ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

児玉桃「鏡の谷」トッパンホールで聴いた記憶が、、。

宇宙人ピアニスト(褒め言葉)の本領はメシアンで発揮される!

2005年秋。その前年12月の成人病検診で派手に引っかかり、尿管結石の検査と大腸内視鏡検査をほぼ同時に行って一応命が繋がって(大袈裟!)スッキリしたタイミング。そういうことも関係していたのか、児玉桃さんのコンサートのショックは特別なものでした。当時、メシアンの「幼子二十の眼差し」を生で聴けるというのは僕にとって、ちょっとしたお祭りみたいなもの。そもそも現代音楽においてはハッキリとメシアンが好き!!という自分にとって、作品から言っても、ピアニストから言っても、迷わずアプローチしなければならない、プログラムでした。実際、その演奏を聴いて半年程はボーッとしていたものです。何が凄いのか、分からないがとにかく凄いものを聴いたことは確か、みたいな感じでしょうか。当時、バンド活動を再開しており自分の作品に対するコンプレックス、どのような内容に盛り込んでいくのか?というあまりに素人な悩みを、この演奏は前向きなものに変えてくれたと思っています。バンドはベースレスギタートリオ(ドラム・ピアノ・ギター)でしたが、このバンドを全く歯の立たない同じ編成のユニットとどのように対峙させるか?という難題に、このメシアンの作品の中に回答があったように感じたわけです。しかし、その結果として生まれた僕のオリジナルはその反映がどこにも感じられない、実に稚拙な駄作でした。その後何度も何度も手を加えて、修正して、切り取って、また付け足して、この作品をライブで聴き手の耳に委ねてみるまでは持って行きました。それでも今もってその作品は完成には程遠いレベルです。メシアンはどのように作品を完成させて行くのでしょうか?幾ら何でも見切り発車して、迷惑ピアニストとして名を馳せる僕とは対極に在るに違いない。しかし本作(ようやく評に入った、、笑)の「ニワムシクイ」を聴くと、これをモーツァルトのように一筆書でさらさらと作曲したとは到底考えられない。しかしまた、蛇行して「筆が遅い」という感じのイメージでもない。僕は「鳥のカタログ」、そして作品の規模から別バージョンとして存在している本アルバム収録「ニワムシクイ」も一時、かなり突っ込んで聴いた記憶があります。でも、敢えて児玉桃さんという痩身長身で宇宙人のような(何度も言うけれど美しい!という意味です。バルタン星人や三面怪人ダダ、を想像しないように、、笑)手にかかると、そしてそれをECMという今最も聴くことの多いレーベルの録音となると、躊躇の多い僕としては珍しくマッハのスピードで手に入れてみました。このアルバムの特長は、他にラヴェル「鏡」武満徹の「雨の素描」が収録されております。ありそうで、実はなかなか見かけない?という作品構成ですが、自然な感じ。キレイに流れるECMらしいプロデュースです。このレーベルの例に漏れず透明感のある見通しの良いサウンドで、何時でも何処でも聴いて気持ちが良く、聴き疲れしないところが本作の美点です。
全体を聴くと、やはりと言うべきか、圧倒的にメシアンの演奏が際立っています。これまで近現代になると演奏家のキャラが薄まって、作品力が全体を覆ってしまう印象がどうしても否めなかった。しかし、このニワムシクイを聴くと「メシアンは児玉桃さんで」という想いが強まります。このようにハーモニーとリズムが魅力的に描き出される弾き様は耳にしたことがない。おそらくメシアンはこのピアニストの手の内にある!ということなのでしょう。作品の深い理解は演奏家にとって最も大切なところです。"しょぼい理解"では、作曲家が伝えたい魅力を引き出すことが出来ない。その点、このメシアンは究極的なものと思います。
一方ラヴェル武満徹は、メシアンまでは行っていない感じ。決して悪くはないのですが。これだけ弾けるピアニストでコレですから。クラシック音楽から近現代音楽を演奏するソリストの抱える難しいところを垣間みます。特にラヴェルとなると、例えばイリーナ・メジューエワのように、驚くべき間の取り方、新しい解釈により、聴き手を圧倒するピアニストがようやく現れました。これまで数多くの名ピアニストがおりましたが、彼女はどう見ても多くのピアニストが重ねて来た既成の演奏とは違う異質なところがあります。それは古典派、ロマン派、近現代という枠は関係ありません。ピアニストとしてのアプローチに起点があるというのか。児玉桃さんもベートーベンからリストまで弾かれることと思います。まだまだ若手ですので、これからメシアン以外の作品であっても児玉桃さんの演奏と聴いて分かるようなキャラを確立して欲しいと思います。容姿・テクニックは十分、きっと近い将来、手が届くことでしょう。

変拍子の湿布薬/PHRONESIS・WE ARE ALl

このアルバムで誰もが演奏力の重要性を再確認させられる?

