存されました。またこのモデルはミキサーとテレコがドッキングしたものでしたので、こちらでミキシングするケースも多かったように思います。

上記3ブロックをゴチャゴチャと結線しており、その色取り取りのコードがジャングルのようでした。そのカオス状態は写真に撮っておくべきでした。

THE WAVESの中心となるのは冒頭の「波濤」であり、これはミックスで見舞われたテープがお釈迦になってしまうという大トラブルを超えて完成させたものです。駄目になったところを切って(!)、生き残ったところを挿入トラックによって何とかつなげたという(笑)とんでもない作品となります。よってFLAT122が現在このように演奏するのは大変難しいということになります。音楽マニア達はまずこの「波濤」によってこちらの世界に入り込み、そして奇天烈で明快な「Neo Classic Dance」によって暗から明へと一気に運ばれるように考えております。Neo Classic Danceは彼の難波さんに「譜面を見せて!」と言われた複雑極まりない難曲でこれは26歳作曲のテーマパートを、結成時2002年秋頃から数年かけて構築した内容となります。このテーマはハチャトリアン剣の舞のパロディで、こうした軽く明るい発想は今こそ必要という気がします。また本作で最もキャラの立った作品は平田君の「目眩」で間違いないでしょう。タイトルは僕が命名しました。あまりに難しく目眩がする!というのがその由来。空腹時に聴くと本当にクラクラするという話をお客さんから聴いたことがあります。作品は僕と平田君のどちらかが書いておりますが、このFLAT122の最たる特長は、二人の作曲家が常に火花を散らしている、、と言うことです。互いの作品に対するハッキリとした意見、提案、そして実験の繰り返しは、再生と破壊を繰り返して殆どがゴミ箱行きという勿体ない結果を招いており、残った僅かな燃えカスみたいなところで勝負していたようなところがあります。この「FLAT122・音楽への向い方」は僕の起点であり終点になるものです。

烏頭・針が振り切れている!

スピード感溢れる音。音楽マニア達のイチオシか?

烏頭(うず)はライブに来ていたお客様から教えられたバンドで「聴いてみるもよし!対バンまたよし!」ということでした。
それから半年後の夏、四ッ谷のライブハウスでご一緒させていただき音楽を聴くこととなりました。
その衝撃は、今も鮮明ですが、同時に本サイトでも紹介しております「る*しろう」との近似性もまた感じたものでした。
バンドの編成がピアノ、ギター、ドラムというベースレスで同じ構成であるところが大きいのですが、音楽の造作に似たところがあるのです。
その有機質なところは、自分の音楽がどちらかという定規で引っ張ったように幾何学的な音楽を行うのとは対象的で、何と言うか割り切れていないところをひとつのカタマリに捩じ込むようなリズムに特長があります。それは独特な「音の畝裏」となって表出しているようでした。これは「る*しろう」にも存在する特長ですが、自分には無いものであり、真似をしようにも出来ないセンスです。
しかし、似て非なるところも散見されるところが面白いところです。
この2つのユニットを土俵にのせてみると、違う部位がキレイにあぶり出しとなるのが不思議に絵柄として見えるようです。
烏頭はどこかに民族音楽的なイメージが見え隠れし、それが重く湿った感じを受けるのですが、る*しろうは音がもっと乾いています。また烏頭は他音楽の影響が見えない、もしくは咀嚼し吸収したフィルターの性能を感じる。平たく言えば独自性がとても強いと。その辺りでファンを分けるところがあるかも知れない。
僕は、ライブでこっそり録ったipodで半年ほど烏頭を聴いておりましたが、今思えば、よくぞ半年もあのオーバーロードした割れまくった音に耐えて聴き続けたものです。そういうところで言えば、本作は何と音がキレイなのでしょう(笑)つまりライブでの音と本アルバムの音にはかなりの乖離があり(勿論、個人的なところで)、そこがむしろ興味深い。ライブを行う必然性、それでいてアルバムの存在、その区分けがこれだけ成されているのは、おそらく僕のipodが理由なのですが、それでもそこにこのバンドの七変化的な才能が隠れているような気がします。
「とにかく針が振り切れている感じ!」
僕の烏頭に対する素直なイメージです。

