ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

ここで筆者よりご挨拶 FLAT122「THE WAVES」

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さて、、人の作品をあれこれと評するのも良いけれど自分も音楽家の端くれですから、たまには自作を叩き台にのせてみたいと思います。
THE WAVESは、ベースレスギタートリオ「FLAT122」の一作目となります。
2005年に仏先行にてリリースされ、その後国内ディスクユニオンHMV通販などでも発売されました。レーベルはPOSEIDONです。今、どうなったのでしょうかね?
さて、このアルバムは2004年にFLAT122の屋台骨であるドラムが田辺君に決まり、その勢いのまま制作されました。制作のタイミングは若干早過ぎた感じがありますが、バンドを短期間で向上させる絶好の手段としてレコーディングが大きな要素であることは確かです。
レコーディングは、中野の某スタジオで6時間を2回行っておりますが、時間を要したのは何と言ってもその後のミックスとなります。
使用した媒体がプロツールスに代表されるDAWではなく、ハードとしてのA-DATでしたので、僕は同じ機器を中古楽器店で購入し(最初に買ったマシンはローラーがテープを巻き込んでしまい破損!結局16トラックを同期させるために、改良モデルを2台買う羽目になる。)自宅にミックスの現場を構築して半年ほどの作業となりました。
ミックスにあたり収録を確認すると、このバンドの未完成なところが散見され、それを補完するために削除、修正、新しいトラックの挿入と、躊躇なく大屶をドーンと振り落としたわけですが、この迷わず叩き切っていった修正具合というのが、この音楽に開き直ったような妙な力を与えたところがあり、全体の出来具合としては決して悪くないものだったと少しだけ自負しております。それは、国内・世界各国からいただいた好評価にもよく現れておりました。

器材関係は以下の通りとなります。大きく3ブロックに分かれております。
01.楽器達をまとめる「ミキサー」
ミキサーには以下の楽器達が接続されております。
ピアノ:YAMAHA/P-80(10年以上とにかく使い切りました。今も愛着が強いです。)
シンセサイザーKORG/MS2000、Roland/U220
サンプラーYAMAHA/SU200

02.スタジオ収録データの入っている「A-DAT」
録音機として、A-DATを2台。この2台は16TRで扱うため(A-DATは8TRモデルです。)同期させておりましたが、数日使用の結果、オプションのリモコンを導入しこれが劇的に作業効率を上げました。

03.一旦ミックスをまとめるための「VS1650」
これは平田君が貸してくれました。当時住んでいたのは練馬春日町というところですが、今も平田君がこの機材を届けてくれました時の絵柄が脳裏に残っています。これがないとおそらく作業は頓挫していたと思われます。本作業最大の功労者?と言えますでしょう。何しろA-DATが安定しないので、まとめられた2TRデータは一度ここに保存されました。またこのモデルはミキサーとテレコがドッキングしたものでしたので、こちらでミキシングするケースも多かったように思います。

上記3ブロックをゴチャゴチャと結線しており、その色取り取りのコードがジャングルのようでした。そのカオス状態は写真に撮っておくべきでした。

THE WAVESの中心となるのは冒頭の「波濤」であり、これはミックスで見舞われたテープがお釈迦になってしまうという大トラブルを超えて完成させたものです。駄目になったところを切って(!)、生き残ったところを挿入トラックによって何とかつなげたという(笑)とんでもない作品となります。よってFLAT122が現在このように演奏するのは大変難しいということになります。音楽マニア達はまずこの「波濤」によってこちらの世界に入り込み、そして奇天烈で明快な「Neo Classic Dance」によって暗から明へと一気に運ばれるように考えております。Neo Classic Danceは彼の難波さんに「譜面を見せて!」と言われた複雑極まりない難曲でこれは26歳作曲のテーマパートを、結成時2002年秋頃から数年かけて構築した内容となります。このテーマはハチャトリアン剣の舞のパロディで、こうした軽く明るい発想は今こそ必要という気がします。また本作で最もキャラの立った作品は平田君の「目眩」で間違いないでしょう。タイトルは僕が命名しました。あまりに難しく目眩がする!というのがその由来。空腹時に聴くと本当にクラクラするという話をお客さんから聴いたことがあります。作品は僕と平田君のどちらかが書いておりますが、このFLAT122の最たる特長は、二人の作曲家が常に火花を散らしている、、と言うことです。互いの作品に対するハッキリとした意見、提案、そして実験の繰り返しは、再生と破壊を繰り返して殆どがゴミ箱行きという勿体ない結果を招いており、残った僅かな燃えカスみたいなところで勝負していたようなところがあります。この「FLAT122・音楽への向い方」は僕の起点であり終点になるものです。

烏頭・針が振り切れている!

スピード感溢れる音。音楽マニア達のイチオシか?