ザッパからマッツ&モルガンと変拍子に狂って、その後飽和してしまった人々。もはや変拍子が4拍子に聴こえてしまい、どうにもつまらない。この変拍子欠乏症はなかなか特効薬がない。しかし、ご安心ください!ペタンと付ける気持ちのイイ湿布薬がリリース?されました。今回のCD評は珍しくピアノトリオを取り上げます。実は、この半年ほど、脳裏に燻る音楽の大半はこのバンドに埋められておりました。その前はベン・モンダーだったし、更にその前はヤコブ・ブロという、つまり二人ともギタリスト。自分の中心にあるべきピアノからは離れたところで聴き手としてのスタンスは進んでいたわけです。ピアノは聴かないではなかったけれど、泥沼のように入れ込むというものではなく、例えばピアノトリオの潮流の中心辺りに位置し未だ人気の高いESTであっても、その中の数曲に限られるものでした。流石に本業のピアノとなると自分の気難しさ、理想の幅の狭さを知るのですね。そんなところに重く硬度の高い巨石がドーンと投げつけられたのがコレです。
僕の小さな湖はそれ以来、このPHRONESISの畝裏が続いている。ピアノトリオでここまで虜になったのは自分の音楽人生においてあまり記憶が無い!と断言出来る世界が展開されています。
その特長は何しろ変拍子を中心とする凄まじいリズムの嵐、というところでしょうか。ピアノトリオというコンパクトな音楽構成を感じさせないスケールの大きさ、また変則的なリズムを採用しながらも、音楽は絶えず陰影に富み、強いイメージを聴き手に届けます。それは、豪速球で直球勝負、音数の多さは類を見ない正に音符単価の高い(某・和プログレユニット・バイオリンさんの名言を拝借すれば)演奏が繰り広げられています。一応CD評なのでチクリと一言あげるとすれば、このあまりに圧倒的な演奏がお疲れの身体にはキツイかな?という場合もありで、本アルバムにも1曲、レギュラーな4拍子か3拍子の平坦な作品を入れたら完璧だったように思う。それにより、他の作品も際立ち、またその平坦な作品も逆に存在感を増したのではないかと思うのです。そこはやはり若い彼らの勢いというところなのでしょう。ぶっきらぼうに、やりたい事だけを押し通して「はいオシマイ!!」とこの贅肉を削ぎ落とした6作品であっさりと幕を閉じるのです。この6曲は自分にとって程よい音楽容量であり、会社帰りにウォーキング兼ねて一駅前から歩き始めると住まいの成増山(山でもないのに勝手に命名)が見え始める頃には気持ちの良い身体の暖まり方と共に6曲目が鳴っていることになります。三人共にキャラの立った演奏家ですが、聴いて行くとWbのジャズパー・ホイビーがこのバンドのリーダーであり中心人物であることが何となく理解出来ます。ベースのバランスが他のピアノトリオよりずっと大きい。また、エッジが利き方が独特で、その灰汁の強さから好き嫌いは出て来そうな気もしますが、個人的には何を弾いているのか分からないWbソロが多い中にあって際立つ存在であり、迷わず支持したいと思います。ライブのMCでも意外に多弁で明るいです。こうした技術指向なユニットにありがちな、根クラなタイプではないようです。ピアノは驚くべきテクニックです。このピアノの演奏力、展開していく世界は、これまでのジャズ・フュージョンの鍵盤の殆どを過去に追いやるような恐るべき素養を感じさせます。クラシック音楽一般から現代音楽、そしてジャズを自分の前に等しく並べて、適所に異なる技術を用いて弾き切る姿は憧れすら憶えます。これは間違いなくクラシックピアニストとしても通用したレベルでしょう。また、クラシック音楽をさらい切っている印象を受けます。その下地においてジャズを新機軸の理論体形において収めて、自分のイメージ表現において扱うというのは、昨今の「嫌になるほど弾けてしまう若手鍵盤奏者」の潮流とも言えるものですが、しかし、このアイヴォ・ニームは番外、群を抜いている。ドラムも他二人と変りません。楽器が異なるだけで、その音楽へのスタンスは深いところで共鳴しているように思えます。若干ドラムのサウンドが埃っぽい、屈(くぐ)もったところがあるように聴こえるのですが、これは、ピアノやベースを描き出すために行き着いたチューニングなのでしょうか?何しろ、この演奏もまた新型のタイコであり、昨年、一昨年に聴いていたドラマーと言えば、例えばジョジョ・メイヤーとか、ヴァージル・ドナティー、そして直近でジョーイ・バロン、ブライアン・ブレイドでしたが、それは別なキャラでしょ。「コレはコレ、ソレはソレ」と言えるものの、ドラマーは作品においてアプローチし真価を発揮する楽器というところから"PHRONESISドラマー"はその存在を他と比較出来ないポイントに佇んでいるように思います。ライブにおいてはこのドラマー、アントン・イーガーの存在が圧倒的であり、皆様お気づきのように、そのバンドが如何に客を押し倒すのか?はドラマーにかかっているわけです。ライブの出来はドラマーが鍵を握っていると言い切っても良い。その点、このピアノトリオはドラマーに恵まれており、またドラマーも変則的ながらも極地的に美しい音楽にアプローチするという幸運に巡り会ったわけですね。僕も現在ピアノトリオをやっておりますが、この本作を聴くと彼らがともて身近に感じますし、それだけにとてつもない高く分厚い壁に見えます。そして自分達の立ち位置ということも考えさせられます。保証付(何の?保証期間は?、笑)き必聴!!です。

コレって映画音楽なのか?ー平沢進/パプリカ

平沢進に眼を向けるキッカケとなった凄い作品力!

