ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

一柳慧「ピアノ作品集」凄過ぎるかも知れない

イメージ表現の手本。聴いて良し、流して良し。

久しぶりの脱線評です。90日も書かなかったので広告が勝手に出てしまう。それはあまり好きな状況ではないな、、と思っていた矢先、調度お気に入りのアルバムが出現しました。さて、、。
一柳慧は、若い頃から折に触れて耳にする作曲家ではある。一度、ライブで高橋悠治、ジェフスキー、そしてこの一柳慧の作曲家三人の自作自演を聴いたことがあるが、今思えば何と凄いものを目の当たりにしたのか、、と反芻するわけです。ジェフスキーは「不屈の民」を弾いた。高橋悠治は当時サンプリングに凝っていたらしくRoland社のS50を持って来てサウンドコラージュ的な今ひとつ訳の分からない音楽を展開した。そして、一柳は地味な風情でごく普通に自作をピアノで弾いた。そこから一柳音楽を事ある毎に気にするようになったと。つまり三人の中で最も共感したのがこの作曲家だったということになります。しかし、最近は意識の中から遠のいて存在が朧げになっておりました。何がきっかけと言えば「Youtube」です。別なアーティストから偶発的に辿り着いたのですが、これはYoutubeの功罪とも言えるポイントでしょう。このツールは、このように時折記憶の外側に在った作品を連れて来る。「今回の悪戯はなかなかのものだ!」ってところです。褒めてあげたい。
一柳は間違いなく日本を代表する作曲家と言っていいと思う。それは、伊福部昭から黛敏郎武満徹高橋悠治等のキラ星のように瞬く僕の中での"巨星達の輪"の中にしっかり置かれている。その割には何か社会的な認知度では今ひとつな感じがしないでもない。何故だろうか?作風が時代によって変化し、今ひとつこの作曲家の中心線が見えない、、もしくは本人がそういった自分の方向性というよりは、作品主義に重心を置いており、音楽家としての自分のキャラや、社会においての自分の立ち位置に意外に無頓着なところがあるから、、などと勝手に推測してしまう。例えば、武満徹を評して、親友の作曲家・湯浅譲二は「とても戦略的な男だった」と言っている。僕も、武満徹は自分の作品に対しての客観にとても深い思索があり、自分が表現したことに対して聴き手はどのような反応を返して来るのか、そこから紐付けて社会に対してどのように発信するのか?を深く意識した作曲家だったように思う。殆どの音楽家はもっと音楽本意であり、大変主観的な立場をとる。武満徹は身体もあまり丈夫ではなかったし、若い時分音楽をやっていく環境は決して恵まれてはいなかった。コンテストでの成績も芳しくなかったことから自分の作品に対する厳しい姿勢を生涯変えることなく、表現技術を磨き、社会に対峙し音で生き抜く術を学んだのだと思う。一柳はそれからしたら恵まれた才能と、音楽界からの認知も早かった。ジュリアードにも留学し、ジョンケージに触発された時期もあるが、その作品は初期の頃より完成していると思う。というかむしろ僕は本作のような小さな作品、初期から中期のものに魅力を感じる。ピアノソロのアルバムというと、個人的にはなかなか手を出さないのは自分の恥ずかしいところです。バッハの平均率、ベートーベンのソナタから、バルトークラヴェルメシアンリゲティと来て、本作が来た感じでしょうか。随分と間が抜け落ちておりますが(笑)この作品でとっかかりとして知ったのは「タイムシーケンス」ですが、何とも驚きました。ピアノテクニックにおいて音楽を聴くのではない!くらい肝に命じておりますが、それにしてもこれだけのテクニックで演奏される作品、それを作曲したのが驚きです。これは作曲者が弾けることが仕切り線としてあるわけで、どう転んでも、武満徹シューベルトがこんな作品には行き着かない(笑)また逆に言えば、このようなテクニックを使用しなくても表現に足る様々なテクニックが在り、それこそが作品の個性を形成するわけです。それでも、、、この作品は多くの聴き手が触れた方がイイと僕は思う。タイムシーケンスと比較すれば2曲目に配置された「インターコンチェルト」の方が、音楽が柔らかく圧倒されない分、こちらが入り込みやすい。聴いて行くと、昔、池袋西武の最上階に西武美術館があり(良き時代でした!!!)そこに併設されていたアールヴィバンでは、確かにこのようなピアノ曲が流れておりました。実際、一柳の作品だったかも知れない。暑い真夏エアコンもない江古田のアパートからサンダル履きのまま電車でここに来て、よく涼んでいたものです。そういった自分の二十歳そこそこの生活を思い出させるある種の環境音楽でもあります。この当時の音楽の造作は、リゲティバルトークとの近似性を強く感じさせます。しかし、リゲティの例えば「」(ピアノエチュードに収められている作品)のような感性とは違う。徹底して無機質で幾何学模様のデザインを思わせる印象がある。そのどこか無機質なところがキャラのポイント。苦手な聴き手はこの部分に違和感を憶えるのかも知れない。それにしてもショックなのはこのピアノ作品集全体が僕が目指しているイメージ表現に大変近いということです。しかも彼は大昔に、あっさりとゴールしている、、というショックが拭えない。このアルバムに出会ったことは、バンドへの提供している作品内容に間違いなく影響するでしょう。今、バンドにはマリンバ奏者がおります。何と素晴らしいタイミングかと思います。