烏頭(うず)はライブに来ていたお客様から教えられたバンドで「聴いてみるもよし!対バンまたよし!」ということでした。
それから半年後の夏、四ッ谷のライブハウスでご一緒させていただき音楽を聴くこととなりました。
その衝撃は、今も鮮明ですが、同時に本サイトでも紹介しております「る*しろう」との近似性もまた感じたものでした。
バンドの編成がピアノ、ギター、ドラムというベースレスで同じ構成であるところが大きいのですが、音楽の造作に似たところがあるのです。
その有機質なところは、自分の音楽がどちらかという定規で引っ張ったように幾何学的な音楽を行うのとは対象的で、何と言うか割り切れていないところをひとつのカタマリに捩じ込むようなリズムに特長があります。それは独特な「音の畝裏」となって表出しているようでした。これは「る*しろう」にも存在する特長ですが、自分には無いものであり、真似をしようにも出来ないセンスです。
しかし、似て非なるところも散見されるところが面白いところです。
この2つのユニットを土俵にのせてみると、違う部位がキレイにあぶり出しとなるのが不思議に絵柄として見えるようです。
烏頭はどこかに民族音楽的なイメージが見え隠れし、それが重く湿った感じを受けるのですが、る*しろうは音がもっと乾いています。また烏頭は他音楽の影響が見えない、もしくは咀嚼し吸収したフィルターの性能を感じる。平たく言えば独自性がとても強いと。その辺りでファンを分けるところがあるかも知れない。
僕は、ライブでこっそり録ったipodで半年ほど烏頭を聴いておりましたが、今思えば、よくぞ半年もあのオーバーロードした割れまくった音に耐えて聴き続けたものです。そういうところで言えば、本作は何と音がキレイなのでしょう(笑)つまりライブでの音と本アルバムの音にはかなりの乖離があり(勿論、個人的なところで)、そこがむしろ興味深い。ライブを行う必然性、それでいてアルバムの存在、その区分けがこれだけ成されているのは、おそらく僕のipodが理由なのですが、それでもそこにこのバンドの七変化的な才能が隠れているような気がします。
「とにかく針が振り切れている感じ!」
僕の烏頭に対する素直なイメージです。

最近ミニアルバムがリリースされ、ずっと洗練されたジャケ(このデザインはとても秀逸です。)で登場しておりますが、僕は本作の作品でしばらくは楽しめそうです。対バンを3回ほど経験しておりますので、耳に馴染んでいる作品も数曲あります。ヴォイス参加の作品など、凄いキャラの曲だな!と改めて感心します。旋律がとても魅力的なラインを描いており、もしかすると中東、トルコ伝統音楽からの影響?と思ったりするけれど、うーん、、、よくわからない。
音を掴み取りに行くスピード、強さは尋常ではなく、どういうイメージが在ってこういう事態になっているのか知りたいという気持ちです。

ひとつにピアノの大和田さんのフォームに秘密がありそうですが、あれだけデカイ音を出すピアノというのも聴いた記憶がない。否、、単にデカイ音のピアノというのでもなく、音の中にピアノ線が入り込んでいるようなサウンドと言えばイイのか?
昨今、国際的に活躍する女性アスリートに男達は腰が引けているが、音楽界でも同じ事象が生じているのである。
ジャンルとしてはプログレに入れられてしまう危険性?がありそうですが、あまりバイアスをかけないで、素直に聴くべきだろうな、、と思います。
ある程度の柔らかな脳の持ち主であれば、この新しい音に乗って旅するのは、さほど難しくはないでしょう。決して難解であるとか、敷居が高く面倒、という音楽ではないです。普通に聴いて自分なりにイメージを膨らませて楽しめばOKと。猛毒なので、中毒になると抜け出せなくなりますが、別段健康を害するわけでもなし!是非、その鋭利な棘と格闘していただきたいと思います。
*本作の音データを佐山氏(烏頭・Dr)から受取りこの駄文の参考とさせていただきました。多謝!御礼を申し上げます。

対バンはよく考えてから?「る*しろう/8.8」

まずもって同じ土俵には上がりたくない!

幾度が対バンをさせていただいたことがありますが、まあこのバンドを一蹴出来るバンドなんて居るのだろうか?
客としてライブを聴かせていただいたのはもう随分昔になる。このアルバムがリリースされる前ということだから。
確か高円寺のペンギンハウスというライブハウスです。先頃、マスターが引退されましたね。
このバンドの屋台骨は何と言ってもピアノの金沢さんの音楽世界に尽きるわけですが、ライブとなりますと菅沼さんのドラムの凄さが来るわけでして、偶然にも同じ編成でありましたFLAT122(という名前すらまだ付けていなかった新人でしたが。)など、足の爪先までも行っていない、遠過ぎるレベルの差。当時まだ3歳だった息子と嫁と聴きに行きましたが、帰り道は呆然として足が地に付かない感じ(笑)。嫁に「凄かったね!あんた大丈夫?」とか言われて「うーん、、、ちょっと、、。」と言うのが精一杯でした。当時、僕は10年近くバンドから遠のいておりました。しかし、急にバンドをやらなければならない!とフラフラと立ち上がったところで、出会ったのが昔フュージョンバンドを一緒にやったことのあるHでした。この「る*しろう」は彼に教えられました。同じ編成のユニットであれば、聴いた方が良い、、ということしたが、それは当然でしょう。しかし、そのショックがあまりにひどかった。これが本当の浦島太郎状態であり、しばらくは軟弱かつ出来の悪い脳が布団を被ったような格好でおりました。が、何とかユニットのヒントを得たのは、その年秋、トッパンホールで聴いた小玉桃さんピアノのメシアンでした。作品は「幼子20の眼差し」という超名曲ですが、僕はこの作品というかメシアンが間違いなく自分のバンド(音楽)においての要素というのかイメージとして必要ではないか?と考えたのです。その辺から次第に自分なりのベースレスギタートリオの形が見えて来た気がしております。この「る*しろう」も同じくベースレストリオとなります。ベースというのは実は音楽において最も重要かつ根幹を成すパートと言っても過言ではないでしょう。エレクトリックベースでも、オケのコントラバスであっても、その種類に関係なく。そのベースの存在がないというのは、大きなリスクを背負う事と引き換えに現代的なアプローチが行いやすくなるという利点があります。ベースの代わりは自ずからギターかピアノの左が受け持つわけですが、これは個人的見解ながらギターで低域を持たせるのであれば、これは最初からベースが在った方が良い、、ということになります。ギターにベースの代役をさせるのは僕は駄目ですね。サウンド的にも考え方としても。低域は(技術的には大変ではありますが)ピアノがガツガツと弾き倒すのがベースレストリオの定義でありましょう。ということで、本作も痛快なほどのピアノのゴリゴリとしたカッコいいフレーズが炸裂しており、これだけのギター、タイコに全く負けずにがっぷり四つ!!まるで走馬灯の様に蘇る大相撲「北の湖vs輪島」の全勝対決のような様相でしょう。