僕の㊙音楽図書館であるM田さんからこれをお借りしたのはもう大分前のことになる。2年前くらいかな。今敏監督作品である「パプリカ」。併行して映画の「東京ゴッドファーザーズ」を借りたので、本作パプリカの映画と映画音楽をゴチャゴチャにしていた時期があります。やれやれ、今は勿論整理が付いておりますけれど。さて「パプリカ」の音楽は平沢進が担当しております。(因に"東京ゴッドファーザーズ"は鈴木慶一

では、何故に今頃になって、本作を引っ張り出したのか?
ひとつの理由として、今も時折聴いてしまう、その計り知れない魔力の存在。ふたつめは、先日お借りした「童夢」のイメージCD(童夢は映画化されておらず、そのイメージを土台にしたファン向けの音楽)を聴いたことによります。
童夢」はアニメファンなら説明不要の名作ということであり、アキラの前身にあたる、しかししてアキラにはない仄暗い魅力が感じられる力作と言えましょうか。この童夢をイメージ化した音楽というのなら、俄然興味は沸いて来るのであります。そして本日iPodに流すべくCDをカートリッジに入れて試聴をスタートと。。数分後、僕は針を上げておりました。これは駄目ですね。アレルギーを起こしたのは冒頭で入って来る打込みのリズムの音・フレーズからです。気が付くと聴く力はもう殆ど残っていない(笑)、しかし、そこはそれ。せっかくM田さんが別部署から送ってくれた"ブツ"ですから、1曲づつどんなものか?くらいは聴いて行きましたが、やはりスタート時の印象は覆らなかった。スクエアのキーボード奏者・和泉氏の音が聴ける!と喜んでいるコメントを見たりしたが、、うーん、、作曲においてコードプログレッションが稚拙なのが最も気になるところです。イメージと同化する音はサウンドに滅茶苦茶に凝るか、恐ろしくシンプルにするか、、そして現代音楽にも比肩し得る音使いを駆使するか、という鋭いアプローチ、思索が必要と思うのですが。大伴のアシスタントであった今の絵柄がどこやら似ているのは当然といえばそうなります。が、しかしその"くっ付いている音楽"となると話は別です。こちら「パプリカ」は何故に聴き続けるのか?映画音楽、たとえそれが絵のバックに置かれる音楽であっても相撲で言う「輪島と貴ノ花の大一番」(年齢がバレます、笑)のように、がっぷり四つでなければならない。BGMだからとか、音楽が邪魔しないように等というのは"いけない考え方"であり、それは本業の音楽と何ら変らない作品力が必要なのだと思う。その点、このパプリカはどうだろう? 劇場(映画館)のシーン、わけの分からない化け物達の行列が炸裂するわけだが、その時の音楽の切れ具合といったら、、。これは音楽だけを取り出しても確かに面白く、バンドでカバーするか、と考えたこともあるくらい。しかしコレは紛れもなく「映画音楽」なのだ。なぜって映画とシンクロした時のスケール感は尋常ではないから。音楽に力があるだけに、絵を押出す「圧」へと転化されて、とてつもないインパクトを生むことになる。本アルバムは普通に音楽アルバムとして聴けるものなのです。そして「こういうセンスっていいよね」となる。しかも、その後に映画でこの音楽の重なりを確認するとイイ。凄い仕事っぷりだなぁ!!!と感心して終いには呆れてしまう。音楽だけを聴く→映画で確認する→音楽だけを聴く→映画で再度確認する、このようにリピートすると何かがあぶり出されて見えて来る気がする。平沢進Pモデルの頃から知っている。でもセンスを認めても何か音を詰め込み過ぎてゴチャゴチャした印象(おそらく、もう少し聴くべきだったか、と反省はしてます。)で、どうしても音楽家としての動向は「坂本龍一」の方に注目が行っていたわけですが、この作品を聴くと、あっさり掌を返して、もっと評価されて欲しいと思うのであります。音楽の内容としては、初めての耳には音数過多でゴチャゴチャと聴こえるかも知れません。しかし、その練られた音の万華鏡に最後は押し倒されます。第一に旋律のラインに他にはない魅力が感じられます。また、音楽のタイプも色彩に富み平沢進の守備範囲が如何に広いものかが伺い知れます。映画、音楽共に保証付?オススメです!! 《本評は大幅に(笑)2回目の加筆修正しております。2019.06.12》

音の"渦"「烏頭」TRIALOGUE


爆音系?違うでしょう!一線隔てている、、。

先頃、僕のバンドと対バン(共演)したばかりです。
久しぶりに聴いた"生・烏頭"ですが1、2年前より格段に音が整理され「研ぎ澄まされた」印象を受けました。
本作はライブで演奏された作品と、部分紐づく内容となります。が、収録は更に音がタイトで聴きやすい内容になっています。
この音楽が聴きやすい(耳当たりが良い)、、というのはバンド音楽にとって大切な要素となります。「合奏」の例として、アメリカを代表するオーケストラのひとつ「クリーヴランド管弦楽団」は恰もバイオリニスト一人が演奏しているかのような音である、、と評されます。それを、まるでレントゲンで音を見ているようだ!と否定的に捉える頑迷なクラシックファンも少なくないのですが、ジョージ・セルが黎明期より鍛え上げた、合奏する力がこうした透明感を生んでいると言えそうです。
烏頭をリハ時、僕は上記内容を思い浮かべておりました。リズムが整うと、その分キレイに隙間が空くことになります。それは、1次元のバーコード"白黒の世界"にも似て、音楽を明快なものに仕上げます(因にQRコードは2次元、本評の表現には使えない)。このユニットほどの轟音、壁にも感じさせる音数の多い世界であっても、しっかりと隙間の存在があります。

