ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

グレン・グールド「ブラームス・間奏曲集」

いつも傍に置く一枚。

昔、ピアノの先生に「好きなピアニストは誰?」と質問されて「グレングールド」と返すと「うーん、、。」と困ったように笑うのであった。
グレングールドってクラシックの世界において、そういう特別な(特異な)場所に置かれるピアニストだと思う。
しかし、国内外問わずファンは多い。それはバッハの演奏において顕著だが、どっこい他の作曲家においても名盤はある。
本作「ブラームス・間奏曲集」はその一枚と言い切れるに違いない。
この美しい隠花植物のような作品。慈愛に満ちており、燻し銀のような存在だが、これを自分のキャラを前面に出し、尚且つ作品に沿うのは大変難しい。

クラシック作品は、テクニックで乗り越えなければならない難曲が無数にあるが(ラヴェルプロコフィエフのピアノコンチェルトのように)、そうしたメカニカルな世界とは一線を隔てたところにある別な難しさを持つ作品も少なからずある。一見、単純なスケールとアルベルティバス*で弾くことの多い、モーツァルトは、その最たるものだ。さらった経験を持つ方なら何となく感じたことがあるかも知れないが。仕上がりとしては、ある程度のところまでは行くのだが、この骨組みだけで成立したような音楽。虚飾を排した完璧な音のデザインを持つ天才の音楽は、その先、なかなか格好がつかない。
また両手のバランスが悪かったり、音を引っ掛けると全体のイメージを損なう。つまりモーツァルトピアノ曲はとても難しいということになる。

そしてこのブラームスの間奏曲も同じく、きらびやかなテクニックはないが、形とするのは難しい。
何かピアノを弾くということ以前に、文学的な思索や、絵画や写真から感じ取れる繊細な脳のアプローチが必要という気がしてくる。

グレングールドはご存知の方も多いと思うが、作曲家でもあった。というか「作曲家になりたかった」というのが正しいのか。

あれほど若いうちに隠居してしまったのも「作曲」ということであれば素直に頷ける。(飛行機やホテル、コンサートホールの環境にも神経質であった。)

しかし、このブラームスを聴くと、こういうピアノを弾く人は他にいないのである。
バッハで聴かれるマルカート(若干音を切り気味に弾くこと、ただスタッカートよりは音を切らない。)気味のパラパラとした音の出し方とは明らかに異なる音の出し方。芸風の広さ、奥深さにはただ平伏するしかない。

自分が望む世界と、真に適する世界は殆どの場合、一致をみない不完全なもので終わるのだろう。

私もそうだ。こんなにも長く音楽をやってしまった!

疲労困憊と蛇行を繰り返し、つまらないことで深く傷ついて、なおも音楽をやるのか?と笑ってしまう。

人というのは、無防備となり身を任せられる温かな場所が必要なのだ。あまりに遠く記憶が朧げとなる出来事を脳のファイルから引き出し確認し、そうだったのか、、と理解するだけで明日へのささやかな力になる事だってある。そんな時のBGM(と言っては失礼か)に本アルバムほど最適な音楽はないように思う。

*アルベルティバス:左手の伴奏形、分散和音のこと。
低音→高音→中音→高音 の順で演奏される。
例:C・G・E・G(ド ソ ミ ソ)上記を当て嵌めるとEが中音ということになる。