ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

忘れられた邦画のようだ / カルメンマキ&OZ・1st

国産では荒井由美と並んで未だ現在進行形

このアルバムを聴いた回数を数えておけば良かった。というくらいに聴いた作品となります。夕暮れ時、よくウォーキングしておりますが、そのお伴に流しております。本当は夕暮れの景色にはECMのギタートリオが完全にハマっているのですが、本作を聴きたくなるのはあまり時間帯とは関係がないようなので。実際、曲名も「朝の風景」から「午前一時のスケッチ」と幅があります(笑)。
ジャケットがどこやらジェネシスしてますが、内容もまたそれに違わずプログレしております。カルメンマキ&OZってのは結局、不世出のヴォーカルカルメンマキ」と、ギタリスト「春日博文」在ってのバンドなのです。が、そこはそれバンドでありますから他メンバーによって、また首脳陣?のお考えによっても音楽性を大きく変えております。セカンドアルバムにおいてはハードロック寄りなコンセプトとなり、この辺は音楽ファンでも評価が分かれるところではないかと推察しております。個人的には「本作」それから「本作以外」と(随分乱暴ですが)分けちゃっております。

若干問題発言ですが、僕は「この一作目で十分かな」と思っております。初めて聴いたのは高校2年生。我が息子より若い自分が正にこのアルバムと共に在る(笑)。もう40年も心に刻まれ尚現在進行形というのが凄い、というか呆れる。一体何がこれだけ僕を惹き付けるのだろうか?
まず、1曲目「六月の詩」でガツンと来た記憶があります。日本語のロックでも十分に聴けるどころか、海外のピンクフロイドやイエスを聴いた後にコレを聴いても何ら遜色がないと感じる。では、なぜ遜色なし!と感じるのか?を整理してみましょう。整理は苦手ではありますが。

1. カルメンマキの表現力を持って日本語=ダサいロックという概念を超えている。

2. 本作のキーボードに心から敬愛しております深町純先生が名を連ねております。これは実に大き過ぎる要素です。深町純と言えばロックというよりはプログレ、ジャズフュージョン系のアーティストです。実際、その芸幅の広さには呆れます。実に渋い演奏を繰り広げており、それは単純なピアノ四つ打ちでも(つまりはレット・イット‥ビーのような、、笑)味を醸し出しており、このアルバムが「ちょっとアートロックしました、、」みたいなレベルを遥かに超える推進力となっているわけです。その格調高き鍵盤の世界を是非ご堪能ください。中高生キーボーディストの皆さんも聴いてみてくださいね。理想的なキーボード教材、そして音楽教材であることは確かです。ピアノは勿論のこと、オルガンプレイも実に気の利いた演奏が満載です。

3.リズム隊のアプローチに多様性があり、カラフルで緻密にアレンジされている。鳴瀬善博と言えば今ではチョッパーで有名ですが、ここではその前の彼の演奏を聴くことが出来ます。当時、ティム・ボガード等がお好きだったのですかね、、そういう方向です。もっと旋律に寄っており、僕はこの当時の彼のベースがとても好きです。

4.作品力が半端ではない。作曲家・春日博文、ここで出し切っちゃったか!!みたいな感じがあります。スティーヴンキング・シャイニングみたいなものか。あの風貌からは想像出来ない(失礼!)美しい世界を見ている人ではないかと、それも恥ずかしい程に。でないとああいう曲はなかなか書けないと。ギター演奏も練られており、ソロパートも予め書かれたもの、という気がします。

以上、整理してみました。しかしこうして整理してみても音楽に対する言葉など知れており、最初から限界点が低いわけです。
曲としては「私は風」が有名かつ本作の中心に置かれるのでしょうけれど、脇を固めております「朝の風景」「イメージソング」はもはや日本ロック史上屈指の名曲と言って良い作品であり、初期のユーミンでさえ霞む素敵な柔らかさを内包しております。中高生、いや、小学生でも大丈夫かも知れない(僕などより精神年齢高そうですからね)。カルメンマキの力強い声で「愛していたの」と歌われるとちょっと凄過ぎて腰が引けるところがありますが、、。

昨今の子供は洋楽をあまり聴かないそうです。であれば、コレを聴いて欲しい。この音楽の裏側に潜む何とも熱く重く、そして独特な暗さを持つ時代性というもの。素直に聴けば誰にとっても座右の名盤となるに違いありません。(素直に聴く、というところが実は難しいのではありますが。)
根暗ではあるが決して後ろ向きではない。そして音楽というものが曰く言葉に出来ないイメージを表現すべき「ある種のツール」であることに気が付くに違いない。僕は、最近でこそ単一テーマ、シンプルな構造を標榜しておりますが、それまではこの"マキOZ"の影響から逃れられず大変なテーマ過多に陥っておりました。そもそもプログレというのはテーマ過多であり、手法が大袈裟で組曲のようなデカイ構築を好むわけです。本作の成立ちもまたそうです。そういうことで言えば少し古いのかも知れません。しかし、音楽の流行はメビウスの輪の様に循環します。あっさりとした音楽、小さな音楽、涼し気なビートの後には、もしかすると温度の高い音が到来するかも知れません。暑い日だからこそ「焼き肉」を食べるのです。と脱線しつつあるところで、筆を置きましょう。

〈マメ知識〉
このアルバムの別な側面として、初心者キーボーディストにとってコード進行の勉強になるという要素が散見されます。例えば朝の風景という曲があります。Key=Cで考えますと〈 C→D→F→C 〉と行くわけです。さぁ、、このDとFの意味を考えてみましょうか。下手なコードブックを眺めるより身体にしっかり入って来ます。

〈加筆・修正 2017.11.3〉

ディシプリン、これが "宮殿" と同じバンドなの?

つまりは違うバンドになったと。変化幅数キロにおよぶか?