本アルバムはミニアルバムとなります。3作品の構成となりますが、それでもなかなかの充実ぶり、聴き応えがあります。また、改めてピアノ・大和田さんの作品力と、信じられないほどのピアノの出音に羽交い締めにされてしまいました。聴き手の殆どは、まずこのピアノの信じられない音に「やられる!」のだと思います。このバンドはアルバムが気に入ったのなら、ライブに行くべきです。ライブの烏頭は、何と言うのか一種恍惚とした世界が展開されます。信じられないほどの音数の隙間から、強烈なイメージの光が瞬いているような気がします。これを単に爆音系とは言わないでいただきたい。素直に聴けば、その旋律とハーモニー、演奏キャラに押し倒されるしかない、ということになります。
そういう音楽に徹底的に押し倒されたいという、ド"M"な人間にはピッタリでしょう。収録の3曲は、どれかが突出している、、というのはなく、、結局「3曲」が突出していると。近似しているバンドとしては、かつて僕が周囲に存在するバンドの中、最も尊敬した「る*しろう」があげられます。(但し、僕が好きな「る*しろう」は1stアルバムの頃に偏るわけですが。)違いは、烏頭の方が、重く暗い質感で、民族音楽のようなセンスが感じられる。また音の組み立てに、既存のモードやコードプログレッションを基軸とした僕のようなタイプとは異なり、もっとピュアな深いところから、研鑽と音への思索への積み重ねから表出したラインに(個人的には)感じられる。ライブでは僕の再生させたばかりのFLAT1-22など簡単に捻られてしまいました。しかし、烏頭というバンドがこの世に在って良かったな、、とヤケに感心しつつ何時もの有楽町線で小雨の中、成増山へと帰宅の途についたというわけです。《この評は加筆修正しております:2019.04.07》

君は"ウルトラQ"を知っているか?

懐かしいというよりはしっかり現在進行形!

アルバムのタイトルはウルトラQ総音楽集」作曲:宮内國一郎、ということになります。
以前一度このサイトに登場しました会社の同僚モリタさんからまたまたマニアな音楽が届きました。と言ってももう1年近くも放っておいて「聴かなければ!」という焦りの気持ちのまま、暇がなく気力もなく、そのままにしておりました。時が悲しく経過していくという辛い日々を送っておりました。しかし、調度バンドのライブが終わった翌日の日曜日、とうとうCDカートリッジに皿を投入したというわけです。我が社の音楽図書館と言っても良いモリタ氏のセレクトはマニアの中でも特に度数が高く、これまでも私のiPodを散々っぱら荒らしてまいりました(笑)その中では高橋幸宏率いる「ピューパ」の二枚はなかなかのヒット作でしたが。さてこの、やはり来たか!?と言うべきウルトラQ総音楽集という、まあ何ともCD2枚組1枚に100トラック入っていたりする溜息ものです。実は1曲が短いものが殆どで、例を挙げますとペギラ登場のジングルなど5秒という、まるでジョンケージもビックリの短曲も入っております。勿論、名作は例のテーマですが、通して聴いて行きますと、これが妙に聴きやすいわけです。家人にそれを伝えると「お前がおかしいのだ。ウルトラQ・100曲も聴いて、環境音楽みたいに聴くなど、変っっっ!!」とバカにしたように笑うのみである。

特長というと、そこここにSEとして入るテルミンのような(テルミンなのかしら?)ヒューゥゥゥゥゥンンという気味の悪い音、これが全体を特長付けている気もしますが、ラウンジで聴くような酒臭いBGMが入っていたり、3分以上もオカリナだけで演奏されるタイトルもまさに「オカリナ」等はもはや笑うしかなく、おそらくこれを聴く私の表情は気持ち悪く緩みっぱなしだったと想像される。あちらこちらに聴かれる新鮮なサウンド。ダサイが魅力的なエレキのフレーズと音、そしてスプリングリバーブが嬉しかったのかピッキングベースにかけまくる"ぴょんぴょんサウンド"は、実に魅力的。まるで昨今のDAWを嘲笑うかのような万華鏡具合で、これだけの大作ですが、すんなりと腹に収まります。
基本的にはビッグバンドジャズですが、そこはそれ怪獣番組に合わせるために、あれこれとSEを混ぜ込むというところが楽しい。普遍的なポップナンバーであっても木琴(マリンバ?)を多用し、少し捻りの利いた愛らしさを演出しております。ウルトラセブンの辺りまでのウルトラシリーズに共通する管楽器が活躍するのは、やはり個人的には好感を持つところです。変に電子音楽を使わず(というかそういう楽器が一般的ではなかったからだが)人力で吹き鳴らす楽器は、人間パワーが感じられて、そこが怪獣達のイメージとしっかり接続しているのだ。怪獣作品もCGに頼るようになってからは、リアリティを失った。ウルトラQペギラガラモンは今、視ても「ひょっとしたら、こういうのがどこかに潜んでいるかも、、」と感じさせるスケール感、立体感が在る。音楽も似たようなところがあるか。制作をするためのツールは進化した。しかしして、本作のような作品力はそうしたツールがない時代に産み落とされたものだ。不便であることがオリジナルを育てたのだ。あれれ、、何時の間にか熱くなって過激な口調?になってしまいました。