僕は本作の冒頭 "ソレイユ"(奇天烈ですがお洒落で素敵な作品です。)は勿論、全ての作品が耳に馴染み深く、まるでビートルズのアルバムのように身体に入っております。それくらい、その作品性というものに共感を持つものです。クラシック古典から近現代の影響は流石に濃いのですが、しかし、それだけではない得体の知れない有機質な才知を感じます。
この名盤8.8以降「る*しろう」は有り余る才能を制御出来ないかのように様々な実験と破壊を繰り返して行きますが、僕みたいな「る*しろう原理主義者」にとっては本作が最も耳辺りがよく、楽しんで聴けます。どの作品も面白く凄い。こんな音楽がもっと知られる存在であったら、、との願いもあってコレを書いているところがあります。余談ながら金沢さんは僕の後輩にあたりますが、その力の差は歴然!!音大時、サボってボーリングばかりやっていた僕ですから、勝負になるわけがない。こういうバンド、ピアニストが居ると知っていたら、どれだけ慌てて練習したか(笑)残念ではあります。

日本人キーボーディストが肝・NERVE

ジョジョはキ●チガイだ!」(勿論褒め言葉)
 
小見出しは僕の長い相方ドラマーT君のジョジョ・メーヤーに対する言葉だ。同業者からこのように評される場面が実際多いことだろうと思う。さて本題まいります。
ジョジョ・メーヤー「知っているよ!」というのは一般の音楽ファンよりも圧倒的にドラマーが多いことと思う。
それだけ、そのテクニックが専門的であり、飛び抜けているのである。

専用シューズを履くことでヒール&トゥを足技でマシン顔負けのハイハッとワークをこなす。(ジョジョは峠を攻めても速いと思う。勿論車は"86"で、、笑)ドラムンベース、人間ディレイ、とてつもなく細かいビート回しだが、そのサウンドはタイトかつ乾いた独特なもので知っているドラマーの中では最も好きなドラマーかも知れない。
2歳からドラムを始めたということだが、しっかりとジャズの世界を通っているところが演奏にある種の重さを与えている理由か。
ジョジョの特長はその演奏内容そのものにあるけれど、それだけではない。一人のドラマーでは終わらない音楽家としての資質もまた他に例をみない特長がある。この人力ドラムマシンを知ったのはYoutubeだったけれど、これは見た(聴いた)方も少なくないと思いますが、楽器フェアーで演奏している動画です。
ジョジョ・メーヤーは、ソナーと(現在も変ってなければ)エンドースメント契約を結んでいる。その関係から、フェアーの一角で演奏を披露したというところ。ベースとのデュオだが、やっている作品は、適当な即興などではなく、間違いなくナーブの曲から、そしてナーブのセンスで演奏している。ドラムは明らかに収録されたものより暴れており、遊びが多いが、それはメーカイメージや会場の雰囲気を意識したところも感じられる。
本作は彼の音楽としては、随分耳辺りがイイように思う。時に「ひょっとしてジョン・ボーナムがお好き?」と感じることもあるくらいだから。ただ、様々な場面で繰り返し聴くことを想定すると、こういうアプローチは正解とも言える。作り手からすると大袈裟で壮大な作品というのは案外つくりやすい。しかし、耳に優しく、軽妙で、それでいて聴く側の心に世界を差し出す音楽は実力がないと難しくなる。
耳に刺さらない、しかし圧倒される。そういう音楽の方向性はある意味、理想郷とも言えるだろうか。
ナーブは確かにジョジョのバンドだが、他メンバーが大きなポイントとなる部分がある。このバンドは基本トリオで、ギターのいないキーボードトリオであるが、だからと言ってELPを想像されてはちと困る(笑)このシンセのアプローチは先端を行っている。ベーシストが追込みした音もかなり飛んだもので、ジョジョと織り成すリズムをより特異性の強い内容としている。サウンドはアナログモデリングタイプのシンセの音だが、ノイズののった音色であっても隠し味的な使い方ではなくガッツリと前に出して来る。かすったように聴くと、リズム中心でドラムのバックをシンセ+ベースがやっているような印象を受ける。しかし数回聴くとこの音楽には骨太なテーマ性があることが分かる。こんな時、音楽は第一印象というのも大切だが「繰り返し聴いてこそ!」と思う。
作品において「繰り返すこと、反復すること」は演奏する側・聴く側も共通して大切な音楽要素になるということでしょうか。
本アルバムに反応する音楽マニアの殆どがジョジョ・メーヤーの名前がそのキッカケとなりますが、実はこの音楽を受止めるか否か?その鍵を握っているのは、日本人キーボーディスト・中村卓也のセンスとなります。作品は粒ぞろいでどれを聴いても納得させられますが、個人的には「Dr Jones」「Ghosts Of Tomorrow」「Hafiz」辺りに気持ちが行きます。

僕はこの中村さんの音使い、ハーモニー、描くラインはとても映画的であり素直に「良いではないですか!」と◎(二重丸)です。演奏されるフレーズ、音色、変化は陰影に富んでいて電気的サウンドの固定観念を霧散させるような力強さが感じられる。アナログシンセの"ビリビリとしたレゾナンス"が強過ぎるところが少し引っかかるが、これも若い世代にはアピールする要素かも。このアルバムを聴くと音楽アプローチを考えさせられる。そういうところは、とても不思議なのだけれど本サイトで何度か紹介しているPhewの音楽と似たところがある。
このバンドの今後が興味深い。しばらくはこのスタイルで対応するだろう。しかし、サウンドの灰汁が強過ぎるところが「仇」となり"変化"もまた必要になるかも知れない。本作を末永く聴いてもらうためにも、新しい方向を示す次回作を待ちたい。ナーブにはそれが出来るし、是非ここに停滞せず新味をプラスして欲しいと思います。