やれやれ御大と言われるわけです。本作がリリースされた時点では、拒否反応を示した音楽ファンも多かったと聞きます。そのリセット具合、その断層の深さが半端ではない。メンバーのキャラによるところも大きいでしょう。旧クリムゾンと共通するのはロバートフィリップビル・ブラッフォーッドの二人というところだけかも知れない。このアルバムはクリムゾン歴史の折返し、分岐点、こういう場所に置かれるモノであろうと思う。使用前/使用後という言い方でも良いかも知れない。
一体、どういう体操をしたのか、、もしくはどれだけ変なサプリメントを注入したのであろうか。

大リーグ養成ギブス(巨人の星参照)的な飛び道具を使ったというのなら、それはエイドリアン・ブリューの"像の鳴き声"がそれに相当するに違いない、、、?
メンバー加入によるところも勿論大きい。
上記のエイドリアン・ブリューに注目が集まるが、どうしてベースのトニー・レヴィンもまたこのサウンドに対する貢献度は高い。
トニー・レヴィンはジャズ・フュージョンの人という印象があったので、最初は少し意外な感じもしないではなかったが、いやはやどうして、、そのサウンド、描くラインは流石にロックだけしか弾けまへん!!というのとは一線を画している。
彼を加入させたロバート・フィリップの、あまりに大きなファインプレイだったと言えるでしょう。
ギタリストもベーシストもモードを使えるかどうかで、大きな差異が出ると僕は思う。
例えば、ベーシストは「ペンタトニック」でチョッパーという、言うなれば「客は喜んでいるフリをしている安っぽいサーカス」といった音楽を封印することから進化が始まるのだ。
クリムゾンが他のプログレユニットと大きく異なるのは、時折描かれるラインの形ということになる。これにマイルスのモードが深く関係している。
このバンドはデビューアルバム「宮殿」の頃からジャズの方向を眺めているところが散見され、そういうことで言えば実は音の使い様に於いては一貫しているとも言えるのかも知れない。
ただ、本作が大きく異なるところは、そのリズムセンスであり、
ポリリズムを音楽の中心に置いたということになると思う。
このポリリズムとギターの楽器としての機能は、こちら鍵盤陣からすると、憎たらしい程にハマっており、その織り成す幾何学模様はペルシャ絨毯のようである。
また、それをバックに歌うエイドリアン・ブリューのヴォーカルは、対象的に熱を感じさせるものであり、感情の機微を捉えたダイナミックなものに感じられる。
僕は、この時期のこのユニットを渋谷公会堂で聴いたことがあるが、何が信じられないかと言えば、この複雑極まりないポリリズムを演奏しながら全く次元の異なるリズム感で歌う彼の化け物具合ということだった。
「おかしいのじゃないか?この人」そのくらいのショックを受けたと。。
同行した嫁は客が皆だったというところにショックを受けておりましたが(笑)
あくまでも「個人的な好み」ということになりますが、より肥大化した現ユニットよりもこの4人で演奏した数年間がクリムゾンの最も好きな時期とハッキリ言える。
良き作品、良き楽曲ということになれば「宮殿」や「アイランド」等も捨て難いが、結局、演奏内容、サウンド、ヴォーカルに対する自分の好みからすると、クリムゾンのベストアルバムは本作かな?と朧げながらではありますが結論付けるのでした。
クリムゾンが初めてであれば「宮殿」と本作にトライするのが良いのではないでしょうか。そしてどちらも同じバンドであることに笑ってしまうことでしょう。
ロバート・フィリップ「我が音楽人生!」ということになりますか(笑)

Ben monder / 評は何度も聴いてから、、!

Ben Monderはアメリカ合衆国のギタリストです。

現在(2017.12.28)最も聴く事の多いアルバムです。何度聴いても飽きないスルメみたいな作品と言えましょう。そして、この音楽は少し聴いて何となく評を書くというのは駄目ですね。数ヶ月聴いた今、自分の中でようやく着地した感があるわけです。最初はヤコブ・ブロに似ている、、などととんでもないウソ?を書いてしまいました。サウンドも、作られている音楽も違うものです。似て非なるものではなくて、最初から違っております。ただ、音価を長く取り、空間的というか浮遊感の強いところは共通しているので、最初に受けるイメージとして、どうしても比較にあがってしまったのだと思います。
好感が持てるのは、そのシンセが黒子に徹して変に電子的なイメージを出していないところ。MIDIという規格がある。MIDIが出て来てからシンセをはじめとする機材のセッティングは大きく変わった。(MIDIは機材を接続する規格です。簡単に言えば、シンセを2台MIDIケーブルで接続すると片方を弾くと受け手側のシンセも同様に演奏される、ということになります。これはシンセだけには限りません。あらゆる機材にMIDI端子は用意されております。)