一柳慧「ピアノ作品集」凄過ぎるかも知れない

イメージ表現の手本。聴いて良し、流して良し。

久しぶりの脱線評です。90日も書かなかったので広告が勝手に出てしまう。それはあまり好きな状況ではないな、、と思っていた矢先、調度お気に入りのアルバムが出現しました。さて、、。
一柳慧は、若い頃から折に触れて耳にする作曲家ではある。一度、ライブで高橋悠治、ジェフスキー、そしてこの一柳慧の作曲家三人の自作自演を聴いたことがあるが、今思えば何と凄いものを目の当たりにしたのか、、と反芻するわけです。ジェフスキーは「不屈の民」を弾いた。高橋悠治は当時サンプリングに凝っていたらしくRoland社のS50を持って来てサウンドコラージュ的な今ひとつ訳の分からない音楽を展開した。そして、一柳は地味な風情でごく普通に自作をピアノで弾いた。そこから一柳音楽を事ある毎に気にするようになったと。つまり三人の中で最も共感したのがこの作曲家だったということになります。しかし、最近は意識の中から遠のいて存在が朧げになっておりました。何がきっかけと言えば「Youtube」です。別なアーティストから偶発的に辿り着いたのですが、これはYoutubeの功罪とも言えるポイントでしょう。このツールは、このように時折記憶の外側に在った作品を連れて来る。「今回の悪戯はなかなかのものだ!」ってところです。褒めてあげたい。
一柳は間違いなく日本を代表する作曲家と言っていいと思う。それは、伊福部昭から黛敏郎武満徹高橋悠治等のキラ星のように瞬く僕の中での"巨星達の輪"の中にしっかり置かれている。その割には何か社会的な認知度では今ひとつな感じがしないでもない。何故だろうか?作風が時代によって変化し、今ひとつこの作曲家の中心線が見えない、、もしくは本人がそういった自分の方向性というよりは、作品主義に重心を置いており、音楽家としての自分のキャラや、社会においての自分の立ち位置に意外に無頓着なところがあるから、、などと勝手に推測してしまう。例えば、武満徹を評して、親友の作曲家・湯浅譲二は「とても戦略的な男だった」と言っている。僕も、武満徹は自分の作品に対しての客観にとても深い思索があり、自分が表現したことに対して聴き手はどのような反応を返して来るのか、そこから紐付けて社会に対してどのように発信するのか?を深く意識した作曲家だったように思う。殆どの音楽家はもっと音楽本意であり、大変主観的な立場をとる。武満徹は身体もあまり丈夫ではなかったし、若い時分音楽をやっていく環境は決して恵まれてはいなかった。コンテストでの成績も芳しくなかったことから自分の作品に対する厳しい姿勢を生涯変えることなく、表現技術を磨き、社会に対峙し音で生き抜く術を学んだのだと思う。一柳はそれからしたら恵まれた才能と、音楽界からの認知も早かった。ジュリアードにも留学し、ジョンケージに触発された時期もあるが、その作品は初期の頃より完成していると思う。というかむしろ僕は本作のような小さな作品、初期から中期のものに魅力を感じる。ピアノソロのアルバムというと、個人的にはなかなか手を出さないのは自分の恥ずかしいところです。バッハの平均率、ベートーベンのソナタから、バルトークラヴェルメシアンリゲティと来て、本作が来た感じでしょうか。随分と間が抜け落ちておりますが(笑)この作品でとっかかりとして知ったのは「タイムシーケンス」ですが、何とも驚きました。ピアノテクニックにおいて音楽を聴くのではない!くらい肝に命じておりますが、それにしてもこれだけのテクニックで演奏される作品、それを作曲したのが驚きです。これは作曲者が弾けることが仕切り線としてあるわけで、どう転んでも、武満徹シューベルトがこんな作品には行き着かない(笑)また逆に言えば、このようなテクニックを使用しなくても表現に足る様々なテクニックが在り、それこそが作品の個性を形成するわけです。それでも、、、この作品は多くの聴き手が触れた方がイイと僕は思う。タイムシーケンスと比較すれば2曲目に配置された「インターコンチェルト」の方が、音楽が柔らかく圧倒されない分、こちらが入り込みやすい。聴いて行くと、昔、池袋西武の最上階に西武美術館があり(良き時代でした!!!)そこに併設されていたアールヴィバンでは、確かにこのようなピアノ曲が流れておりました。実際、一柳の作品だったかも知れない。暑い真夏エアコンもない江古田のアパートからサンダル履きのまま電車でここに来て、よく涼んでいたものです。そういった自分の二十歳そこそこの生活を思い出させるある種の環境音楽でもあります。この当時の音楽の造作は、リゲティバルトークとの近似性を強く感じさせます。しかし、リゲティの例えば「」(ピアノエチュードに収められている作品)のような感性とは違う。徹底して無機質で幾何学模様のデザインを思わせる印象がある。そのどこか無機質なところがキャラのポイント。苦手な聴き手はこの部分に違和感を憶えるのかも知れない。それにしてもショックなのはこのピアノ作品集全体が僕が目指しているイメージ表現に大変近いということです。しかも彼は大昔に、あっさりとゴールしている、、というショックが拭えない。このアルバムに出会ったことは、バンドへの提供している作品内容に間違いなく影響するでしょう。今、バンドにはマリンバ奏者がおります。何と素晴らしいタイミングかと思います。

フランシス・レイ・悲し過ぎる旅立ち

作曲に対するワクワクとした気持ちを、、、。

教えてくれた大切な存在です。
中学生の僕が、どんなに時間をかけてコピーしたことか、、、!!!

