ケイト・ブッシュ新作果たして?
執念深く聴き続けております。若干印象が変ってまいりました。ですのでこの記事を修正、加筆したいと思います。加筆したところは、赤字にて表示します。
ケイト・ブッシュの好物は「マンゴー」です。
今も変わってなければ。
昔、渋谷陽一氏インタビューの「お好きな食べ物は?」の回答。
久しぶりに聴いた。
ケイト・ブッシュはたまにもの凄く聴きたくなり、しばらく聴いている。そしてプツリと聴かなくなり、またしばらくして聴くという繰り返しとなる。
これはビートルズと似ている。
ピンクフロイドやイエスも大体そう。イギリスのこうした捻りの利いた音楽は、中毒性があるのである。
そして、この新作。音楽ファンでは賛否両論のようだが、そりゃそうだろう。
聴けば、まずはうーん、、と考えてしまう。
この作品に「魔物語」と比較して優劣を付けてしまうというのは違う気もする。
気持ちは大変分かるのだけれど。
向いているところが違っており、本作は聴いてすぐ分かるようなサウンドコンセプトが在るわけではない。
シンプルなピアノを中心に置いて勝負している。自分のこれまでの指示を受けて来た要素をことごとく封印して「音」そのもの、音の使い方で成立させようとしている。
それはそれで立派なことだ。
例えば1曲目で僕はふとメレディス・モンクを思い浮かべたが、もしかしたらケイト・ブッシュはこのヴォイス・孤高の存在に共感を持っているのだろうか?
ロックから離れて、ジャズや現代的な方向に活路を見出そうとしている事を伺わせる。
これが計算されたものであり、何度も聴き込むと腑に落ちるとこが出て来るのかも知れない。1曲目のピアノのバッキングフレーズ、2曲目のコーラスの使い方(これは「愛の形」でも出現するけれど、更に押出しを強くしたものだ。)など何度か聴いていると次第に共感が沸いて来る。
また、これまでの孤高の存在とも言えた旋律とハーモニーは確かに聴こえてはくるが、その音の出方というのが大人しい。その大人しさの裏に彼女が今後目指す境地が見え隠れしている。音が前に出て来るというより奥に(遠くに)後退していくように感じられるが、それが果たして音楽としての後退を意味するのだろうか?
違うと思う。迷わない音こそ良き音だとは思うが、試行錯誤と迷いがある音を真っ向から否定することもないだろうと思う。音楽には、屈折したり作り手本人も気付かない皮肉なところがあったりするから。
矢野顕子さんがおっしゃっていた「自分の限界」、、勿論ニュアンスは違うだろうけれど、天才ケイト・ブッシュであっても年を重ね、同じような壁を自覚し試行錯誤しているのだろうか。アーティストは年を重ねるから迷いが少なくなるというのではなくて、むしろやって来たことがオーバーフローしてしまい先が見通せなくなるのかも知れない。年をとってむしろ悩みは膨張していくのかも知れない。
彼女は、僕の女性ヴォーカルの中では頂点に近い女神のような存在です。本アルバムの本当の評価はもう少し待った方が良いのかも知れません、、、という柔らかな捉え方で行きたいと思います。少しづつではありますが、受止めるようになって来ました。
本作を聴いた後「魔物語」を聴きました。
天才が真空パックで届けられたような音、躊躇の欠片もなく何のハードルもなく軽々と展開されるその音楽。
溜息が出てしまいました。しかし本作もまた彼女の作品なのです。確かに良さが伝わり難いと感じます。音が奥に行っている感じがありますし。しかし長く作り手、歌い手として時間を重ねて来た何かがこのアルバムにはありそうです。
長い時間をかけて接して行きたいと思います。