しかし、このMIDIの匂いがするものを僕はあまり好まない。電気的というのは大いに興味を持つ、しかし電子的というのはあまり好まない。これは勝手な言葉のイメージだと思うのですが、電気的という方がノイジーであり、どこかに空気の入る余地がありまた立体性を感じるわけです。
如何にも国産メーカのプリセットをそのまま使いましたというような質感、それは耳障りで必要のない音の厚みであることがとても多い。
本作では、それが抑えられてシンセの押し付けがましさがなく、かつ存在の必然性が感じられます。
流石にECMの出す作品はひと味違うところではあるかと。
2曲目となると、本性が出て来る。
このギタリストのサウンドアプローチ、作品力は他にはない確立されたところがあり、聴いて納得させられます。
演奏においては、ドラムのポール・モチアンがやはり素晴らしい。
最近、僕のイチオシであるジョーイ・バロンとよく似ているが(というかジョーイが影響を受けているのか。頭もスキンヘッドだし、、笑)若干、ジョーイの方が猛々しくタイトで切れ込みが鋭い。しかし、本作において御大の演奏はとても自然で流麗であり、時折「ハッ!」とするような素晴らしいリズムセンスが光っている。その音の出し入れ、無音から次第にクレッシェンドして行く場合などに品格があり、それだけで本作のインパクトが増して来る。他のドラマーと例え同じリズムアプローチをしたとしても、その抑揚の付け方、音楽に対する寄り添い方で、全く異なる世界を感じさせる。
シンセが入っている分、音の壁は厚く、密度の濃さを感じるが、さりとて聴き難いわけではなくサウンドの組立に慎重で緻密なギタリストであることを伺わせる。
ギタリストというのは大体が深く論理的に考えるタイプが多いのだけれど、おそらくは同じ集合体であろうと思います。
音楽内容は、正にイメージ表現の世界であり、散歩に同行させるとハマりそうです
ECMの音楽は総じて夕暮れの散歩にハマるわけですけれど。これまた例外なく。
少しだけ言わせてもらえば、もう少し音価を短くとったフレーズを前面に出して欲しかったという気がします。サウンドアプローチに主眼を置き、大きな幅を持たせたかったところは理解出来るのですが、散見される魅力的なラインを聴くと少し惜しいです。
もしかしたら、その出し惜しみの加減もまた計算の内なのかも知れません。
もう少しシンプルな(例えば、ギタートリオのような)編成のアルバムも聴いてみたいと思います。この評は加筆、修正は2度目となりますが、流石にこのギタリストが浮遊感だけで勝負しているわけではないことが分かって来る。そのコードプログレッションと、選ばれる音は素晴らしい品格を兼ね備えており、こういうギタリストはテクニックばかりに頭が行っている国産ギタリストではとても及ばない。長く聴けるアルバムというのは古今東西、実はそう多くは存在しない。その点クラシック作品というのは、やはり作品力では次元の違うところがあるのかも知れない。しかしこの本作は聴く度に発見があり、何やら宝物探しのような風体でもある。やたらと音響方向に音が行っているので、つかみ所がないけれど、音楽としては唯一無二、他にこういった作品は見当たらないという気がする。ベースを排したところから生まれる可能性は僕もベースレストリオを長くやった経験があるので、自分なりではあるが理解しているつもり。現代的かつイメージを前面に押出して行く音楽を標榜する場合、場合に寄ってはベースは邪魔な存在となる(というのも失礼な言い方だけれど)。逆に言えばベースはそれだけ音楽において重要なポジションに在ると言える。これを排するのは音楽の要素を一度ニュートラルに返して、白紙の状態に音を置いて行くことになる。
本作を聴いていると、その凛とした佇まいに、作り手のストイックな感性を垣間みる事が出来る。まだまだ聴いて行くことになりそうです。自分の中においては間違いなく名盤でしょう! 〈加筆・修正 2017.12.28〉

Mats & Morgan / 北欧を代表する変態ユニット

凄過ぎて、そろそろ隠居するか?という気分になってしまう。

ということで、かつて自己顕示欲の針が振り切れてメーターから飛び出していた僕でしたが、情けない有様なのであります。世界は広く深い。様々な化け物がウヨウヨしているのでした。
ただの手数王ではない手数王「Morgan Agren」と天才に奇才を掛け合わせた全盲のキーボーディストMats Obergから成るバンド。
本作はデビューアルバムとなる。
1996年だから随分前になるが、ドラムの演奏内容などは最近のものの方がより洗練されていることは確か。
しかし、より無駄を省きソリッドになった新しいものからすると、この「気の赴くまま突っ込みました!」状態の本作は、ゴチャゴチャとしてはいるものの、その毒性はずっと強い。

キングコブラ100匹分くらいか?

全体としてキーボードを主体としたサウンドで、一辺倒になりがちなサウンドを聴いたこともない妙なフレーズのオンパレードで回避している。
これは、僕の好みということになるのだけれど「ギターを中心としたサウンド」の方がよりアルバム全体を飽きることなく聴くことが出来る場合が多い。シンセやピアノで空間を埋められると息苦しくなってしまう。
そこで、現在僕が好きなバンドは現在では殆どECM・ギタリスト関連です。
この北欧出身の化け物バンドは例外ということになりましょうか。それと忘れちゃいけない「ELP」と。おっと更に「クラフトワーク」を入れておかないと、、、、。

うん?何だ!鍵盤だって頑張ってるじゃないか。

さて、今回脱線がひどいですな。列車(自分のこと)をレールに乗せるとしましょう。
本作、触れる回数を重ねて行くと、自分自身の音楽のつまらなさに呆然とするわけです。そしてモチベーションメーターの針がレッドゾーン示すと(イメージ:キングクリムゾン「RED」裏ジャケ)。
それほどに、クラシックから現代音楽からジャズまでボーダーレスに無邪気にちゃっかりと使い倒しております。一体どうしてこれほどの吸収力と創出するだけの力を持ち得たのでしょうか?
それはMatsの「心」にこそ秘密があると思う。テクニックは結果として在るだけで、それよりも起点となっている色鮮やかな小映画みたいなモノが感じられる。それを音に転化するフィルターの性能が素晴らしいと思うわけです。
そのフレーズの突っ込み具合は恐ろしくなるほどで、これを四六時中聴いたらまず間違いなく自分の音楽性に影響が出るのは確かだと思う。
つまり、音楽家が聴くというよりは「音楽ファンの宝物」のようなものではないだろうか。元々はザッパのコピーバンドという成立ちだから聴いてすぐにザッパカラーに気が付く。
ザッパに深く傾倒し、それが音楽性に色濃く出ているバンドというのは国内外問わず少なくない。ザッパは中毒性があり、あの変則的なリズムの割り方とフレーズの音使いは、どうしても一度は真似をしたくなるのである。
しかし、オリジナルを真似ることはそれを超えられないことを意味する。賢い聴き手は最初は飛びついても「それならザッパを聴けば良いじゃん!」と早晩気付くのである。