フランシス・レイ
先日、お亡くなりになりました。
勤務先のお昼、お弁当を食べながら何時ものデジタルニュースをボンヤリ見ていると箸が止まってしまいました。
お昼後の仕事がどうにも悲しく、即行で帰宅したい気持ちでした。
さて、気を取り直しまして、、。
フランシス・レイの特長は、(これはとても個人的な感じ方だと思います。)アコーディオン奏者出身というところが、作品の至るところで溢れている印象を受けます。「白い恋人達」然り「雨の訪問者」然りと。
僕がフランシス・レイを初めて聴いたのは小学校6年生の頃。叔母の誕生プレゼントLPがキッカケです。残念ながら、今は廃盤ですが、検索するとジャケ画像を確認することは出来る。
一昨日、数十年ぶりにそのジャケを目にして時間の経過に驚くばかりでした。フランシス・レイを国内において一躍有名にしたのはおそらく「ある愛の詩」でしょうけれど、僕が彼の作品で好むのは当然の如く「白い恋人達」です。僅差で「個人教授」でしょうかね。勿論「ある愛の詩」の旋律は素晴らしい。僕も高校時代はピアノアレンジして、ガールフレンド関係では戦力になったものです(笑)、まあ、それはそれとして「白い恋人達」です。この某有名お菓子のようなネームはともかく、その何とも美しいのは、冒頭イントロから主題にかけての流れとなります。不安げで、不安定なハーモニーから、あの有名過ぎるテーマに移行する世界が、僕には到底真似出来ない芸風であります。どうして、こんな洒落た音楽を作り出せるのだろう?と不思議なほどです。この冒頭のシーンで殆どの聴き手は彼の世界に持って行かれるに違いない。
動画でこの音楽の寄り添ったところをみると、その魅力は倍加する。仏人って、旅番組とかで見ると、市場のオヤジでも赤いセーターなんか着こなしてお洒落なんですよね。街行く市民が皆、自分なりにお洒落なんだなぁ。そういうお国柄を感じさせる音楽でもあると思う。
例えば、宿敵とも言えるイタリア映画のニーノ・ロータやエンニォ・モリコーネとは明らかに旋律の持つ重さというのか、明度というのか、湿度感かな?違います。
イタリアは信心深くまた母性愛が強い国です。そういうところも関係あるのだろうか。この音楽の違いは興味深い。
コード進行は変に捻ることは少なく、自然な感じがします。ただ、その上にのるラインが言葉に出来ない程の世界を称えているわけです。
旋律こそ、作曲の原点であり、帰結するところであろう!!と声高らかに言われている感じがします。
本アルバムは、音楽ファンがよく気にする(僕も同感ですが)他オケのアレンジ版ではありません。サントラからの抽出されたものを集めたものですね。フランシス・レイの場合、好きな作品が程よく入っていること、、そしてサントラ版を聴きたいわけです。それがなかなか見たらない。
ボックスものとなると値が張るだけに、このアルバムは良心的かも知れません。
是非、この機会にこの仏・巨匠の世界に誘われてください。きっと良い旅に出られると思います。

今、一番好きなギタリスト・Ben Monder

音使いを聴くと無意識に頷いてしまう。

また「Ben Monderかよ?」と叱られそうである。今年自分の聴いたベストはヤコブ・ブロトリオの一連の作品と決めつけていた。おそらくあの狂ったような猛暑を迎える直前までは。しかし、このアメリカの高速アルベジョを特長とするギタリストは、まるでその昔レコード大賞を急速なぶっちぎりでもぎ取った「ちあきなおみ喝采」の如く、ECMの売れっ子ギタリストを涼し気に抜き去ったのである。勿論、それは僕の心の中の世界であり、それが逆の音楽ファンもいらっしゃるだろうし、またこの辺りのギター作品に感心を持たないジャズファンも多いことだろう。確かに、この音楽はジャズという頑で、ある集合体においては形骸化している(そこが良いというのも分からないではないけれど。)場所からは意外なほど遠い位置に佇む音楽だと思う。前回、このサイトで評を書かせていただいたポール・モチアンのドラムが光る名盤「Amorphae」も例外ではなかったが、Ben Monderの音楽はジャズの括りだけでは少し苦しい。プログレみたいなところもあるし、サウンド自体がとても重い役割を果たしているところがあると思う。その点では、ヤコブ・ブロなんかも共通しているけれど。
ただ、僕が驚くのは本作「Excavation」のその音の構築、ハーモニーの内容である。それは、例えばバークリーで高次元な理論に基づくテクニックを収めたとしても、とても行き着けないような、ある種の異次元を感じさせる。大切なのは、その彼の使う音楽の言葉達が、しっかりとイメージ表現に結びついていること。
繊細極まりないライン、構成は、実に美しく微妙なものだ。これを聴くと、現代音楽の寵児と呼ばれた「リゲティ」を思い起こす。
この偉大な作曲家(という言い方をリゲティは好まないだろうけれど、、笑)のピアノエチュードに「虹」という信じられないほど素敵な作品が在る。読者の皆様には是非、機会があったら聴いて欲しいのだけれど、その世界と本作の音楽にどこか共通した部分があり、それがとても興味深い。

本アルバムの特長は、ヴォイスのテオ・ブレックマンが参加していることだ。ジャズ・フュージョンの世界において、ヴォイスをゲスト参加させることは決して珍しくない。チック・コリアパット・メセニー然りと。アレンジの方向性としては、やはり同じギタリストと言うこともあるのか、メセニーグループと近似するところがあるように思う。しかし何度か聴くうちに、その表現したいイメージというか、空気感とでもいうのか、かなり違っていることが分かって来る。パット・メセニーの音楽が明らかにポップで分かりやすく万人受けする方向だろうけれど、本作は陰影に富み美しさではこちらに軍配が上がる。Ben Monderは、他ギタリストの誰とも違う。ギタリスト達の技術指向、テクスチャーの形成は、皆共通したところがあるように思うけれど。おそらく、ずっと作曲指向なのであり、調度長きクラシックの歴史において、飛び抜けて異質な存在であるバルトークみたないところがあるようにも感じる。
自分の表現したい世界に対して、どういった音を使うのか、どのようなサウンドを考えるのか、、という音楽要素に対して、極めてストイックに追求する姿勢が垣間見える。前回の評ではどちらかというとサウンド主体に、本作では音そのものの使い回しによって、というように思考のベクトルは変化するが、その根底に横たわるのは飽くなき表現への渇望なのだろうと想像される。その、凛とした佇まいに心打たれる。音楽が産業化し、聴き手も演奏家も一様に横並びで"大量消費主義"へ媚びていることへのデカイ一石とでも言うのか。聴いて、不思議なほど心が浄化される気がします。

スマラ・ラティ「ガムラン変貌」/就寝前はNG?

