ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

宣伝部長というからには、Voice hardcore/Phew

あちゃー!!これはなんというか、、絶句、、、笑

凄いというのなら、コレほど凄いアルバムもないだろうと思いますね。彼女のリリースしたアルバムは音楽内容からイメージすると意外に多いような気がします。他のアーティストとのコラボなども入れると結構な数。こういう特異な(良い意味です!)音楽の割には順調に多作と言えるのかな?と個人的にはそういう受け止め方です。
冒頭の「くもった日」を初めて耳にした時、少々体調が悪く、そこにコレを聴いたものですから、恐竜の胡桃大の脳がかき回されてしまいました。しかし、自称・宣伝部長を名乗るわけですから根性を入れて聴き続けるわけです。「音楽」と「根性」というのはどうも芳しくない相性のような気もするのですが。とは言えです、音楽は繰り返し聴くことによって、隠れていた魅力が表出するわけです。聴き手といっても少しは我慢というのか、少し違った言葉で柔軟性ですかね、、こういうものが必要かも知れない。そういうことで、この「くもった日」を数回聴いてみましたが、どうにも不思議なハーモニーです。何かグレゴリア聖歌のようなところもあるし、暗く陰鬱ですが、メジャーコードが聴こえてくるような妙なところがあります。声を重ねているのが短二度、否!長七度の方が正しいか。つまりはメジャー7thに聴こえるのかしら?などと、音楽内容とは全く離れた理論的な聴き方をしてしまう自分がおります。また最初の不気味に立ち上がるところで、実家の釜石市鵜住居地区(先だってラグビーW杯の試合が、ここでも行われました。)の山火事をふと思い出しました。当時、喫煙がそれほどうるさくなかった理由もあるのか、春先になると度々山火事があったのですね。そんな時、実家の前を次々に大小の消防車が通るわけです。古いタイプですとサイレンが何と手回しなのですね(笑)消防士さんがグルグルとサイレンに付いているレバーを回しながら、鳴らすのですが、疲れてくるのか、どうにも調子が上がっていかない。まるで「南州太郎の漫談」みたいなアレと言えば伝わりますでしょうか?(Youtubeで確認してください。ハマると腹が割れそうになるくらいに笑えます。)それがスティーブン・キングの世界にも通じるようなある種独特な世界を醸し出しておりました。あれ?何処でスティーブン・キングと南州太郎が結び付いたんだ?

とにかく、少なくともそのサイレンのサウンドに自分は魅力を感じていたのかも知れない。不気味だが、何というか生あったかい仄暗さというのか。そのサイレンの音が、この1曲目とオーバーラップするのです。やれやれ、一発目から大変な気持ちになるのです。しかし、2曲目でホッと安心することは出来ないわけで、そりゃユーミンとは違うわけだから。「顔だけ知っている人」、何だろ?このタイトル。普通であるような、普通過ぎて極めて異常であるような。聴くとこれまたインパクトの針が振り切れてどっかに飛んで行ったような曲でありまして、言葉とヴォーカルサウンドの織りなす暗さは、あの一時流行りました鈴木光司「リング」にも通じるようなところがあり、何だか蟻地獄の如く奈落の底に自分が落ちていくような錯覚を覚えるようです。もちろんその着底したゴールには、Phewが演奏し、歌っているステージが待っているのでしょう。このアルバムが比較的落ち着きを見せるのは3曲目「いい天気でした」辺りからです。ここから比較的音楽内容にテクニカルな方向を織り交ぜつつ、例によって意志強固に独自路線という名のレールを駆け抜ける。何かの記事で、体調を崩したことをきっかけにヴォイス作品の試みに至ったことを目にしておりましたが、体調を崩したということから、もっと柔らかなある意味「Phewによるヒーリングミュージック」みたいなものを予測していた軟弱な自分がおりました。しかし、それは甘かった。そのお身体は心配ですし、ご自愛のほど、、と願うのですが、この音楽はこれまでのどの作品よりも毒性が強く、聴き手を選ぶところもありそうです。しかし、Phew党であれば迷わず聴いて"蟻地獄"へと向かうべきです。小さな音で敢えて部屋の片隅にスピーカを置いて音を出すと、それなりに面白い環境音楽になる気もしますが、これは失言かも。いやいや失言じゃないか。音楽をどのように作ろうがそれは音楽家の自由であるのと同じくして、どのように聴こうとそれは聴き手の自由。こうした概念というものを軽く超えた個の音楽がこんな国に在ることが信じられない。聴く人もまた自由に楽しめば良いのです。それにしても、Phewはこれから何処に向かうのでしょう。健康にご留意して音楽の海を楽しく泳いでいただきたいと心より願います。(2019.12.1 早くも加筆修正)