昔、ポストユーミンは確かに存在したのである。しかしそれなら例え歌が下手であってもユーミンを聴いた方が良いのである。
そういうことなので、本作も時折(ザッパ臭が強過ぎて)、閉口する部分がないこともない。
しかし、1stアルバムでありながら彼らだからこそ成し得たザッパとは違う、もっと異質なイメージもまた同居しているのも確か。
本作は言うなれば、甘ったるいマシュマロのような音楽だ。そして、何故だろう?先ほど歩きながら聴いていると、万華鏡の様にクルクルと回っている判然としないイメージ(アメリカ版のアニメのようでもある。スーパーマンやバッドマンがニヤリと笑って、自分のことをジッと見ているような)が脳裏を過る。
そう、このユニットの特長は他のプログレとは一線を隔ててシリアスではないのである。どこかスポンジのように柔らかく、例えて言うなら温暖な瀬戸内地方のような音楽である。
それでいて、頭がおかしいのじゃないか?(褒め言葉です。)という程のテクニックというところが面白く、また同時に狂気を感じるところだろうか。
そういえば、Matsはキーボードを弾いている時に、楽しそうに回り出すことがある。
あれが心に残っていてシンクロするのかも知れない。
ひとつ言えば、この中に陰影の深いピアノ曲を短く入れたら良かったのに、、と思う。それをアルバムのヘソにあたる中心に置けば、少しやり過ぎなとっちらかった音楽に中心が与えられてスッキリとした聴きやすいものになったような気もする。
あまりに凄過ぎる音楽は、作品のどこかで、一旦聴き手を解放してあげた方が良いと思う。でないとゲッソリと疲れてしまい、せっかく面白い音楽でありながら昔の言葉で言う「針が擦り切れるほど聴く」という音楽家にとって「お客様は神様です」的な状況には成り難いと思うのです。
こういう音楽はたまに聴くところで良いのかも知れませんが、、、、。

「お前は年を重ねて、聴く力が衰えているのではないか?」と言われれば返す言葉もございません(笑)
これはもう、マニア達の音楽力を計る踏絵みたいなものかも?

いぶし銀的な存在「マジカル・ミステリー・ツアー」

作品力で勝負ならビートルズの中でもベスト3に入るか?

アルバムが単に良き作品の集合体であるというなら、このアルバムは間違いなくビートルズの中にあっても上位にランクされると僕は思う。ポールの作品に偏っているものの、例えばビートルズ全体の作品群の中において特異性の高いものとして僕は2曲あげる。そのひとつはリボルバーの「Tomorrow never knows」そして本作の「I Am the Walrus」となる。勿論、個人的見解です。
ビートルズは風変わりな曲が少なくないから記憶の糸を辿るとまだまだ出て来るかも知れません。
この「I Am the Walrus」はジョンの作品ですが、凄いことになっております!そのサウンド、SE(サウンドエファクツ・つまりは効果音)の使い方、世界観、独特な旋律とビートルズならではの独特な引きずったような重さを持って聴く人を引きづり込みます。
そう言えば、先頃ご紹介したUAのアルバムにもこの辺りに影響された曲がありました。ビートルズからネタを頂戴するバンドは実に多いですが、意外にこのビートルズの中では外側に置かれているナンバーから持って来る場合が確認されます。
ストレートに美しいとか、軽快で聴きやすいというのではないので、ビルボードランキングも13位までしか上がらなかったという記憶があります。(その後の上下は分かりませんので、朧げな情報です。)
ビートルズにしては惨敗でしょうけれど、流石の熱きビートルズファンも当時この斬新なサウンドは敷居が高かったのでしょう。
僕は、今もってこの曲の表現力を尊敬しております。
これが在るだけで、本アルバムのランクはずっと上がります。
調べてみますと後年ポールはこの曲をジョンの最高傑作と評したそうです。

「泣けてきます!!」

ジョンにとってポールは最大の理解者だった?としみじみとしてしまいます。
しかしこれだけではない。佳作とも言えるイメージですが、聴けば驚くべき美しさを持つ(これぞポールの真骨頂と言える)「Your Mother Should Know」が脇を固めており、このアルバムの恐ろしい程の作品力を垣間みるところではあります。
この曲はとにかく素晴らしいラインを描いております。実際ポールには拘りが強かったのでしょう、丸一日かけた収録をボツにしたくらいだったそうです。
僕もよく作品の改訂でメンバーから顰蹙をかいますが、いやいやビートルズとは比較にならないですね。もっと見習いたいと思いますが、しかしそこには他メンバーの理解と忍耐が必要なのです。
ビートルズのリハーサルを映したビデオを見ると、皆疲れ果てて目がどんよりして独特の表情です。ジョンが、ビートルズの再結成を聞かれて「実はやりたいとは思っているんだ。でも、今の自分にあの24時間音楽漬けという生活が出来るだろうか?」という内容をインタビューで伝えておりました。
確か「ダブルファンタジー」リリースの直前だったと思いますが、もしかするとこのアルバム後、再結成が実現したのかも知れません。残念なことです。
このアルバムに聴き手が入り込んで行く導線としての役割は「Hello, Goodbye」と思うのです。実は、以前やっていたユニットで、この作品のギターのカウンターラインのようなイメージで演奏して欲しいと伝えたことがあります。あまりにもシンプルな「ドレミファソラシド」という(それだけではないですが、、。)フレーズですが、主旋律を押し上げる考えられたラインです。
しかし、この曲をよく知っていることが前提となるこの指示は理解されなかったと感じました。流石のビートルズでも世代によって聴く方は少なくなる、ということらしい。そして忘れてはいけない「Blue Jay Way」、ジョージがタダモノではないことが良くわかるプログレッシブです。ビートルズって僕の中では立派なプログレバンドなのですが、その理由(要因)がこの曲にも横たわっております。この不思議具合、浮遊感、他のバンドでは絶対に真似出来ない部分でしょう。

流石のビートルズでも世代によって聴く方は少なくなって来ます。
もし、音楽ファンにビートルズでオススメアルバムを聞かれたら、もしかすると本作を進めるかも知れません。
作品それぞれの出来が粒ぞろいで、しかもビートルズの中では後期にあたりますので、それほどの古さを感じないはずです。
本作と「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」は近似性がありますので、どうしても代表的アルバムの影で目立たない可哀想なところがあるような気がします。
しかし、その音楽内容はタメを張っております。是非、ご注目のほど!!