踊り抜き、純粋に音楽としてガムランを聴いてみると、、!

8月中旬、家族旅行で訪れたバリ島。25年ぶりのバリ島は空港付近の様変わりから始まって、その変貌ぶりに驚いたのですが、滞在2日のウブドまで行ってみるとバリの良いところが残っているように思いました。数年前に訪れたペナンもそうですが、観光地の近代化は以前持っていた長閑な雰囲気、街のイメージを大きく変えてしまいます。ただ、バリ島には私にとって最後の砦があります。

ガムランです!

ガムランは大小の打楽器を組み合わせた合奏団と踊り手の混合芸術です。バリ島に限らずジャワ地方、またタイにも似た様式のものがあります。しかし、その内容の激しさ、技術的なところではバリガムランガムランの代名詞になっているところがあると思います。バリ以外のものは何かノンビリと間延びした印象受ける筆者なのです。さて、ウブド観光の夜に聴いた(見た)のがスマラ・ラティのパフォーマンス。本作を聴くとあの感動の夜が蘇るわけですが、ひとつ大きくことなるところがあります。
それは踊り手の存在です。
踊り手はそれはそれで唯一無二の美しい動作が魅力です。また合奏団との関係性も見過ごせない要素で、このスマラ・ラティの超絶技巧と踊り手のシンクロ具合の凄さは是非ご覧になっていただきたい!と切に思うものです。とは言うものの、自分として音楽だけを取り出して聴いてみたいという気もします。帰国して即行で手に入れた本CDは録音も素晴らしく、この現代的なガムランを楽しむ音楽ファンにとって十分な内容を持っていると思います。ひとつだけ引っかかるところをあるとすれば、本作が少し古い収録となるところです。スマラ・ラティは常に深化し新しいことに貪欲な集団です。2002年にアメリカの作曲家、エヴァンジボリが自作を彼らのために捧げましたが、実際にバリを訪れてレクチャーしたという話が伝わっております。その後の一連の変貌が音として分かるアルバムが欲しい。今現在、その作品の演奏内容は円熟の極地に達しており、もはや曲をなぞっている段階を遥かに超えて彼らの音として伝わって来る。
さて、本作に話を戻しましょう。
改めて冷静に聴いてみると、あの例の金属的なサウンドには個人差による微妙なズレを生じており、ウブドで聴いた時のようなイメージとは異なることが分かります。しかし、コレこそが人間の行う音楽なのであり、シーケンサーガムランを奏でさせることは可能でしょうけれど、それは音楽としては全く違うものとなり意味を成さないと思います。ブレイクからの入り方、無音から一気に畳み掛ける音の洪水、このダイナミクス。そして各打楽器で超高速で奏でられる(打ち出される)フレーズは上記で述べたように微妙な人間的ズレによって、何とも言えないカオスな音響を生み出していくことになります。
ここでスマラ・ラティに付いて簡単にご説明しますと、この楽壇は1989年にバリ南部のアーティストにより結成されております。(インドネシア国立芸術大学の卒業生を中心とする、、という説明もあります。)
結成の中心となったのは踊り手の中心となるアナッ・アグン・アノム・プトラ(以下アノムさん)さんで、この方の踊りはウブドで実際に見ることが出来ましたが、その両目を中心とする独特な表情と手足の動きが素晴らしいもので、音楽内容と共に他のガムランと一線隔てている部分と思われます。その動きと表情を唖然として見ていると、まるで何かがヒョウイして人間とは違う、表向き人間の形をした異形の生物のようです。不気味であり、どこか滑稽であり、結局とても不思議なのです。また女性の踊り手、アユ・スリ・スクワマティ(以下アユさん)さんもまた負けていない!!今回、最も心に刻まれた踊り手です。両目の動き、そして身体全体のタイトな動きがもの凄い。余談になりますが、彼女はアノムさんの奥様で、この二人「ジョン・レノン・ヨーコ小野」に匹敵する夫婦であろうと納得してしまいました。このアユさんのリズムの取り方は、他の踊り手達は少し違う気がします。私は踊りのことは全くもって素人なので専門的なところは分かりませんが、彼女の踊りはとても強いリズムを感じさせます。タイトで正確なリズムを身体で押出すところに特長があり、何とも言えない魅力を感じてしまいます。ガムラン以外のジャズやロックなどにも造詣が深いのかも知れない。
スマラ・ラティはトラッドなガムランからアメリカ人作曲家エヴァン・ジボリの作品まで幅広く演奏しますが、この現代的ガムランと言える音楽は何しろ想像を絶するもので、8ビート、16ビートのようなジャズ・フュージョンて使用されるリズムセンスまで取り入れてしまう。ポイントはそれが決して付焼き刃な感じに聴こえないことです。使用する楽器の特殊性、アレンジ、音楽を追い求め純粋な気持を物語るところです。それにしても、ガムランサウンドの特長は打楽器で打ち鳴らされるカンカンとした金属質な高速ビートですが、実は低域で鳴らされる音価の比較的長いパートで、その音は柔らかく耳に届くと私は何かいつも大晦日とか、煩悩とか、盆暮れの世界に誘われてしまいます。本作も勿論、同様に何とも形容のし難い別世界に誘われてしまいます。
サウンド的には統一されたところがあるので、身体が疲れている時などは小さな音量でラジオでも聴くように空間に放出しておくという手もありです。

