クセナキスは"クセ"になるか?/プレイヤード
打楽器のアルバムであるが先行したイメージは持たない方が良いかも知れない。
ヤニス・クセナキスはルーマニア生まれ、ギリシャ系フランス人の作曲家。
僕はこのクセナキスほど、ハードルの高い作曲は居ない。
この作曲家と比較すれば、メシアンも、武満徹も、そしてリゲティも実にポップで分かりやすい。
僕は音楽というものに平易であるとか、難解であるというベクトルを持ち込む意味を感じないが、それでもこのクセナキスだけは別だ。
しかし、そのクセナキスの数多ある作品群の中で打楽器のために書かれたものだけは素直に受け取ることが出来る。
クセナキスの打楽器作品を聴いたのは大分前に、勤務している会社に併設されているホールのランチタイムコンサートという企画で、森晴子氏の演奏による「ルボン B」というのが最初だった。
もちろん、それまでにこの作曲家の作品に触れたことはあった。コンピュータを使用したもの、「ヘルマ」をはじめとするピアノ曲など。
しかし、どれも駄目だった。受け付けることが出来なくて「クセナキスの良さというのは理解出来ない」という結論に達していた。
それが、このホールで聴いた音楽はどうだろう、、その明快で生き生きとした内容に、これが同じ作曲家か!!と驚いたわけです。もしかすると彼女の演奏がまた良かったのかも知れない。あの作品はどうやらある程度(範囲)の自由が許されているところが見受けられたので。
つまりクセナキスの真骨頂というのは、その作品内容の裾野広さ、節操のなさ(笑)、そういうことではないかと個人的には思う。
本作品はストラスブール市からの委託によるものだ。4作品の収録だが、それぞれが個性を際立たせており、存在感たっぷりである。
ガムランのパロディか?というような部分があったり、「踏切警報機のズレ」を再現したかのようなリズムを主眼においた作品でなければ有り得ないアプローチもあって実に楽しめる。また、金属の響きが美しく、全体を通して自分なりのイメージを当て嵌めて想像の旅に出ることが出来る。
これなら素直に聴けば、誰でもその楽しさ、面白さに気が付くかもしれない。
だからと言って、クセナキスの他の作品も大丈夫か?と言えば、僕ならしばらくは打楽器モノだけにしておきたい。
また、メシアンの提案から、その数学的なところを音楽に積極的に取り入れるようになったと言われる。
推測だが、リズムに殆どの重心が置かれる打楽器は(音程が無いという事ではない。)、数理的であり複雑なパズルのようでもある。こうしたことから、クセナキスにとって(楽器の中では)最も自己表現を行いやすいところが在ったのではないかと思う。本アルバムを聴いていると、自分の作品のどこがイメージ表現なのか?という疑問が沸き起こる。
この徹頭徹尾、虚飾を排した厳しくピュアなリズム。
どんなに雄弁に語るオケ作品にも負けてない。
(打楽器作品以外の)クセナキス作品は、例えばリゲティであるとかジャズならヤコブ・ブロのギタートリオのようにクセになって何度も聴くということは、今のところないと思う。
しかし、それは先々分からない。
そして最近、ヤコブ・ブロトリオでさえ駄目だった。
自分の音楽に対する理解、変化、先のことなど皆目見当もつかない。
だから音楽は楽しいのか♬