ピアニスト・タカの脱線CD評

FLAT122キーボードとして活躍・ピアニスト・タカ音楽評

ジャズの可能性・メセニーGP/OFFRAMP

演奏がイメージと結合している。

このアルバムを聴いたのは、貸レコード屋さんが乱立していた頃で、まだ練馬の江古田に居た時分であるから、随分前のことになる。
当時持っていたオンキョーのアンプと中古で見つけて来たマイクロのプレーヤー、そしてこれまた近所の少々胡散臭いアウトレットに転がっていたスピーカ「YAMAHA・N10」が自分の誇る?セットでありました。このアルバムはレコードで聴きたいソースの数枚に入る。パットメセニーGPのリリースしたアルバムはベーシストの変った分岐点により分けられると思う。マークイーガンがエレクトリックベースを弾いていた前期、それをウッドのスティーブ・ロドビーとした後期と。比較してどちらが良いとか、好みであるとか、僕としては珍しくそういった判断はない。どちらにも良いところがあって、気分で選んで聴く形だ。ただ、このグループの全体を通して本作が最も好きなアルバムであることは確か。ここまでイメージの統一された作品はジャズ・フュージョンでも珍しいと思うし、その独特な暗さ、重さはどうだろう。パットメセニーのアプローチは流石だが、特筆すべきはライル・メイズによるサウンド構築、この人ならでは繊細かつ独特なリズムセンスのピアノ、使用していたシンセはオーバーハイムだったと思うが、昨今のシンセとは一線を画す太く温かく広さを感じさせる音。これ無くして本作品の成立はなかっただろう。
後年ライル・メイズは音楽雑誌でこのバンドで演奏して行くことに付いて、随分と愚痴っていたが(笑)それでも、こうして記録された音楽は紛れもなく素晴らしいものだ。鍵盤奏者がギタリストと共に長い期間共にするのは、やってみた者でなければ分からない辛さがある。それはまたギタリストからしても同じことが言えるのだろうと思う。僕も私事ながら、7年程ギタリストと共に作業したことがあるが、ギターとピアノというのは、そもそも相性が良いわけではない。サウンドがぶつかりやすく、混濁しやすいのである。よって本作のピアノとシンセサイザーの使い分け、バランスには慎重であり、試行錯誤が在ったことは想像に難くない。
しかし、本作が多くの音楽ファンに支持を得たのは、こうした裏側の作業が云々ということはあまり関係がないと思う。
作品力に尽きるのである。
つまり同業者のライル・メイズには同情を禁じ得ないが、パットメセニーが仕事をした!!ということに尽きるかな?と。

僕はジャズに対して兼ねてより誤解していたところがあり、、それは以下のような内容だった。
ジャズが作品というよりも演奏内容、そのメカニズムを楽しむという側面。「それの何処が悪いのか?」とも同時に思うのだけれど、おそらく自分の作曲家としての部分が否定的な見方をするのだろうと推察される。
しかし、この1年間、現在活動しているピアノトリオの影響から無意識にジャズに近づいて行ったわけだけれど、このジャンルは一括りは出来ない。多様性があってジャズ自体が試行錯誤している途中に在るのだと思う。
簡単に言ってしまえば、アルバム2枚を比較して「コレとコレ、、どちらもジャズなの?」ということが往々にして多いのである。でも、それはジャズの持つ大らかで自由な最良のポイントだと思う。
その多様性ということで、出現する方向性のひとつ「ECM」。
本作もまたこのレーベルからリリースされている。このジャズレーベルの作品群は、全てではないにしろ、その多くが情景描写に主眼を置いているように聴こえる。そして、本アルバムの更なる要素として、その情景に触れている人間の心理、心の移ろいが感じられる。そこが素晴らしいと思う。
単に「何かキレイな曲だな、、!」と言うのではなくて、その先に何か隠れている素敵なことが在る。深く聴いて行くと、その世界が自分の心に投影される気がして来る。レコードに針を落として、ボリュームを大き目にする。まずドコ、ドコッとまるでピンクフロイドの狂気のようなアプローチで一定のリズムから想像も出来なかった広大な世界が展開され、やがてゆっくりとフェイドアウトしていく。
そして、ボリュームを大き目にしたからこそ分かる、次の"タッタン"というダン・ゴッドリーブ(dr)のフィルイン。控え目ながら気合いの入った導入で名曲が奏でられて行く。そこから最後まで一気にこのアルバムと共に旅を続けるのである。音が終わり自分に帰った時の虚脱感、絵でも写真でも圧倒されることにおいては同じなのだな、、と感じ入ります。本アルバムはCDで所有しておりますが、レコードで聴きたくなります。しかし、またオーディオ道に足を踏み入れるのは我が家の財務省が許可が必要です。道は険しいのであります(笑)