最近ミニアルバムがリリースされ、ずっと洗練されたジャケ(このデザインはとても秀逸です。)で登場しておりますが、僕は本作の作品でしばらくは楽しめそうです。対バンを3回ほど経験しておりますので、耳に馴染んでいる作品も数曲あります。ヴォイス参加の作品など、凄いキャラの曲だな!と改めて感心します。旋律がとても魅力的なラインを描いており、もしかすると中東、トルコ伝統音楽からの影響?と思ったりするけれど、うーん、、、よくわからない。
音を掴み取りに行くスピード、強さは尋常ではなく、どういうイメージが在ってこういう事態になっているのか知りたいという気持ちです。

ひとつにピアノの大和田さんのフォームに秘密がありそうですが、あれだけデカイ音を出すピアノというのも聴いた記憶がない。否、、単にデカイ音のピアノというのでもなく、音の中にピアノ線が入り込んでいるようなサウンドと言えばイイのか?
昨今、国際的に活躍する女性アスリートに男達は腰が引けているが、音楽界でも同じ事象が生じているのである。
ジャンルとしてはプログレに入れられてしまう危険性?がありそうですが、あまりバイアスをかけないで、素直に聴くべきだろうな、、と思います。
ある程度の柔らかな脳の持ち主であれば、この新しい音に乗って旅するのは、さほど難しくはないでしょう。決して難解であるとか、敷居が高く面倒、という音楽ではないです。普通に聴いて自分なりにイメージを膨らませて楽しめばOKと。猛毒なので、中毒になると抜け出せなくなりますが、別段健康を害するわけでもなし!是非、その鋭利な棘と格闘していただきたいと思います。
*本作の音データを佐山氏(烏頭・Dr)から受取りこの駄文の参考とさせていただきました。多謝!御礼を申し上げます。

対バンはよく考えてから?「る*しろう/8.8」

まずもって同じ土俵には上がりたくない!

幾度が対バンをさせていただいたことがありますが、まあこのバンドを一蹴出来るバンドなんて居るのだろうか?
客としてライブを聴かせていただいたのはもう随分昔になる。このアルバムがリリースされる前ということだから。
確か高円寺のペンギンハウスというライブハウスです。先頃、マスターが引退されましたね。
このバンドの屋台骨は何と言ってもピアノの金沢さんの音楽世界に尽きるわけですが、ライブとなりますと菅沼さんのドラムの凄さが来るわけでして、偶然にも同じ編成でありましたFLAT122(という名前すらまだ付けていなかった新人でしたが。)など、足の爪先までも行っていない、遠過ぎるレベルの差。当時まだ3歳だった息子と嫁と聴きに行きましたが、帰り道は呆然として足が地に付かない感じ(笑)。嫁に「凄かったね!あんた大丈夫?」とか言われて「うーん、、、ちょっと、、。」と言うのが精一杯でした。当時、僕は10年近くバンドから遠のいておりました。しかし、急にバンドをやらなければならない!とフラフラと立ち上がったところで、出会ったのが昔フュージョンバンドを一緒にやったことのあるHでした。この「る*しろう」は彼に教えられました。同じ編成のユニットであれば、聴いた方が良い、、ということしたが、それは当然でしょう。しかし、そのショックがあまりにひどかった。これが本当の浦島太郎状態であり、しばらくは軟弱かつ出来の悪い脳が布団を被ったような格好でおりました。が、何とかユニットのヒントを得たのは、その年秋、トッパンホールで聴いた小玉桃さんピアノのメシアンでした。作品は「幼子20の眼差し」という超名曲ですが、僕はこの作品というかメシアンが間違いなく自分のバンド(音楽)においての要素というのかイメージとして必要ではないか?と考えたのです。その辺から次第に自分なりのベースレスギタートリオの形が見えて来た気がしております。この「る*しろう」も同じくベースレストリオとなります。ベースというのは実は音楽において最も重要かつ根幹を成すパートと言っても過言ではないでしょう。エレクトリックベースでも、オケのコントラバスであっても、その種類に関係なく。そのベースの存在がないというのは、大きなリスクを背負う事と引き換えに現代的なアプローチが行いやすくなるという利点があります。ベースの代わりは自ずからギターかピアノの左が受け持つわけですが、これは個人的見解ながらギターで低域を持たせるのであれば、これは最初からベースが在った方が良い、、ということになります。ギターにベースの代役をさせるのは僕は駄目ですね。サウンド的にも考え方としても。低域は(技術的には大変ではありますが)ピアノがガツガツと弾き倒すのがベースレストリオの定義でありましょう。ということで、本作も痛快なほどのピアノのゴリゴリとしたカッコいいフレーズが炸裂しており、これだけのギター、タイコに全く負けずにがっぷり四つ!!まるで走馬灯の様に蘇る大相撲「北の湖vs輪島」の全勝対決のような様相でしょう。