Phew/1st・サウンドの奉仕力が凄い傑作。

これが1stとは!!勉強不足を恥じる宣伝部長。

おーい、ライブが2回あるのだろうが。準備しなさいよ、、と心の声がする。しかし、これを書かねばその先がない感じ。
本作、改めて申し上げますとPhew(名義では)1stアルバムとなります。その前にアーント・サリー、あの一部では有名なジャケのアルバムもありますが、まあこれは後追いで書くことがあるでしょうかね。
それにしてもこの音世界は改めて聴くと昔聴いた印象より更に濃度を増して、それでいて聴きやすい。まあ、こちらだって指をくわえて数十年生きて来たわけではないのであり(と言いつつ、指を銜えていただけのような気もするが)音楽の若干の底上げにより、聴力もようやく人並みになって来たのである。ここ数年のPhewの特にライブでのパフォーマンスはどこか切なく、背中に電流がビィーッッッッと伝う感じがあるのですが、この若い頃は逆に醒めた感じがする。年を重ねて熱を帯びて来ているのだろうか?「枯れた味わい」とか「いぶし銀のような」という形容に真っ向から背を向けるような、凛とした佇まいだと思う。こういう人が真にカッコいいのだと僕は思う。突き放した感じのヴォーカルと言えばイイのだろうか、ジャストな位置から微妙な弧を描いて上昇する摩訶不思議な音程を発する声は、この頃より既に確立されており、黎明期のアルバムだからそこのところを割り引かないといけない、、などという国産にありがちな甘い見方は無意味ということになる。今現在の音楽と勘違いして聴いていただいてOK。
それはPhew自身によるところも勿論あるが、サウンドを形成しているカンのセンスによるところも大きい。このセンスは残念ながら日本ではあまり耳にすることの出来ない色調である。例えば、冒頭の作品「CLOSED」のベースのアプローチ。Phewの音楽において最も特長的なのはベースの存在である。所謂ごく普通のベースの在り方というのが見当たらない。長い尺でのベース不在、相当な違和感がある。おそらく、この辺で針を上げてしまう根性の無い(失礼)音楽ファンも居るかも知れない。しかし、ここは我慢しよう。すると、ベコッ、、ボコッ、、!と何だかミックカーン(ニューウェーブの旗手"ジャパン"(しかし、しっかり英国のバンドである。)の名ベーシスト)が風邪でもひいたのか、どうも調子が上がらない感じ(笑)、ヤケに間を空けたベースが地味な装いで出現する。
これが良いのである。何度も聴いてみるとイイ、癖になるから。
そして、Phewヴォイス。例の上ずった、天才的にズレた音程が重なると、もはや聴き手は音楽道の岐路に立たされていることを知る。左右に分かれる道。片方は「即座に針上げ!!Phewという得体の知れない音楽家など知らなかったことにする」そしてもう片方は向こうにトンネルが見えて、どうもそこを歩いて潜らないといけないような具合である(笑)それは「これからPhewの音にドップリと漬かりコールタールの海に浮き輪無しで飛び込む」(イメージとして)を意味する。真ん中の道というのは残念ながらない。気に入らないと思っても何だかうっかり聴いてしまう、、という場合、それはアナタ、、ほぼコールタール派の集合体に入っているのである。私が入り口にモギリ係として立っておりますから、どうぞ笑顔で入場してください。

例えば後半に出て来る普通ならどこにでもある8ビート、、Phewの他アルバムでも取り入れている単純なビートであるが、だからこそセンスの違いが浮彫りとなる。アーント・サリーの8ビートなんかもヘタウマですが(どちらかというと下手な部類か、、笑)僕は好んでおります。上手いということが「イコール魅力的」ということにはなりませんので。
いうなれば中途半端がよろしくないかも知れない。下手なら下手で堂々としていれば聴く方も意外に納得するものなのである。それを、そこそこ上手というのは気持ち悪い。いっそ練習など止めて思い切り下手になるか、地獄のような練習で雲の上に出るか、そこはハッキリした方がイイ。またまた問題発言ですね、、失礼しました!

そして、本作と「A New World」というリリースのタイミングとしては"端っこ同士の作品"が個人的に最も好む作品となります。サウンドもまた両極端と言えるでしょう。この2枚は座右の盤として我が成増山スタジオには常設、持出し厳禁というわけです。本作はアナログの良さが全面に出ております。シーケンサー(手弾かもしれない)で鳴らされるモコモコとしたシンセベースもありますが、リズムの振幅は広く、サウンドとして太く温かな印象を受けます。ところがその上に位置する音楽自体は陰鬱で冷たく、虚飾を排した赤裸々なPhewの世界が重なっている。その強いコントラストこそが本作の特長でありましょう。
人の目を通し、その絵柄が一旦心に焼き付けられる。脳内フィルターを通し、その絵柄は異形となって外界へと戻って来る。何故かそういうことを考えてしまう。
1stアルバムには理由は知らないが傑作が多い。ELPも、カルメンマキ&OZも、そしてレッドツェッペリンもなかなか渋い。Phew入門?だったら本作を薦めます。「宣伝部長特別推薦盤」(何が特別なのかは知らないが)というわけです。

上原ひろみ・Alive - ようやく聴いてみる!