やはりグールドでしょう「バッハ・パルティータ」

音大2年生時、課題で弾いた4番は今も心から離れない。

パルティータの魅力に気が付いたのは、もしかすると最近なのかも知れない。
バッハは他の作曲家とは異なり、敷居の高さ、敷居の種類?が違うという気がする。
その中でもこのパルティータは聴いて難解ということはないが、なかなか入り込むところまで行かない強敵であります。
しかし、そこを少しだけ我慢して聴き続けると、そのとてつもない旋律の美しさとオリジナリティ(オリジナリティとバッハに対して言うのは失礼という話もあるか、、笑)にハマってしまうのであり、自分の中ではスルメのような作品(失礼)ということになっております。
クラシック音楽の場合、作曲家と聴き手の中継点であるピアニストが必要となるわけですが、バッハの場合は弾き手が限られるところがあるにせよ、どのピアニストで聴くのか?他の作曲家以上にポイントなのかな?と思います。
これは、個人的見解なので、聴く人によるものだとお断りした上で述べますが、ピアニストによっては作品力が来ない!と感じる場合も少なくないのです。
それが誰もが知る巨匠であっても、、、です。
好みと言ってしまえば、それまでですが、バッハほど顕著な例はないと思います。
例えば「平均率」であればグールド、ニコラエワ。パルティータの本作グールド以外では、昔先生のご自宅で聴かされたワイセンベルグのものが癖が強いものの、随分と魅かれるところがありました。
しかし、本アルバムのグレン・グールドは他のピアニストとは明らかに一線を隔てたところに位置しているイメージがあります。というか、グールドの芸風ってのが作曲家に関係なく何を弾いてもその特殊性から良くも悪くも別世界というわけですが。

パルティータはいくつかの作品の集合体です。全6曲となりますが、それぞれ自由な作風で小規模な作品が連なっております。プログレなんかで組曲と言うと少し恥ずかしく、古臭いイメージを持つ音楽ファンも少なからずおられると思いますが、バッハの組曲は大きな声で言ってもらって構わない恥ずかしくない真の「組曲」と言えましょう、、笑
導入部でも名称が共通するわけでもなく、プレリュードというのもあれば、序奏という意味を持つオーバーチュアと表記されているのもあります。
最後に「ジー」と呼ばれるテンポの速い、バッハならではのモード的で緻密な音の重なりを持つ作品が置かれます。Youtubeでもグールドで検索すれば、聴くことが出来ます。休符となって空いている左手で指揮の動作をするなど、笑ってしまうところがありますがグールドらしく音の出し方、リズムの取り方が他のピアニスト達ではとても真似出来ない世界が展開されております。独特なスピードを持ち、音楽が豊かに響いているのはパルティータでも同様で、まるで自分のオリジナルのように軽々と歩を進めて行きます。音に羽が生えているのか?と錯覚するほどに軽快、かつ透明な音です。
僕は、このパルティータ・4番を音大2年時にテスト課題で挑戦しましたが、大変苦労したこともあり未だ心に深く刻まれたままです。
課題曲テストのルームではピアノ講師10人程が片側に並んで座っており、パルティータから「2曲」選択して弾くために「くじ引き」が用意されておりました。僕は「アルマンド」と「ジーグ」ということになりましたが、アルマンドはともかくジーグは何しろ自分のテクニックに挑戦するつもりで速いテンポでアプローチすることに拘っておりました。ジーグはその超速テンポと、的確なリズム、重層的かつ緻密な音使いを彫刻のように描き分けるイメージで演奏しないと形にならないのです。
いただいた点数としてはそこそこでしたが、しかしこのグールドのテンポ感、描き出しはまるで違う曲を聴いているかのようです。
平均率もそうですが、自分の弾いた後グールドを聴くと全く違う曲に聴こえてしまう。他のピアニストでそういう事象が起こるのは「ホロヴィッツ」辺りがそうです。
バッハという、クラシックから現代音楽までのヘソにあたる部分、起点でありながらも終点というのか無限でもある宇宙人・作曲家。
この底知れない懐に飛込み、ひとつの音楽として成立させるには、同じく別な星に住むグールドのような変人でないと難しいのでしょう。
余談となりますが、グールドの鼻歌?が嫌いで聴かないという方もおられます。弾きながら「フーンフーン」って歌うのですね。特に旋律的なところになると盛り上がってくる(笑)僕は本当に個人的な好みなのですが、元来は自分の演奏する音以外に歌とか、雑音を立てる演奏家をあまり好まないです。フォームに関しても動作の大きい派手な形は苦手です。例えばせっかく音楽自体は好きなのにキースジャレットなんかは駄目なんですよね。ファンに叱られそうで、先に謝りますけれど。しかしどうしてなのか、グレングールドの煩い鼻歌は意外に演奏と一緒に聴けてしまいます。一体どうしてなのか?これは間違いなく根拠があると思うので、時間のある時に考えてみたいと思います。何か大切なことのような気もしますので。

そうそう、忘れておりましたがバッハを弾くピアニストとして日本を代表する天才がおりました。高橋悠治!!!彼のバッハもまたオススメです。

《2020.12.20 加筆・修正

天才のごった煮/Beatles「ホワイトアルバム」

良き作品ほどレコードで聴きたくなる。

ビートルズファンなら誰でも知っているアルバムです。
僕にも高校生の息子がおりますので感じるところですが、昨今の中高生は(僕の時代と比較すると)あまり洋楽を聴かないです。
「最近面白い音楽ないんだよね!」と嘆く君にはコイツがオススメです。
今風に言えば「このアルバム、ヤバ過ぎるわけです!」
何も新しい音楽が新鮮で面白いとは限らないと。自分が知らないだけ。うっかり通り過ぎていただけ。
そういうのに限って凄いことになっているわけです。本作みたいに。

ビートルズ・聴いた回数ベスト3で言えば、、

1.Revolver

2.Beatlrs(ホワイトアルバム)

