ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

ヤコブ・ブロ/Gefion「踏み絵」のような?〈加筆・修正〉

まず最初に〈加筆・修正〉とお断りを入れたのは、数回聴いているうちにこの作品に対する自分の感じかたが大きく変わって来たからです。こういうタイプの音楽は少し時間をかけて余裕を持って接したいものです。

ECMと言えばこんなジャケット、というお約束のデザインですが、素敵ではあります。内容としっかり合っているか?と言えば、合っているような違うような、、気もしますが、とりあえずこのジャケットデザインも手に入れた理由のひとつですね。

今もって、ジャケ買いありの自分です(笑)

ECMってのはこういうイメージ構築が一環しており、それは上質で透明感のあるところで歩みは一定なのです。ここまでハッキリとした打出が出来るのは簡単そうで実は大変難しいことだと思います。そしてまたそれを可能にしているのは、音楽制作に於ける殆どの要素がマフレードアイヒャーという一個人に帰結するところがあるからです。

このアルバムもまた実にECMそのものです。それはECMのもしかするとアキレス腱なのかも知れません。良い意味でも、あまりそうではない意味でも。ECMからリリースされた作品を聴くと、そのアーティストと同時にECMというイメージが既に横たわっているところがあるから。サウンド、ジャケット、そしてアーティスト。下手をすると、そのアーティストを聴いているというよりはECMを聴いているという気がしてしまうと。

そういうことで僕は、このレーベルの音楽を年中聴いているわけではないのです。意外な程時間の空きが大きい。でもそれはそれで良いのでしょう。たまに「そうだ!ECMの音楽が聴きたい」と気が付いて、アーティストや作品を探してみる。それもまた囁かな楽しみというわけです。

 

さて本編にまいりましょうか。ヤコブ・ブロはデンマークのギタリストです。楽器編成はギター、ウッドベース、ドラムというギタートリオです。因にベースは Thomas Morgan、ドラムはECMでは中心的な存在でもある Jon Christensen という布陣です。

まず全体像。聴いた後の生まれた言葉としては「浮遊感」でしょうか。強い音で押し倒すようなところは殆どなく、浪々と、先を急ぐことなく音楽を進行させる。こういう音楽の押出し方には、とても合う楽器構成だと思います。ギターという楽器がそういう浮遊感を押出すのに適しているところがあり、例えばビル・フリゼールなども同じ方向の音造りだと思います。

僕みたいなせっかちで落ち着かないのとは正反対の音楽でもあり、聴いていて何だか妬ましいような、「ずるいよ!それ!!」と言いたくなるような(笑)脱力した演奏内容です。

これを今日、2回それぞれ通して聴いた。1回目はお昼を食べに成増駅近くに歩いて行った時。2回目は夕暮時ウォーキングのBGMとして。

そして、これは聴く度にその音楽の味わい深さ、イメージ表現の素晴らしさが身に染みてくる作品であることが分かるのである。

ベース、ドラムのアプローチは、このサウンドに徹頭徹尾奉仕する。

けたたましいテクニックや、音数勝負の表層的な音楽とは一線を隔てるタイプの気高い音楽だと思う。

ヨーロッパではこうした音楽を普通に聴かれるし、人気を集める。というかこういう音楽を好む人達がしっかりと根付いている。

聴き手を驚かすような仕掛けがあってもこの音楽は揺るがないだろうという気がする。が、しかしこの音楽が求めているのは、おそらく心理の共有みたいなものだろうと思う。対象となる空気感、寂寥感、温度感、湿度感、吹く風の表情、それを感じ心に沸き上がる言葉には出来ないとても微妙な動き、それを共有する。

もちろん、それは共有であって、共通の認識ということではない。イメージはあくまでも個人の心の旅から生まれるものであって演奏家の伝えるベクトルから方向や形を変えることを自由なものとするのは当然である。

音楽家が聴き手にこのように聴いて欲しいと考えるのは自由だが、しかし聴き手もまたその感じ方と楽しみ方は同じく自由なのだ。そこに各々が持つフィルターが介在して音楽の方向は最初直線だったものからあらゆる曲線へと変容していく。その音楽家と聴き手側の断層というのか、イメージの変換とでも言うのか、それこそが演奏音楽の醍醐味というものだと僕は思う。

フリーミュージックにもありがちがだが、もう少しシンプルで輪郭のハッキリしたラインが欲しいというところはある。そして、その後ろ側でベースやドラムがこうしたアプローチをすれば、サウンドにコントラストが生まれより立体性を生むのではないか?と個人的見解ながら思う。

ただ、それは実に受動的な聴き方とも言える。より耳を澄まし想像を膨らませつつ接してみるとか、もしくは先ほどの散歩に帯同させるとこの音楽は途端に生命力を増す。そして何時も見慣れている風景の違ったところ気が付いたり、歩いているという感覚がいつもとは違う半分夢の中に入り込んだような気分になったりする。僕もそういう「作用のある音楽」を目指して久しいが、言葉で言うのは簡単であり随分と難しいものだ。

こういった音楽を構えないで、なにか環境音楽のように部屋に流しておく、という飄々とした聴かれ方でも良いと思うが、実はこの音楽、例えて言うなら北の大地に根をはる巨木のような強さを感じる。

「自分はこう言う音楽が好き、他人は関係ない。」

出る杭は打たれてしまうどこかの国とは明らかに違う国。そういう文化といったら大袈裟だが、そういう世界から発信された音楽という気がする。

この音楽を聴いて何だか、ポヨ〜ンと音が浮かんでいるだけでつまらない!「一体何コレ?」で、針を上げてしまう人も少なくないかも知れない。つまり「その聴き手がどういう音楽を求めているのか」という"踏み絵"みたいなところは確かにある。

もちろん、一聴して昔のキンチョーの宣伝(大滝秀治さんの)のように「つまらん!」で終わってしまうのが悪いとは思わない。実際、ある角度から眺めたら、それもまた正しい。

しかし、そこを少しだけ我慢して2回目を行って欲しい。そこにはハッキリとしたテーマがあり、虚飾を排した静謐で他ではなかなか聴けない音楽が在るのだから。

それにしてもだ。ギターという楽器があらためて良いサウンドを造るものだと感心のである。

そして、この作品は「なるほど自分がギターに縁がないわけだ!」と言うことをやんわりと教えてくれる。自分がギターという楽器に望んでいたことには大きなズレがあったという残念な事実。やれやれである(笑)