このリズムセクションの訴求力。

サイモン・フィリップスアンソニー・ジャクソンリズムセクションということで本作を手にした音楽ファンも多いかと思う。
僕もその一人かも知れない。
Youtubeで視て(聴いて)アルバムを買っちゃった!」というケースは少なくないが、これもまた例外ではなく。
しかし、キッカケとなったYoutubeの作品は入っていなかったようです。そこは少し残念。上原ひろみさんは同業者です。同じピアニストであり作曲家なのだけれど、これまで何故か避けて聴かなかった。しかし、食わず嫌いは自分の悪い癖です。ということで、ようやく聴いてみました。他アーティストの影響が微妙に感じ取れるところが面白いです。これは僕個人の感じ方かも知れないですが、不思議とプログレ色の混入?ありです。ELPであるとか、ザッパのような文法も入り込んでいる。ジャズピアニストとしては異例に変拍子が多く、それは彼女自前のフィルターを通して消化吸収し独特なフレーズにより創出されている。好感度が高いですね。サイモン・フィリップスは随分若い頃から耳にしておりますが、基本線は変らない。一聴すると引き出しの多い多彩なイメージで来るけれど、全体像を眺めるとパターンはハッキリしており意外に明快で分かりやすいドラムだと思う。サウンド的にはジョジョメイヤーのような細身な(彼は身体もえらく細身だが、、笑)音を好む僕としては若干違う音だけれど、これはこれで"タイコ"らしい音で悪くないと思う。ニュートラルなイイ音だ。サイモン・フィリップスは、群雄割拠するテクニカルなドラマーの中でも知的なイメージのする人です。実際、リズムの組み立ては練られており、ドラムの作曲と言ったスタンスでしょうか。鍵盤サイドからは好まれそうなドラマーではないだろうか。何となくこうなっちゃいました!というところが少ない、学究肌なところも強み。本作の相方ベーシストは、アンソニー・ジャクソンだが、これまた楽器が違うものの似たタイプと言える。このリズムセクション上原ひろみの組合せは、面子の面白さで決定されているというよりは、彼女が今、やりたい音楽の内容から呼ばれた二人という気がする。

音楽内容もまた、呆れるほど濃くて全体を聴くと腹一杯になるのであるが、僕は天の邪鬼なのでこんなには曲数は要らない。ブルース進行、つまりは7thコードでガチャガチャとソロを弾き倒すのはアメリカのライブシーンにおいては(まあ国内も似たり寄ったりか?)受けるのであろうが、僕はそういうのは辟易としてしまう。このアルバムからそれらを削ると、よりタイトでスッキリとした形。このリズム隊である必然性がより明確となり、聴く側へ向うパワーはずっと高まるはず。テーマの旋律、ハーモニーに素敵なセンスが沢山入っており、上原ひろみの人気の一旦がこの辺にあることが分かって来る。テクニックを聴かせることが悪いのではない。音楽内容に対する感心は多様であり、原理的にこう聴くべき、、という考え方は違っているように思う。ただ、本作の冒頭からの高い音楽性に耳が行くと「徹頭徹尾、こういう現代的なアプローチで通して欲しかった」というのが僕個人の見解です。
(本作をテーマとブリッジに絞り込むと、未だ尊敬する「る*しろう」(但し、かなり以前にリリースされた1stアルバムの頃)みたいになっちゃうのは見えている。それもまたちょっと違うだろうし。音楽造りの難しいところかも知れません。)

ジャケの帯にはこの「トリオ無限大」とある。

次回作は、シンセで大きな空間を演出するとか、音数を極力削った現代的なアプローチをしていみるとか、そういった試みを期待したいと思います。
今回の僕の評は、おそらくピアニスト・作曲家という同じ立場からの、かなり偏った内容であることは確かです。
本作を聴いて「何だ、タカの言うことは充てにならんなぁ」と思っていただいて大いにOKなのです。

る*しろう:インディーズシーンにおいて絶大な人気を誇るベースレスピアノトリオ。天衣無縫な音楽性は止まるところを知らず、共演すると間違いなく突き落とされたものです。おそらくは国内よりヨーロッパ方面の評価が高いのでは?と想像されます。

メシアン/世の終わりのための四重奏曲

もはや現代音楽の古典。意外にプログレなところもある?

