ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

児玉桃「鏡の谷」トッパンホールで聴いた記憶が、、。

宇宙人ピアニスト(褒め言葉)の本領はメシアンで発揮される!

2005年秋。その前年12月の成人病検診で派手に引っかかり、尿管結石の検査と大腸内視鏡検査をほぼ同時に行って一応命が繋がって(大袈裟!)スッキリしたタイミング。そういうことも関係していたのか、児玉桃さんのコンサートのショックは特別なものでした。当時、メシアンの「幼子二十の眼差し」を生で聴けるというのは僕にとって、ちょっとしたお祭りみたいなもの。そもそも現代音楽においてはハッキリとメシアンが好き!!という自分にとって、作品から言っても、ピアニストから言っても、迷わずアプローチしなければならない、プログラムでした。実際、その演奏を聴いて半年程はボーッとしていたものです。何が凄いのか、分からないがとにかく凄いものを聴いたことは確か、みたいな感じでしょうか。当時、バンド活動を再開しており自分の作品に対するコンプレックス、どのような内容に盛り込んでいくのか?というあまりに素人な悩みを、この演奏は前向きなものに変えてくれたと思っています。バンドはベースレスギタートリオ(ドラム・ピアノ・ギター)でしたが、このバンドを全く歯の立たない同じ編成のユニットとどのように対峙させるか?という難題に、このメシアンの作品の中に回答があったように感じたわけです。しかし、その結果として生まれた僕のオリジナルはその反映がどこにも感じられない、実に稚拙な駄作でした。その後何度も何度も手を加えて、修正して、切り取って、また付け足して、この作品をライブで聴き手の耳に委ねてみるまでは持って行きました。それでも今もってその作品は完成には程遠いレベルです。メシアンはどのように作品を完成させて行くのでしょうか?幾ら何でも見切り発車して、迷惑ピアニストとして名を馳せる僕とは対極に在るに違いない。しかし本作(ようやく評に入った、、笑)の「ニワムシクイ」を聴くと、これをモーツァルトのように一筆書でさらさらと作曲したとは到底考えられない。しかしまた、蛇行して「筆が遅い」という感じのイメージでもない。僕は「鳥のカタログ」、そして作品の規模から別バージョンとして存在している本アルバム収録「ニワムシクイ」も一時、かなり突っ込んで聴いた記憶があります。でも、敢えて児玉桃さんという痩身長身で宇宙人のような(何度も言うけれど美しい!という意味です。バルタン星人や三面怪人ダダ、を想像しないように、、笑)手にかかると、そしてそれをECMという今最も聴くことの多いレーベルの録音となると、躊躇の多い僕としては珍しくマッハのスピードで手に入れてみました。このアルバムの特長は、他にラヴェル「鏡」武満徹の「雨の素描」が収録されております。ありそうで、実はなかなか見かけない?という作品構成ですが、自然な感じ。キレイに流れるECMらしいプロデュースです。このレーベルの例に漏れず透明感のある見通しの良いサウンドで、何時でも何処でも聴いて気持ちが良く、聴き疲れしないところが本作の美点です。
全体を聴くと、やはりと言うべきか、圧倒的にメシアンの演奏が際立っています。これまで近現代になると演奏家のキャラが薄まって、作品力が全体を覆ってしまう印象がどうしても否めなかった。しかし、このニワムシクイを聴くと「メシアンは児玉桃さんで」という想いが強まります。このようにハーモニーとリズムが魅力的に描き出される弾き様は耳にしたことがない。おそらくメシアンはこのピアニストの手の内にある!ということなのでしょう。作品の深い理解は演奏家にとって最も大切なところです。"しょぼい理解"では、作曲家が伝えたい魅力を引き出すことが出来ない。その点、このメシアンは究極的なものと思います。
一方ラヴェル武満徹は、メシアンまでは行っていない感じ。決して悪くはないのですが。これだけ弾けるピアニストでコレですから。クラシック音楽から近現代音楽を演奏するソリストの抱える難しいところを垣間みます。特にラヴェルとなると、例えばイリーナ・メジューエワのように、驚くべき間の取り方、新しい解釈により、聴き手を圧倒するピアニストがようやく現れました。これまで数多くの名ピアニストがおりましたが、彼女はどう見ても多くのピアニストが重ねて来た既成の演奏とは違う異質なところがあります。それは古典派、ロマン派、近現代という枠は関係ありません。ピアニストとしてのアプローチに起点があるというのか。児玉桃さんもベートーベンからリストまで弾かれることと思います。まだまだ若手ですので、これからメシアン以外の作品であっても児玉桃さんの演奏と聴いて分かるようなキャラを確立して欲しいと思います。容姿・テクニックは十分、きっと近い将来、手が届くことでしょう。