僕は本作の冒頭 "ソレイユ"(奇天烈ですがお洒落で素敵な作品です。)は勿論、全ての作品が耳に馴染み深く、まるでビートルズのアルバムのように身体に入っております。それくらい、その作品性というものに共感を持つものです。クラシック古典から近現代の影響は流石に濃いのですが、しかし、それだけではない得体の知れない有機質な才知を感じます。
この名盤8.8以降「る*しろう」は有り余る才能を制御出来ないかのように様々な実験と破壊を繰り返して行きますが、僕みたいな「る*しろう原理主義者」にとっては本作が最も耳辺りがよく、楽しんで聴けます。どの作品も面白く凄い。こんな音楽がもっと知られる存在であったら、、との願いもあってコレを書いているところがあります。余談ながら金沢さんは僕の後輩にあたりますが、その力の差は歴然!!音大時、サボってボーリングばかりやっていた僕ですから、勝負になるわけがない。こういうバンド、ピアニストが居ると知っていたら、どれだけ慌てて練習したか(笑)残念ではあります。

日本人キーボーディストが肝・NERVE

ジョジョはキ●チガイだ!」(勿論褒め言葉)
 
小見出しは僕の長い相方ドラマーT君のジョジョ・メーヤーに対する言葉だ。同業者からこのように評される場面が実際多いことだろうと思う。さて本題まいります。
ジョジョ・メーヤー「知っているよ!」というのは一般の音楽ファンよりも圧倒的にドラマーが多いことと思う。
それだけ、そのテクニックが専門的であり、飛び抜けているのである。