3.Abbey Road

これはイメージですが、それほど遠くないと思います。
おっと、、、失礼、、このどこかに「Let It Be」が入るか!!
本作の中で人気の作品は例えば「Black bird」がありますが、これと同じようにアコースティックでありながらもう少し捻っている「Mother Nature's Son」があります。これはビートルズではなく、ポールが一人で制作したものです。もう最強の美メロですね。高校時代、本作に入り込んだ起点となった曲です。
そして、イチオシは「Sexy Sadie」です。このハーモニーと捻ったメロは一体どこから来るのでしょうか?
クレジットはポールとジョンになっておりますが、これはジョン主導で作られたようです。まあ確かに言われてみればジョンのセンスでしょう。
ポールと比較するとジョンの作風はどこか頼りな気で、脈絡のないところがある。
つかみ所がないというのか、、でもそこが何とも心に来るわけです。ただ、この作品も歌詞を理解して聴くと、皮肉が強くて印象が変って来るのかもしれません。「導師マハリシ・マヘシ・ヨギに幻滅した!」というところから来ている歌詞なのですが、こういう内容とこれだけの"音造り"との関係性は実に興味深いです。数多ある他バンドと、ビートルズを一線隔てているのが「こういうところ」なのかな?と思うのです。
ビートルズの多くの楽曲に言えることですが、さしてテクニックのあるギターではないのに、作品を底上げするカウンターラインは、意味のない長尺のギターソロでウンザリの(それもスケールが全てペンタトニックという、、笑)ソロを涼し気に一蹴するところがあり、痛快です。
面白音楽を作り上げるためには、テクニックも必要です。しかしそれ以上に必要なのは、明確なビジョンとそれを具現化するアイデアです。
ホワイトアルバムはそれが満載されている。
しかも、アルバムの成立具合が、子供みたいに何も考えずに、ただ自然発生的に次々に音楽を並べただけで、作為性が感じられない。つまりプロデュースされていない!演出の感じられない丸裸な音楽。
あの版画の棟方志功みたいなものだろうか。
一人一人の個の表現が大袈裟な形で突発的に出現するような感じ。バンドのまとまりとか、曲順を緻密に考えて、、、等、通常のバンドが考える要素は全て無視。
目の前を轟音を立てて次から次へと見たこともない乗り物が通り過ぎて行くようだ。
信じられない程デリケートな曲もあるが、しかし、作品同士が火花を散らして戦っているようでもあり、本アルバムを聴いていると呆れてしまうか、空いた口が塞がらなくなる!という状況に陥ります。
そして、本作全体を眺めると何故か「
Revolver」がオーバーラップする。
僕はこの二作には近似性があるように感じ、それがまた気持ちの良いことなのです。
凄いことは確かに凄い。
でも、決して熱血じゃない。温度感・湿度感は北国で過ごす晩夏のようです。
余談になりますが「while my guitar gently weeps」で弾かれるギターソロは、エリック・クラプトンです。高校時代「ジョージも本気出すと凄いよね!」と友人と感心しておりましたが、可愛い勘違いでした。

"作曲家" チック・コリア / 妖精

チックコリアの中では最も好きな作品

チックコリア さんがお亡くなりになりました。自分でも驚くほどロスが激しいです。まいったな、ライブ直前なのに。でも、これでは御大に叱られるでしょう!自分の柔な精神に喝!を入れねば。


本作を初めて聴いたのは高校3年生。脳内には女の子と音楽しかなかった良き時代となります。NHKFM「朝のリズム」という番組がありまして、一瞬でスピーカに耳が行ったことを覚えております。すっかり入り込んでしまい学校に遅刻してしまいました(笑)
そして何故かこのアルバムを勝手に「ELP」の新作と決めつけて、しばらくは彼らがジャズ方向に舵を切ったものと考えておりました。バカですねぇ、、そしてそんな自分が可愛い
。でも、気持ちは痛いほど分かるというもの。この作品はおそらくチックの数多き作品の中で最もプログレに寄った内容と思われます。勿論、チックのあの透明感溢れるピアノの音は健在であり、ジャズ的な要素が少ないわけでもない。しかし、それでも全体を聴き終わった後に残るのは作・編曲家としての音楽家・チックコリア、ジャンルを脱したニュートラルな理想的な音を聴くことが出来ます。
僕は今もこのアルバムの魅力を感じることが出来ます。
聴く時間帯で言えば夏の早朝でしょうか。まだ涼しげな短な時間帯。冒頭のゲイル・モランのヴォイスが美しい導入から2曲目のリズム隊とピアノの織り成す颯爽としたサウンドの流れ方が何とも素晴らしく、上手な形容が出来ない自分の言葉足らずが悲しくなります。
サウンドが古く感じるという理由から評を下げる方も少なくないですが、僕はそうは思わない。サウンドを支える最も大切な要素は何と言ってもベースです。

