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ピアニスト・タカの脱線CD評

東京プログレシーンを代表するFLAT122のピアニスト・作曲家のマニアな世界

東京を代表するプログレユニットFLAT1-22のピアニスト・川崎隆男が力筆?するCD評です。


グールド/ベートーベン・ピアノソナタ「8番.14番.23番」

クラシック(古典-ロマン派)

以前アップした記事を白紙から書き直しました。

もう少し聴いてから書くべきだっただろう、という判断からです。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」・第14番「月光」・第23番「熱情」

このタイトル。

クラシックファンには何とも耳タコなイメージが浮かぶことでしょう。

その収録された累積では群を抜くカップリングです。

人気のベートーベンであっても「もういいよ!」という人もおられるに違いない。

天国のマエストロも苦笑いでありましょう。

しかし、このグレン.グールドのベートーベンは、随分と趣が違うようです。

ホロヴィッツの月光なども笑ってしまう箇所がありますが、グールドの演奏は大枠でのテンポ設定からして特異なところがあります。

23番「熱情」は、珍しくニュートラルなアプローチですが、それでも音の出し方、粒建ちに魅力があり、それは不思議なほどです。

グールドが弾くバッハ、モーツァルト、そしてこのベートーベンの作品は、大袈裟に言ってしまえば、恰もグールドの作品のようです。

それにしても、8番「悲愴」、14番「月光」のスピードには呆れます。これならクラシックアレルギーの方でも飽きずに最後まで行けるかも知れない。特に8番「悲愴」は分かりやすくベートーベンのピアノ曲の中でも単純に旋律の部分だけ取り出すと、最もキレイな音が鳴っていると個人的見解ながら感じます。この超速テンポであっても、その作品の良いところを明確に抽出、尚かつ自分のキャラをしっかり出しているところが凄い。

14番の3楽章はこのアルバムの中でも、特に難しくメカニカルな力量を必要とする内容となります。

それをスピード違反(おそらく一発免停でしょう!)と言って良いほどのテンポで弾き倒します。

正直言えば、ここまで速いテンポにする必然性が何処にあったのだろうか?と思うわけですが、ここで思い出したのはモーツァルトソナタです。あのアルバムも最初聴いた時(レコードで聴いていたのですが)回転を間違えたのかとプレーヤーを覗き込んだ記憶があります。その時と全く同じような印象を受けました。であるなら、聴く回数を重ねる毎に癖になって行く可能性はありです。

グールドは作品に関係なく、自分の立ち位置が変らない。

クラシックのピアニストというと作曲家に敬意を払い、その作品の解釈に努める。また自分が作曲者と聴き手を結ぶ、ある意味翻訳家・もしくはガイドみたいな役割であると考えるアーティストも少なくない。

しかし、グールドはそうした考えとは(おそらく)一線を画しているのではないだろうか。グールド自身も作曲家であることから、他のピアニストよりも広範囲な要素において自分の裁量において音楽を押出しているように聴こえる。

クラシック音楽の世界に於いて作曲家の意図を汲まないやり方には大変厳しいのは、僕も身を以て経験している。僕の反則技は、ベートーベンのソナタテンポ.ルヴァートで演奏したことだったが、こういうふざけたアプローチには直ぐさま「鉄槌」がくだされる(笑)

しかしグールドのピアノテクニックは、そうした偉い先生方の本道を行くお考え(それもまた大切なのだけれど)を一蹴してしまう何か超えたところがある。

よって、先生達にグールドのことを聞くと何か歯切れが悪く「困ったなぁ」と言った風情だったことを記憶している。

それはもしかすると音楽ファンにとっても一緒ではないだろうか。

クラシックファンにも、こうした異端に対して寛大で柔軟な姿勢をとる人、頑迷で否定的な人、中には「グールドだけは手放し」という人もいるはずだ。そしてそれは自分の感性がそう言っているのであって、無理に曲げることもなさそうだ。大切なのは、人の持つ方向性に理解があって、寛大であることだと思う。世の中、正しいことがいくつも存在する場合がある。自分だけが正しい、あの人の言っていることだけが正しい、というのは狭量な考え方だ。

グールドのピアノ演奏はそうした人の心を写す鏡のようでもある。

もし聴いたことのない場合は、どうぞお試しあれ。

あなたの心にグールドのピアノはどのようなさざ波を立てるのでありましょうか?

〈成増山の自宅にて 睡魔と戦いながら執筆 PM11:15〉

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