専用シューズを履くことでヒール&トゥを足技でマシン顔負けのハイハッとワークをこなす。(ジョジョは峠を攻めても速いと思う。勿論車は"86"で、、笑)ドラムンベース、人間ディレイ、とてつもなく細かいビート回しだが、そのサウンドはタイトかつ乾いた独特なもので知っているドラマーの中では最も好きなドラマーかも知れない。
2歳からドラムを始めたということだが、しっかりとジャズの世界を通っているところが演奏にある種の重さを与えている理由か。
ジョジョの特長はその演奏内容そのものにあるけれど、それだけではない。一人のドラマーでは終わらない音楽家としての資質もまた他に例をみない特長がある。この人力ドラムマシンを知ったのはYoutubeだったけれど、これは見た(聴いた)方も少なくないと思いますが、楽器フェアーで演奏している動画です。
ジョジョ・メーヤーは、ソナーと(現在も変ってなければ)エンドースメント契約を結んでいる。その関係から、フェアーの一角で演奏を披露したというところ。ベースとのデュオだが、やっている作品は、適当な即興などではなく、間違いなくナーブの曲から、そしてナーブのセンスで演奏している。ドラムは明らかに収録されたものより暴れており、遊びが多いが、それはメーカイメージや会場の雰囲気を意識したところも感じられる。
本作は彼の音楽としては、随分耳辺りがイイように思う。時に「ひょっとしてジョン・ボーナムがお好き?」と感じることもあるくらいだから。ただ、様々な場面で繰り返し聴くことを想定すると、こういうアプローチは正解とも言える。作り手からすると大袈裟で壮大な作品というのは案外つくりやすい。しかし、耳に優しく、軽妙で、それでいて聴く側の心に世界を差し出す音楽は実力がないと難しくなる。
耳に刺さらない、しかし圧倒される。そういう音楽の方向性はある意味、理想郷とも言えるだろうか。
ナーブは確かにジョジョのバンドだが、他メンバーが大きなポイントとなる部分がある。このバンドは基本トリオで、ギターのいないキーボードトリオであるが、だからと言ってELPを想像されてはちと困る(笑)このシンセのアプローチは先端を行っている。ベーシストが追込みした音もかなり飛んだもので、ジョジョと織り成すリズムをより特異性の強い内容としている。サウンドはアナログモデリングタイプのシンセの音だが、ノイズののった音色であっても隠し味的な使い方ではなくガッツリと前に出して来る。かすったように聴くと、リズム中心でドラムのバックをシンセ+ベースがやっているような印象を受ける。しかし数回聴くとこの音楽には骨太なテーマ性があることが分かる。こんな時、音楽は第一印象というのも大切だが「繰り返し聴いてこそ!」と思う。
作品において「繰り返すこと、反復すること」は演奏する側・聴く側も共通して大切な音楽要素になるということでしょうか。
本アルバムに反応する音楽マニアの殆どがジョジョ・メーヤーの名前がそのキッカケとなりますが、実はこの音楽を受止めるか否か?その鍵を握っているのは、日本人キーボーディスト・中村卓也のセンスとなります。作品は粒ぞろいでどれを聴いても納得させられますが、個人的には「Dr Jones」「Ghosts Of Tomorrow」「Hafiz」辺りに気持ちが行きます。

僕はこの中村さんの音使い、ハーモニー、描くラインはとても映画的であり素直に「良いではないですか!」と◎(二重丸)です。演奏されるフレーズ、音色、変化は陰影に富んでいて電気的サウンドの固定観念を霧散させるような力強さが感じられる。アナログシンセの"ビリビリとしたレゾナンス"が強過ぎるところが少し引っかかるが、これも若い世代にはアピールする要素かも。このアルバムを聴くと音楽アプローチを考えさせられる。そういうところは、とても不思議なのだけれど本サイトで何度か紹介しているPhewの音楽と似たところがある。
このバンドの今後が興味深い。しばらくはこのスタイルで対応するだろう。しかし、サウンドの灰汁が強過ぎるところが「仇」となり"変化"もまた必要になるかも知れない。本作を末永く聴いてもらうためにも、新しい方向を示す次回作を待ちたい。ナーブにはそれが出来るし、是非ここに停滞せず新味をプラスして欲しいと思います。