このベースには、アンソニー・ジャクソンエディ・ゴメスというエレクトリックべース・ウッドベース、それぞれの世界を代表するベーシストを配しております。そして時折("ムーグ"で弾かれたのであろう)シンセベースが聴こえます。このベースのカラフルなサウンドとピアノのバランスが、他では聴く事の出来ないグルーヴ感を押出していると思います。
この時代「マイ・スパニッシュハード」「マッドハッター」と本作を合わせてチックコリア「フュージョン3部作」と言われたものですが、僕はこの「妖精」を最も(他二作も傑作ではありますが)好みます。
それにしても、ここまで作品力に注力したアルバムはチック・コリアとしては珍しいです。ジャズピアニストは通常、演奏を聴かせるということが主眼で、作品の力で押すというのはなくはないけれど稀な事と言って良いかも知れない。主題においては美しい旋律を持つものも少ないないのですが、、。
本作は、チック・コリアが作曲家としてアプローチしている姿が映し出されています。その辺りが、僕がELPと勘違いした理由なのかな?と思いますし、僕が最も好きな作品がコレ!というのもまた同様では?と推測しております。
ライナーノーツには「最新の16ビートを駆使するスティーブ・ガッド」(笑)という(正確な文ではありませんが)説明がありましたが、こういうところは時代を感じさせるところです。またシンセサウンドもまた同じく。
しかし、作品としてその内容をみたとき、この珠玉の楽曲達は今現在でも生き続けることが出来ると思いますし、新しい音楽を渇望している音楽ファンにも是非触れていただきたいと願うものです。
表層的な部分だけではなく、そのあらゆる要素、作品に寄り添う緻密なリズム隊と、魅力的なハーモニーと旋律。
そして全体を一塊で眺めたときのアルバム「妖精」というイメージ。それは、チックコリアの他作品では見受けられない確固たるものを感じます。
ジャズは、メンバーを解き放つものです。本作はチックコリアの作品のために演奏しております。それはクラシック・現代音楽のようでもあり、ジャズと呼ぶには少し違うところも感じられますが、しかしジャンルというものに縛られない自由な発想は音楽家であれば必須のものかも知れません。
ただ、難点をひとつだけあげれば、コンセプトがあまりにハッキリしているので、聴く側のイメージが限定されるという部分があるかも知れない。
(しかしこのイメージが限定された音楽を好む方も多いのです。それは結局、音楽の好みということになります。)
妖精はたまに聴きたくなる。それはちょうどイエスの「危機」が聴きたい!というのと同じくらいの頻度です(笑)それも無性に聴きたくなる。どうしてだろう?サウンドに秘密がありそうだけれど、何れにせよリリースされてこれだけ年月の経過したアルバムとして凄いことだな、、と尊敬するしかない自分です。チックコリア の足元にも及びませんが、少しでも近づけるように精進します。チック、今まで楽しい音楽をありがとう!   (2021.02.13 加筆・修正)

ELP「タルカス」/いつも心に置いておきたい

キース・エマーソン亡きこの世!

キース・エマーソンもグレグ・レイクも故人であることが未だ信じられない自分です。僕が「ELP」に初めて触れたのは高校時代、1stアルバムだった。その後、彼らとしては少し地味な存在とも言える3作目の「トリロジー(内容は決して悪くない。今聴くといぶし銀のような存在かも)を聴いたのだが、何故か名作である本作は後回しになってしまった。理由は分からない。皆があまりにタルカスが凄いと騒ぐものだから、根っから天の邪鬼な僕はわざと飛ばしたのかも知れない。しかしながら、結果は本ページの圧倒的字数でご理解いただけるかと(笑)

余談になりますが、高校時代の僕はチック・コリアキース・エマーソンをゴチャゴチャにしており、当時愛聴していたNHK/FM「朝のリズム」という音楽番組で流れていたチックの「妖精」をELPと思い込んで「ELPも随分ジャズ的なアプローチをするものだ、、!」と感心しておりました。この件は、チックコリア「妖精」のページで確か触れておりまして、チックとキースの近似性の感覚は今も続いているところがあります。しかし、それは「似て非なるもの」が正しい見方かも知れません。キースはやはり下地に横たわるのは「バッハ+近現代を中心とするクラシック全般」であり、チックは芸風は広いですが「ジャズ」ということになるでしょう。

昨晩、久しぶりに会社の帰り道、この大作である1曲目を聴いてみました。
驚くべきは自分の中でイメージが劣化していない真空パック状態であることです。
それどころか新しい魅力を感じる程でした。そしてその魅力とは果たしてどのようなものなのか?ということになります。

まず、ELPと言えばキース・エマーソンの超人的なキーボードパフォーマンスが重要なポイントとなります。そりゃまぁ、、確かにそうですよね!
けれども、、、。
音楽ファンも音楽評論家も、その超人的な演奏で評を終始させる傾向がある。勿論、グレグ・レイクのヴォーカル(因に僕は彼のヴォーカルがとても好みではあります。)、カール・パーマーの手数ドラムを追加するのは、これまた必須事項。しかし、こうしたメカニカルなサーカス芸的な扱いで終始するのは個人的に好まないのであります。ELPのどこを愛するのか、これは振り幅が大きいのかも知れない。
僕だって、長き時間の中でポイントが変化して来たような気がする。
最近は、専らキース・エマーソンの作曲内容に興味が行きます。オルガンで弾かれるパートで顕著にですが、この独特な天然カラーをゴチャゴチャにミックスしたような不思議な世界観は彼のどこから来るのでしょうか。

それは、彼の表現したかったヴィジョンと、作曲スキルの混然一体となった結果ではないかと想像されます。それは彼の生い立ち、そして見聞を通して拘っていた曰く言葉にはし難い何かだと思うのですが、、。
作曲の前段階にある絵柄、心の動きはどのようなものだったのだろうか?興味深くはあるのですが。特に本作タルカスでは、そのイメージは強く分かりやすい形で創出されているのは間違いないところでしょう。
キーボードパフォーマンスにおいては、クラシック音楽の起点とも言うべきバッハと、進行形である現代音楽という両端を取り入れていることは確かですが、しかし現代音楽と言っても、除外されるものも多いと思う。
本人も言っているので、これは確かだと思うけれど、アメリカを代表するコープランドの影響はあるみたいです。このコープランドの影響というのが僕には分からなかった。しかし昨晩"Eテレ"で聴いたデトロイト交響楽団で聴いた交響曲3番、これで、ようやく「あっ、、なるほど!!」と膝を打ったわけです。特に分かりやすいのは4楽章のファンファーレ・パート(これは「庶民のファンファーレ」と呼ばれるものです。)

