ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

フィリップ・グラス/グラスワークス

先生はミニマルとは呼ばれたくないらしい!

フィリップ・グラスアメリカ合衆国の作曲家です。現代音楽・ミニマルミュージックを代表する作家と言って良いと思います。ご本人はミニマルと呼ばれるのを好まないらしいけれど、仕方がないでしょうね。スティーブ・ライヒ、ティリー・ライリーと並んでミニマルの代名詞ですから。
さて、遅いタイミングとなりましたが「ミニマルミュージック」を取り上げたいと思います。ミニマルという言葉で本サイトを検索すると、おそらく「ウニタミニマ」が出て来ると思う。この本文にて若干触れておりますので。しかしこの男女デュオとミニマルはあまり関係はない。そういう匂いはするものの、あちらは「超絶テクニカル人力ポップス」とも言うべき国産音楽では希な存在なのであります。

ミニマルミュージックを自分なりに形容させていただきますと、、シンプルかつ禁欲的な小さなブロックを延々とリピートさせ、その楽器の出し入れや、若干の音楽的変化によって進行、構築させるものであろうと個人的に解釈しておりますが、まあそう遠くない形容と思います。
その変化が微小であり、絞り込まれたテーマを繰り返すのが特長で、これを「気持ちイイ〜♬」と変態のメーターが振り切れるか、、、もしくは「何コレ?つまらん!」と途中で針を上げるかは、おそらくは即行で決着が付くタイプの音楽と考えられます。一般的には「現代音楽」に類すると言わることが多いのですが、それを認めないという頑迷な主張もあります。CM音楽にはその要素が多く散見され、ミニマルを知らなくても無意識のうちに耳に入っていることになります。またミニマル自体が、環境音楽的なところがあって、BGMとしてもOKなところがポイントでしょうか。勿論、単なる癒し系のBGMとは一線を隔てております。その効果は絶大ですから、お部屋に何となく流しておく音であっても「人は違うセンスを演出したいという」小難しい音楽オタクにはドンピシャな存在と言えます。

僕はフィリップ・グラス坂本龍一さんのラジオDJで教えられましたが、確かに最初は「随分風変わりな音楽だな!!」と少々驚きました。しかし否定的なところはなく世の中には実に面白い音楽が転がっているものだと感心したものです。その後、自分の音楽に取り入れる要素としては「変拍子の割り方」と共に(笑)最も身近なものとなったわけです。あれから数十年経過してもミニマルの影響はどこかに残しております。さて本作は1982年の作品でグラスとしてはかなり初期となります。このアルバムは評価が分かれており、それは決着することなく先々続いて行くことと思われます。本作を聴かないでもっと後発の作品から聴けば、もっと早いタイミングでグラスの良さを発見出来たのにと臍を噛む音楽ファンも少ないです。
しかし、それほど大袈裟に捉えなくても、と少々呆れてしまいます。
むしろ、このアルバムはミニマルの登竜門として気軽に聴くのが良いように思います。また、長い時を経て、聴きなおしてもそのフレーズひとつひとつに有機質な美しさが練り込まれており、これぞイメージ表現の規範とすべき内容と結論付けております。特に冒頭のピアノのみで演奏される作品と最後に演奏される作品は、楽器構成を変えて異なる絵柄を表しているようで、僕の最も好きなM3に配置された「アイランド」を柱として、キレイな(それこそ硝子のような)対象形を成しているように思えます。本作の作品としての力は、様々な聴かれ方を許容するその大らかさと、音を磨き抜いて、虚飾を排し結果残った音を拾い上げてシンプルに奏でたところあります。

久しぶりで耳にした本作ですが、凛とした姿は色褪せることなく、新しいも古いもなく「時間を超越したところに佇む音楽」と感動を新たにしました。
また、冒頭から音楽に入り込んで行くと不思議に自分が「鳥」になって空から街を見下ろしているような気分になりました。このゆったりと旋回する動きは鷲や鷹のような大きな鳥です。こういうイメージの作用がある音楽は聴く側によって、また同じ人間であってもその環境によって異なって来ます。グラスワークスを聴いても鳥どころか、何も感じない人もいるはずであり、それこそが音楽の面白いところ、興味深い謎です。グラスのファンでさえ本作を駄作と言い切るのですから、やれやれ!です。しかし、皆が皆僕と同じように鳥になってしまうのは少し不気味です。(諸星大二郎の漫画のようでもあり、、笑)趣向というのは脈絡なく規則性がない状態が健全だと僕は思います。
様々な聴かれ方をされてこそ音楽家も本望でありましょう。