この作品に関しては前々から書かなくては、、と思っておりましたが何やら難しく感じてしまい逡巡しておりました。
しかし、気軽なスタンスのこのサイト。本作を囲むマニアな音楽ファンを気にする事なくまいりたいと思います。
僕が、この作品のことを述べたい理由。
それは至極単純なことです。
この作品を深く敬愛しているからです。
本作を宗教音楽の観点から聴くと、一気に事が難しくなってしまう、、とコメント欄にありましたが「ヨハネの黙示録10章」に沿った形で作曲されていると作家本人が述べている以上(コレと言って強い宗教観を持たない一般的な日本人からすると)理解が難しい面があるのかも知れない。また音楽ファンによっては「世の終わり、、」と言っておりながら随分脳天気なところがあり、国が変ればこれほどに死生観が違うの?と皮肉まじりにおっしゃる方もおります。僕は、本作を最初に聴いたのは随分昔のことになりますが、そんなことまで考える余裕はありませんでした。恥ずかしながら、、この音楽を理解することが出来なかった。この音楽がひょっとしたら凄く魅力的で面白いのでは?と思ったのは、ジャズの理論を一通りやってしばらく後になります。音楽ファンの中には、素直に気軽にメシアンクセナキスを楽しめる方がおります。僕はそういう方達にはとても叶わないし、聴き手の偉大さに気付くわけです。僕なんて天の邪鬼の上に、恐ろしく不器用だから音と音との宇宙的な組合せに泥んこ状態になっていた状況からようやく楽しくなって来たのです。メシアンの音楽全体に言えることですが、その造作は数理的であり、緻密なシステムを構築しているところに特長があります。自分の表現に足る要素を徹底的に追い込んだ結果として、この作風があると思います。勿論、他の偉大な作曲家はそういった部分があります。クラシック音楽の中心として誰もが知るベートーベンはその代表格でしょう。それからするとメシアンは現代音楽の古典と言えるかも知れない。そして、僕個人のメシアンに対するアプローチ、その学究的なところ、方法論的なところは一切無視です。メシアンの音を聴くと、そういった雑音(失礼!)が邪魔で仕方がない。この音楽には正々堂々と自分の耳で純粋な気持ちで対峙したい。音楽理論のドロドロ状態など、このさい即行で封印と。
さて、全体8作品を通して聴くと、まずはピアノの造り上げるサウンドが浮世離れしたような世界を展開させていることが掴み取れる。そして全体のサウンドを決めているのがクラリネットという気がして来る。これは聴く人によって違って来ると思います。僕はこの作品によってこのクラリネットという楽器の魅力と可能性に取りつかれてしまいました。
今も周囲の演奏家の中ではクラリネット奏者を贔屓するところがあり、それは本作が理由です。僕は音楽の好き嫌いも、そして聴かれ方も自由であり、そこにルールなど在ってはならない、、みたいなことを事ある度に書いて来ました。しかし、本作を魅力が無いとか、メシアンの作品群においては駄作、と言い切る音楽ファンには申し訳ないけれど、納得が行かない気がします。若い頃の僕のように、こういう現代音楽の免疫がなくて面食らってしまった!というのなら分かるのですが、、。しかし、本作は現代音楽のあまりに専門的かつ独善的な作業の弊害とも言えるタイプとは一線を画していると断言出来ます。そのハーモニーと旋律は、メシアンを小難しい学問の神輿の上に乗せちゃっている近視眼的な帯域とは次元の異なるイメージ世界を展開しております。
それにしても、この作品のカラフルなことには呆れる。カラフルなだけではなく何と言うのか独特の湿度感や室内で聴いているのに微風を感じているような錯覚に捕われる。8曲目に配置される、独特な遅いテンポ感を持つ作品(エスの不滅性への賛歌)が最も好きな作品です。これを聴くと「とても大切な人が次第に遠のいて行く、、そして何時か消え去るその一瞬、こちらをチラリと振り向くのです。」何故なのかそういう絵柄を想像してしまします。本作を構成する楽器は、ピアノ、バイオリン、チェロ、クラリネットとなります。近現代になって来ますと、演奏のキャラよりも作品で聴くという形になる場合がとても多い。ラヴェルしかりドビュッシーしかりと。しかし、この四重奏曲は演奏家によって随分イメージが変って来る。チョン・ミュンフン(ピアノ)のものがグラモフォンから出ており、これを強く推すファンもおります。僕はこのゆっくり目で演奏したアルバムも決して悪くないと思います。が、やはり本作を演奏するためにピーター・ゼルキンが結成した「タッシ」のバージョンが多少ベタではありますが、今のところ打ち止めであります。そのテンポ感、勿体付けない凛とした清涼感が好きです。実際メシアンの演奏指導もあったと聞いておりますが、(特にこういった作品において)作曲家の意図が音の中に入っているのは素晴らしいことだと思います。最後に、ご存知の方も多いかと思いますが、本作はメシアンが仏兵として捕虜になったゲルリッツ捕虜収容所内にて作曲されました。初演もその所内に於いて、という特殊な環境下に於いてでした。この作品が、メシアンが捧げた祈りや、幸福であること、平和への希求が、この作品に根底に在るのだと(僕個人が勝手に)信じております。僕の実家は祖母が熱心な法華さんでしたが、僕はコレといった宗教は持たないのです。その代わり、音楽の神様がいるので大丈夫なのです。その神様というのが、ベートーベンとメシアン。人間臭い神様と、人間離れした二人の神様というわけです。

フィリップ・グラス/グラスワークス

先生はミニマルとは呼ばれたくないらしい!

フィリップ・グラスアメリカ合衆国の作曲家です。現代音楽・ミニマルミュージックを代表する作家と言って良いと思います。ご本人はミニマルと呼ばれるのを好まないらしいけれど、仕方がないでしょうね。スティーブ・ライヒ、ティリー・ライリーと並んでミニマルの代名詞ですから。
さて、遅いタイミングとなりましたが「ミニマルミュージック」を取り上げたいと思います。ミニマルという言葉で本サイトを検索すると、おそらく「ウニタミニマ」が出て来ると思う。この本文にて若干触れておりますので。しかしこの男女デュオとミニマルはあまり関係はない。そういう匂いはするものの、あちらは「超絶テクニカル人力ポップス」とも言うべき国産音楽では希な存在なのであります。

ミニマルミュージックを自分なりに形容させていただきますと、、シンプルかつ禁欲的な小さなブロックを延々とリピートさせ、その楽器の出し入れや、若干の音楽的変化によって進行、構築させるものであろうと個人的に解釈しておりますが、まあそう遠くない形容と思います。
その変化が微小であり、絞り込まれたテーマを繰り返すのが特長で、これを「気持ちイイ〜♬」と変態のメーターが振り切れるか、、、もしくは「何コレ?つまらん!」と途中で針を上げるかは、おそらくは即行で決着が付くタイプの音楽と考えられます。一般的には「現代音楽」に類すると言わることが多いのですが、それを認めないという頑迷な主張もあります。CM音楽にはその要素が多く散見され、ミニマルを知らなくても無意識のうちに耳に入っていることになります。またミニマル自体が、環境音楽的なところがあって、BGMとしてもOKなところがポイントでしょうか。勿論、単なる癒し系のBGMとは一線を隔てております。その効果は絶大ですから、お部屋に何となく流しておく音であっても「人は違うセンスを演出したいという」小難しい音楽オタクにはドンピシャな存在と言えます。