Phew/1st・サウンドの奉仕力が凄い傑作。

これが1stとは!!勉強不足を恥じる宣伝部長。

おーい、ライブが2回あるのだろうが。準備しなさいよ、、と心の声がする。しかし、これを書かねばその先がない感じ。
本作、改めて申し上げますとPhew(名義では)1stアルバムとなります。その前にアーント・サリー、あの一部では有名なジャケのアルバムもありますが、まあこれは後追いで書くことがあるでしょうかね。
それにしてもこの音世界は改めて聴くと昔聴いた印象より更に濃度を増して、それでいて聴きやすい。まあ、こちらだって指をくわえて数十年生きて来たわけではないのであり(と言いつつ、指を銜えていただけのような気もするが)音楽の若干の底上げにより、聴力もようやく人並みになって来たのである。ここ数年のPhewの特にライブでのパフォーマンスはどこか切なく、背中に電流がビィーッッッッと伝う感じがあるのですが、この若い頃は逆に醒めた感じがする。年を重ねて熱を帯びて来ているのだろうか?「枯れた味わい」とか「いぶし銀のような」という形容に真っ向から背を向けるような、凛とした佇まいだと思う。こういう人が真にカッコいいのだと僕は思う。突き放した感じのヴォーカルと言えばイイのだろうか、ジャストな位置から微妙な弧を描いて上昇する摩訶不思議な音程を発する声は、この頃より既に確立されており、黎明期のアルバムだからそこのところを割り引かないといけない、、などという国産にありがちな甘い見方は無意味ということになる。今現在の音楽と勘違いして聴いていただいてOK。
それはPhew自身によるところも勿論あるが、サウンドを形成しているカンのセンスによるところも大きい。このセンスは残念ながら日本ではあまり耳にすることの出来ない色調である。例えば、冒頭の作品「CLOSED」のベースのアプローチ。Phewの音楽において最も特長的なのはベースの存在である。所謂ごく普通のベースの在り方というのが見当たらない。長い尺でのベース不在、相当な違和感がある。おそらく、この辺で針を上げてしまう根性の無い(失礼)音楽ファンも居るかも知れない。しかし、ここは我慢しよう。すると、ベコッ、、ボコッ、、!と何だかミックカーン(ニューウェーブの旗手"ジャパン"(しかし、しっかり英国のバンドである。)の名ベーシスト)が風邪でもひいたのか、どうも調子が上がらない感じ(笑)、ヤケに間を空けたベースが地味な装いで出現する。
これが良いのである。何度も聴いてみるとイイ、癖になるから。
そして、Phewヴォイス。例の上ずった、天才的にズレた音程が重なると、もはや聴き手は音楽道の岐路に立たされていることを知る。左右に分かれる道。片方は「即座に針上げ!!Phewという得体の知れない音楽家など知らなかったことにする」そしてもう片方は向こうにトンネルが見えて、どうもそこを歩いて潜らないといけないような具合である(笑)それは「これからPhewの音にドップリと漬かりコールタールの海に浮き輪無しで飛び込む」(イメージとして)を意味する。真ん中の道というのは残念ながらない。気に入らないと思っても何だかうっかり聴いてしまう、、という場合、それはアナタ、、ほぼコールタール派の集合体に入っているのである。私が入り口にモギリ係として立っておりますから、どうぞ笑顔で入場してください。

例えば後半に出て来る普通ならどこにでもある8ビート、、Phewの他アルバムでも取り入れている単純なビートであるが、だからこそセンスの違いが浮彫りとなる。アーント・サリーの8ビートなんかもヘタウマですが(どちらかというと下手な部類か、、笑)僕は好んでおります。上手いということが「イコール魅力的」ということにはなりませんので。
いうなれば中途半端がよろしくないかも知れない。下手なら下手で堂々としていれば聴く方も意外に納得するものなのである。それを、そこそこ上手というのは気持ち悪い。いっそ練習など止めて思い切り下手になるか、地獄のような練習で雲の上に出るか、そこはハッキリした方がイイ。またまた問題発言ですね、、失礼しました!

そして、本作と「A New World」というリリースのタイミングとしては"端っこ同士の作品"が個人的に最も好む作品となります。サウンドもまた両極端と言えるでしょう。この2枚は座右の盤として我が成増山スタジオには常設、持出し厳禁というわけです。本作はアナログの良さが全面に出ております。シーケンサー(手弾かもしれない)で鳴らされるモコモコとしたシンセベースもありますが、リズムの振幅は広く、サウンドとして太く温かな印象を受けます。ところがその上に位置する音楽自体は陰鬱で冷たく、虚飾を排した赤裸々なPhewの世界が重なっている。その強いコントラストこそが本作の特長でありましょう。
人の目を通し、その絵柄が一旦心に焼き付けられる。脳内フィルターを通し、その絵柄は異形となって外界へと戻って来る。何故かそういうことを考えてしまう。
1stアルバムには理由は知らないが傑作が多い。ELPも、カルメンマキ&OZも、そしてレッドツェッペリンもなかなか渋い。Phew入門?だったら本作を薦めます。「宣伝部長特別推薦盤」(何が特別なのかは知らないが)というわけです。