www.youtube.com上記はタルナジャヤというアユさんの十八番です。
素晴らしさは伝わりますが、やはり生には到底叶わない。
来日することもあるようですので、次回日本公演、時間があったら是非またビックリさせていただきたいです。ひとつだけ注意点、本作を寝る直前に聴くと(私の場合)頭の中でガムランが鳴り響いてしばらく眠ることが出来ませんでした。深夜の試聴は小さめの音が吉かもしれませんね(笑)
ノムさん宅では、踊りを習うためにホームスティ可能となっております(8室)。キレイなお部屋が用意されていて、好感が持てます。ガムランを学ぶ方には良いかも知れません。また、ここにはガムランで使用する衣装、器具等が保管されており、本番ではトラックで運び出すそうです。

ここで筆者よりご挨拶 FLAT122「THE WAVES」

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さて、、人の作品をあれこれと評するのも良いけれど自分も音楽家の端くれですから、たまには自作を叩き台にのせてみたいと思います。
THE WAVESは、ベースレスギタートリオ「FLAT122」の一作目となります。
2005年に仏先行にてリリースされ、その後国内ディスクユニオンHMV通販などでも発売されました。レーベルはPOSEIDONです。今、どうなったのでしょうかね?
さて、このアルバムは2004年にFLAT122の屋台骨であるドラムが田辺君に決まり、その勢いのまま制作されました。制作のタイミングは若干早過ぎた感じがありますが、バンドを短期間で向上させる絶好の手段としてレコーディングが大きな要素であることは確かです。
レコーディングは、中野の某スタジオで6時間を2回行っておりますが、時間を要したのは何と言ってもその後のミックスとなります。
使用した媒体がプロツールスに代表されるDAWではなく、ハードとしてのA-DATでしたので、僕は同じ機器を中古楽器店で購入し(最初に買ったマシンはローラーがテープを巻き込んでしまい破損!結局16トラックを同期させるために、改良モデルを2台買う羽目になる。)自宅にミックスの現場を構築して半年ほどの作業となりました。
ミックスにあたり収録を確認すると、このバンドの未完成なところが散見され、それを補完するために削除、修正、新しいトラックの挿入と、躊躇なく大屶をドーンと振り落としたわけですが、この迷わず叩き切っていった修正具合というのが、この音楽に開き直ったような妙な力を与えたところがあり、全体の出来具合としては決して悪くないものだったと少しだけ自負しております。それは、国内・世界各国からいただいた好評価にもよく現れておりました。

器材関係は以下の通りとなります。大きく3ブロックに分かれております。
01.楽器達をまとめる「ミキサー」
ミキサーには以下の楽器達が接続されております。
ピアノ:YAMAHA/P-80(10年以上とにかく使い切りました。今も愛着が強いです。)
シンセサイザーKORG/MS2000、Roland/U220
サンプラーYAMAHA/SU200

02.スタジオ収録データの入っている「A-DAT」
録音機として、A-DATを2台。この2台は16TRで扱うため(A-DATは8TRモデルです。)同期させておりましたが、数日使用の結果、オプションのリモコンを導入しこれが劇的に作業効率を上げました。

03.一旦ミックスをまとめるための「VS1650」
これは平田君が貸してくれました。当時住んでいたのは練馬春日町というところですが、今も平田君がこの機材を届けてくれました時の絵柄が脳裏に残っています。これがないとおそらく作業は頓挫していたと思われます。本作業最大の功労者?と言えますでしょう。何しろA-DATが安定しないので、まとめられた2TRデータは一度ここに保存されました。またこのモデルはミキサーとテレコがドッキングしたものでしたので、こちらでミキシングするケースも多かったように思います。

上記3ブロックをゴチャゴチャと結線しており、その色取り取りのコードがジャングルのようでした。そのカオス状態は写真に撮っておくべきでした。

THE WAVESの中心となるのは冒頭の「波濤」であり、これはミックスで見舞われたテープがお釈迦になってしまうという大トラブルを超えて完成させたものです。駄目になったところを切って(!)、生き残ったところを挿入トラックによって何とかつなげたという(笑)とんでもない作品となります。よってFLAT122が現在このように演奏するのは大変難しいということになります。音楽マニア達はまずこの「波濤」によってこちらの世界に入り込み、そして奇天烈で明快な「Neo Classic Dance」によって暗から明へと一気に運ばれるように考えております。Neo Classic Danceは彼の難波さんに「譜面を見せて!」と言われた複雑極まりない難曲でこれは26歳作曲のテーマパートを、結成時2002年秋頃から数年かけて構築した内容となります。このテーマはハチャトリアン剣の舞のパロディで、こうした軽く明るい発想は今こそ必要という気がします。また本作で最もキャラの立った作品は平田君の「目眩」で間違いないでしょう。タイトルは僕が命名しました。あまりに難しく目眩がする!というのがその由来。空腹時に聴くと本当にクラクラするという話をお客さんから聴いたことがあります。作品は僕と平田君のどちらかが書いておりますが、このFLAT122の最たる特長は、二人の作曲家が常に火花を散らしている、、と言うことです。互いの作品に対するハッキリとした意見、提案、そして実験の繰り返しは、再生と破壊を繰り返して殆どがゴミ箱行きという勿体ない結果を招いており、残った僅かな燃えカスみたいなところで勝負していたようなところがあります。この「FLAT122・音楽への向い方」は僕の起点であり終点になるものです。