僕はフィリップ・グラス坂本龍一さんのラジオDJで教えられましたが、確かに最初は「随分風変わりな音楽だな!!」と少々驚きました。しかし否定的なところはなく世の中には実に面白い音楽が転がっているものだと感心したものです。その後、自分の音楽に取り入れる要素としては「変拍子の割り方」と共に(笑)最も身近なものとなったわけです。あれから数十年経過してもミニマルの影響はどこかに残しております。さて本作は1982年の作品でグラスとしてはかなり初期となります。このアルバムは評価が分かれており、それは決着することなく先々続いて行くことと思われます。本作を聴かないでもっと後発の作品から聴けば、もっと早いタイミングでグラスの良さを発見出来たのにと臍を噛む音楽ファンも少ないです。
しかし、それほど大袈裟に捉えなくても、と少々呆れてしまいます。
むしろ、このアルバムはミニマルの登竜門として気軽に聴くのが良いように思います。また、長い時を経て、聴きなおしてもそのフレーズひとつひとつに有機質な美しさが練り込まれており、これぞイメージ表現の規範とすべき内容と結論付けております。特に冒頭のピアノのみで演奏される作品と最後に演奏される作品は、楽器構成を変えて異なる絵柄を表しているようで、僕の最も好きなM3に配置された「アイランド」を柱として、キレイな(それこそ硝子のような)対象形を成しているように思えます。本作の作品としての力は、様々な聴かれ方を許容するその大らかさと、音を磨き抜いて、虚飾を排し結果残った音を拾い上げてシンプルに奏でたところあります。

久しぶりで耳にした本作ですが、凛とした姿は色褪せることなく、新しいも古いもなく「時間を超越したところに佇む音楽」と感動を新たにしました。
また、冒頭から音楽に入り込んで行くと不思議に自分が「鳥」になって空から街を見下ろしているような気分になりました。このゆったりと旋回する動きは鷲や鷹のような大きな鳥です。こういうイメージの作用がある音楽は聴く側によって、また同じ人間であってもその環境によって異なって来ます。グラスワークスを聴いても鳥どころか、何も感じない人もいるはずであり、それこそが音楽の面白いところ、興味深い謎です。グラスのファンでさえ本作を駄作と言い切るのですから、やれやれ!です。しかし、皆が皆僕と同じように鳥になってしまうのは少し不気味です。(諸星大二郎の漫画のようでもあり、、笑)趣向というのは脈絡なく規則性がない状態が健全だと僕は思います。
様々な聴かれ方をされてこそ音楽家も本望でありましょう。

Phew/VIEW・ハイファイなPhew? 

ユーザーコメントを真に受けるかどうか?それが問題だ!

さて前回のPhewの新譜評にて「宣伝部長」宣言みたいなことを申し上げたましたので、これは1枚だけのレビューでは物足りないわけであります。それにしても何だろうね、この「ハムレット」みたいな小見出しは?その裏事情からこの本評を切り出して行きたいと考えなのです。
さて、ジャケが気に入ったこともあり本作の購入に踏み切りました(大袈裟!)このアルバムのコメントに「ダメです。これを聴かなくては」と件が在り、それが"強く背中を押した"というのがもうひとつの理由ではありますが(更に大袈裟!!)。このアルバムの受止め方で、聴き手のサウンドの指向、音楽アプローチに対するセンスが分かるという気がします。そう言った意味で本作は「踏み絵」みたいなイメージがあります。まず、最も分かりやすいところで言えばリズムのアプローチです。ドラムが普通にバックを押し上げるPhewを否定するわけではありません。また、、ドラムのサウンド、組み立てるリズムの内容によっては、新しい作品である「A New World」を超えた魅力を得ることは可能かと思います。例えばその昔、彼のレッドツェッペリンがガレージで収録したようなサウンドをイメージして、尚かつドラムはオカズを排除した特異なリズムセンスをリピートするような方法であれば、、、。

つまり、本作の気になるところを正直に言わせていただくと、リズムのサウンドと、そのアプローチが彼女の芸風に今ひとつマッチしていない!と感じます。この「感じます。」がくせ者でございまして、、、。感じ方は十人十色。上記の通り「これを聴かないで何がPhewであろうか?」とまでおっしゃる御仁も居られます。
結局は好き嫌いの範囲に足を踏み入れると、その先は不毛な世界になってしまうのですよね。僕の場合、本作は素直に受止められる曲と、この曲は要らなかったのではないか?とさえ思うものと分けられます。そして全体としてPhewにはハイファイ(死語か?)の色合いは出来るだけ避けたい要素であろうと、勝手に納得するわけです。"音楽においてサウンドが解像度高く鮮明であるということが不可欠"というのは大いなる勘違いです。どのような世界にも例外は(実に小さな欠片かもしれないのですが)声高らかに存在します。音楽制作において使用される器材とアプローチはその時代の様々な環境と相まってアルバム全体のサウンドを決めるわけです。アルバム全体の持つサウンドイメージが数年から数十年後に振り返った時、どのように聴こえるか?というのは音楽家にとって、とても頭の痛いところかも知れません。例えば、サラリーマンも知っていたYAMAHAの名器「シンセサイザーDX7」の音は"造った音"であればそれは素晴らしい。しかし流行に乗り過ぎた音は古い音楽より更に古くさい。そういう音色を無頓着、無意識に使うのは演奏家の深い落とし穴です。本作を聴くとサウンドのどこかに時代の色彩を感じます。そこがせっかくのオリジナルの良さを損ねているのが残念なところです。「ダメです!これを聴かないと」と書かれたコメントは「何をして」なのか。それは彼女が(意外に)普通に歌っているところでしょうか?であれば、僕はこの聴き手さんとは聴いている部分が全く異なると思います。
彼女は「A New World」という僕のような凡人ではとても思い浮かばない「世界」を音というツールを使って造り上げました。その世界とは時間軸が取り払われて夢と現実がゴチャゴチャになったような実に不思議な迷宮のようなものです。音楽はその迷宮構築のためのツールであるというところに共感を持ちます。

今現在の彼女は一人のPhewという作り手に研ぎ澄まされた印象を受けます。アプローチはシンプルを極めて、それがよりタイトでありますが決して小さくまとまっているわけではない。音楽家はどうしても音を注ぎ込むものです。それがまるで宿命であるかのように。であるからこそ飾りを捨て去り鋭く透明な線となる音楽家には心より敬意を持つものです。