まるでELPの作品をオケが演奏しているような錯覚に陥りました。しかし、このコープランドからの影響と言っても、どのような流れで自分のセンスに取り込んだのかは不明です。楽譜とレコードで研究したのか、好きで聴いているうちに自然な形で感性に入り込んだのか。おそらくは後者ではないか?と思うのですが。また後者であったとすると、その思い入れは、咀嚼吸収したのちにアウトプットされたものになると思います。私ごとで大変恐縮なのですが、メシアンという作曲家をご存知でしょうか。僕の敬愛する音楽がここにあるわけですが、どうしてもこの作品を取り入れ単なる猿真似ではない自分なりのスタイルとして取り入れたいと強く願ってここ15年近くやってきました。しかし並大抵のことではないです。まず猿真似までも行かない(笑)キースの音楽力は僕などとは桁が違います。コープランドから得る時間はコンパクトなものだったでしょう。彼のイメージ通り、弾き倒して自分のものにしたに違いない。
ELPをコピーして演奏する同業者は意外に多いです。気持ちは痛いほど分かる、、笑。
でも、僕はそれは絶対にやらない!!
ELPは一人の聴き手として接したい。これを自分の音楽に引き入れると半端じゃない影響を被り自分の音楽を失う恐さがあるからです。
ただでさえ僕はELP病予備軍」の一員であることを認めなければなりません。
自分の音楽を聴くと、あちらこちらにキースの音楽から得たフレーズが散らかっております。それはライブの聴き手が鬼聴すれば「もしかしたら気が付く?」というレベルのものですが。
ネタバレをしてしまいますと、タルカスのテーマは基本5拍子です。僕が最も好きな変拍子ですが、そこに唐突に3拍子系(もしくは3連符)を捩じ込むようなところです。
この3拍子をキース・エマーソンマルチトニックシステムという、全てが主和音(トニック)の連鎖(通常のコードプログレッションとは全く異なる進行)を採用して弾いているわけです。
僕は上記テクニックを「是非自分もこのように、、、」と思って作為的に使用したわけではないのです。何時の間にか自分の脳のどこかに巣食っていて、別な形で無意識に使っていたということになり、大分時間を経過してタルカスを聴いて「あぁ、、やっちゃった!」と気が付いたのでした(笑)。そういうことで「ELP菌の感染力の強さには呆れてしまう」ということになるのでした。まあ、、一種の猛毒ですよね。音楽感染レベルに指定した方が良い。"キース旋律の謎"
は解明出来ませんが、しかし不思議であることが、そのままの状態で続くのも素敵な事ではないか?と思うのです。
僕にとってELPはイメージの世界を旅する"新型の乗物"みたいなものです。
決して色褪せることのない、この先ずっと心に置かれる音楽。
〈加筆・修正02 2021.5.5〉

うーん、、、ケイトブッシュの今「50 Words for Snow」

ケイト・ブッシュ新作果たして?

執念深く聴き続けております。若干印象が変ってまいりました。ですのでこの記事を修正、加筆したいと思います。加筆したところは、赤字にて表示します。

ケイト・ブッシュの好物は「マンゴー」です。

今も変わってなければ。

昔、渋谷陽一氏インタビューの「お好きな食べ物は?」の回答。

久しぶりに聴いた。

ケイト・ブッシュはたまにもの凄く聴きたくなり、しばらく聴いている。そしてプツリと聴かなくなり、またしばらくして聴くという繰り返しとなる。

これはビートルズと似ている。

ピンクフロイドやイエスも大体そう。イギリスのこうした捻りの利いた音楽は、中毒性があるのである。

そして、この新作。音楽ファンでは賛否両論のようだが、そりゃそうだろう。

聴けば、まずはうーん、、と考えてしまう。

この作品に「魔物語」と比較して優劣を付けてしまうというのは違う気もする。

気持ちは大変分かるのだけれど。

向いているところが違っており、本作は聴いてすぐ分かるようなサウンドコンセプトが在るわけではない。

シンプルなピアノを中心に置いて勝負している。自分のこれまでの指示を受けて来た要素をことごとく封印して「音」そのもの、音の使い方で成立させようとしている。

それはそれで立派なことだ。

例えば1曲目で僕はふとメレディス・モンクを思い浮かべたが、もしかしたらケイト・ブッシュはこのヴォイス・孤高の存在に共感を持っているのだろうか?

ロックから離れて、ジャズや現代的な方向に活路を見出そうとしている事を伺わせる。

これが計算されたものであり、何度も聴き込むと腑に落ちるとこが出て来るのかも知れない。1曲目のピアノのバッキングフレーズ、2曲目のコーラスの使い方(これは「愛の形」でも出現するけれど、更に押出しを強くしたものだ。)など何度か聴いていると次第に共感が沸いて来る。

また、これまでの孤高の存在とも言えた旋律とハーモニーは確かに聴こえてはくるが、その音の出方というのが大人しい。その大人しさの裏に彼女が今後目指す境地が見え隠れしている。音が前に出て来るというより奥に(遠くに)後退していくように感じられるが、それが果たして音楽としての後退を意味するのだろうか?

違うと思う。迷わない音こそ良き音だとは思うが、試行錯誤と迷いがある音を真っ向から否定することもないだろうと思う。音楽には、屈折したり作り手本人も気付かない皮肉なところがあったりするから。

矢野顕子さんがおっしゃっていた「自分の限界」、、勿論ニュアンスは違うだろうけれど、天才ケイト・ブッシュであっても年を重ね、同じような壁を自覚し試行錯誤しているのだろうか。アーティストは年を重ねるから迷いが少なくなるというのではなくて、むしろやって来たことがオーバーフローしてしまい先が見通せなくなるのかも知れない。年をとってむしろ悩みは膨張していくのかも知れない。

彼女は、僕の女性ヴォーカルの中では頂点に近い女神のような存在です。本アルバムの本当の評価はもう少し待った方が良いのかも知れません、、、という柔らかな捉え方で行きたいと思います。少しづつではありますが、受止めるようになって来ました。

本作を聴いた後「魔物語」を聴きました。

天才が真空パックで届けられたような音、躊躇の欠片もなく何のハードルもなく軽々と展開されるその音楽。

溜息が出てしまいました。しかし本作もまた彼女の作品なのです。確かに良さが伝わり難いと感じます。音が奥に行っている感じがありますし。しかし長く作り手、歌い手として時間を重ねて来た何かがこのアルバムにはありそうです。

長い時間をかけて接して行きたいと思います。