如何なる種の音楽であれ絶えず精進し、試行錯誤を繰り返し、無駄を切り捨て研ぎ澄まされて行くという道が朧げながら在るのではないか?と考えさせられます。本作を聴き、そして僕の最も好きな「A New World」を聴くとそのように彼女の音楽家としての深き試行錯誤のレールが反射しているようです。比較して眺めてみる、そして自分の好む方向を認識してみるというのなら「VIEW」の立ち位置は興味深いものです。どのように感じるか?この踏み絵をどのように見るか、踏みつけるか、避けて通るか、最初から見ないか(笑)それによって自分の好む「音楽の造られ方」が分かるかも知れない。どうぞアナタもPhewの迷宮に足を踏み入れてください。

STEPS/PARADOX「K子は今何処に、、、。」

演奏家に必要となる音楽性とは如何なるものか?教えてくれる!
今でもそうですが、僕の「面倒くさがり屋さん」は古来からの歴史がございます。自分のライブくらいならそこそこ真面目にやりますが、人様のライブに行くのが実にかったるい!
街の喧噪に揉まれ、帰宅が夜遅くになるのも好まない。
そんな人間なので、これまでのライブの半分くらいは付合っていただきました女性(奇特な方達です)、もしくは現嫁が「さあ、これは聴きましょうよ!」とチケットを用意してくれたのであります。
どうしようもない人間です。というか「音楽家として如何なものか?」と我ながら疑問を感じるところです。ところが一度入り込んでしまうと、どうにも止まらなくなるのが拙者のもうひとつの側面であり、本アルバムはその典型でございます。このステップスの面子にゲストとして渡辺香津美が入ったライブを同じ高校出身で当時付合っていたK子がチケットを買って来ました。彼女は別れるまでの4年間で4回くらいのライブ行きを勝手に決めて面倒臭いという僕をズルズルと引きずるように連れて行ってくれました。先ほど年月日を調べてみると1982年3月1日の厚生年金会館(新宿)、どうもこれらしいです。
今更ながら胸が熱くなる感じがします。
そのライブと本アルバムの演奏内容はほぼ同じイメージと言って良いと思います。
タイトルが変っている作品もあるようですが、このアルバム自体もライブアルバムであり、自分の心に刻まれた音と不思議なほど重なり、音楽というものが時を超えて訴えて来る美しさに改めて敬服するものです。
このメンバーの中で、今も敬愛するピアニスト・作曲家のドン・グロルニック、そしてテナーサックスのマイケル・ブレッカーは既に故人となられ今は天国にてセッションしていることと思われます。残念なことではありますが、しかしこのアルバムにおいては正に現在進行形で音として生きており、その演奏のあまりの神々しさに心打たれます。頑迷なジャズファンの多い世界で、これは問題発言の恐れあり(笑)と思われますが、ステップス以前・以降でジャズが分かれるとすら僕は思います。それはクラシック音楽において新古典派と言われるバルトークの立ち位置にも似たところを感じます。
振幅を大きくとり、少しくらいの引っかかりやミスは大らかに考え、それを味として消化してしまう従来の(それはそれで否定しないものですが)ジャズとは明らかに違う。音楽は煮詰められており、それはドラム、ベースの低域担当であっても例外ではない。この音楽内容を具現化出来るベーシストと言えば当時、エディ・ゴメス以外では考えられないところだったと思いますし、またスティーブ・ガッドにご遠慮願って、ピーター・アースキンに交代したのもバンドの深化にとっては、どうしても必要な流れであったと言えるでしょう。ガッドのドラムは嫌いじゃないしチックコリアの「妖精」辺りでの彼はやはり素晴らしい。しかし、ステップスにおいて彼のドラムではどこか平坦でバンドのスケールアップに歯止めをかけてしまう。あるファンによっては「ガッドはスィングしていないから」とコメントするが、そういう形容もありか。バンドにおいて如何にドラムが全体イメージを決定するのか!ということを雄弁に語っている例がこのステップスにおいても体現していると言うことになりましょうか。何度も聴いて行くと、これがジャズという形体を借りた、ジャンル不明なコンテンポラリーミュージックという体を成している気がしてまいります。例えばドン・グロルニックのソロや作品に対するアプローチはとてもジャズだけでは説明が付かない。作品はこのユニットを率いたヴィブラフォンのマイク・マイニエリが書くことが圧倒的に多いですが、本作ではドングロルニックがM1、M4を書いており、これが親方に負けずに出来が良い。担当楽器の性質から来るものなのか、ドン・グロルニック作品の方が若干叙情的な雰囲気が強いように思います。余談になりますが、ライブ当時ピーター・アースキンのヘアはまだ若干残っておりまして(笑)、撫で付けた髪の毛がライブ後半になるにつれて逆立って訳の分からないカオス状態になって行ったのが愛嬌でありました。このアルバムは僕にとって単なるお気に入りの作品を通り越しており、クラシック流な形容をすれば、自分にとっての「聖書みたいなもの」に近い存在です。聴いていると、この音楽からスキルを吸い上げたい!という出来の悪いポンプが作動するわけです。そしてコレと言って面白い音楽が見つからない時、本作があるではないか!と言うことになります。出来ればこのメンバー構成でスタジオ版を1枚リリースして欲しかったという気がします。この後改名した「ステップスアヘッド」も決して悪くないですが、このパラドックスのステップスを"イチオシ"としたいと思います。STEPSというとどうしてもK子の姿が浮かんできます。時が止まっており、若いままなのが嬉しいのか悲しいのかハッキリしませんけれど。でもこれって音楽のイイところかも知れませんね。今の彼女が幸せでありますように、、、ということで本日は筆を置きます。