ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

山下洋輔トリオ/キアズマ・聴き手の驚愕が伝わる

聴くのは、その日の体調と相談してから。

何とも酒池肉林というのか、まるでフェリーニサテリコンのようなコテコテの世界が展開されている。猛然と突き進む密度感が飽和したままの音の壁。ここまで突き抜けているとある意味、変な爽快感すらある。耳を峙てると実は、ピアノの音使いに深く考え抜かれた形跡があり、それはテーマや冒頭部分に垣間みることが見える。ピアノを打楽器と捉え、轟音の肘打ち連発は、ドラマーやサックスと対峙し、そして音楽を構築するピアニストとしての明確な回答であろうと思う。同じ鍵盤奏者でありますので、この辺はとても理解出来るところです。ライブにおいて鍵盤楽器PAや周辺機材に負けてしまい、他の爆音楽器の下側に潜り込んでしまうことが多い。それを回避するには、共演者を変えるか(笑)演奏法自体に工夫することが不可欠であろうことは言うまでもない。
それにしても、ここで感心するのはドラムのアプローチであり、ジャズドラマーがドラムという楽器のひとつの規範であろうことがよく分かって来る演奏内容です。少し長過ぎるドラムソロ(あくまでも僕の感じ方です。)を抜かせば、これという気になるところはなく、この大騒ぎで喜ぶ聴き手と共に舞い上がって行くのが本作通常の聴き方でありましょう。
しかし、不思議なのは、この音楽の根底にあるものだ。
山下洋輔さんは、この音楽をやる時に、一体どういうモノをイメージしているのであろうか?
例えば僕にとって、こういう根底にあるモノ、その正体ということであれば意外に坂本龍一さんの方が掴みやすい。
それは、もしかすると人間の本性というのか、本能や生理的なところに訴える音楽であり、受け取るイメージは聴き手一人一人に委ねるというスタンスのものなのか?とも思える。もしくは明確なテーマが存在しており、だからこそあのような世界になっているのかも知れないけれど。僕は山下洋輔トリオの作品は若い頃から定期的に沸き上がる頃合いというのがあって、このそこそこ長い人生においてポツポツと触れて来た方だと思う。しかし、その音楽の根本的なところが掴めないでいるような気もする。というか根本的なところなど、どうでも良いのか!(笑)
音楽的には、この三人の音の会話の密度感が凄い。こんなに細かいところで深堀するのか?と言う程に音の交差は鋭く、聴くのに大変な力が必要となる。
先日、風邪を悪化させて会社の昼休み、コレを聴きながら昼寝をしていたら、更に悪化させてしまいました。これは、アマゾンのコメント欄に「その日の体調」と相談してから聴いた方がイイかも、、というのがあり、それを拝見した時は「軟弱なやっちゃ!」と鼻で笑ったものが、自分も数日経たず実感した次第です。
それだけ、毒性と轟音が凄く、どーしたの?このオッサン達、、という1Lで足りるかも知れない音楽とも言えます。
変な表現ですが、凄くもあるけれど、どこか滑稽なところもある。暗くならず解き放たれているというところがヨーローッパでも評価を受けたところでしょうか。

一応、簡単に説明を入れますと本作は1975年(まだ僕が田舎で遊び惚けていた時代です。)ドイツ・ハイデルベルクにおけるジャズフェスティバルライブとなります。
ピアノは轟音と右手と左手の高速に繰り出す連打で大変なことになっておりますが、紡ぎ出されている音自体は決して野蛮なものではなく、実はピアノらしい音を描いております。この辺は山下洋輔さんが少年期にバイオリンを習っていたことや国立音大において作曲を専攻されていたことが理由としてあげられるかも知れません。それにしても興味深いのは、テーマのユニゾンなど僅かに表出するテーマはジャズというよりプログレに聴こえてしまいます。フランク・ザッパ辺りでしょうか。そう言えば、少し前にエリック・ドルフィーを聴いた時に同じようにザッパ方向の色合いを感じたものです。
年配の方達で(僕も充分に年配ではありますが)ジャズはこのようでなければいけない!という頑迷に考える集合体があります。例えば、ジャズにおけるドラムのスィング感とか、そのリズムアプローチにおいて。しかし、音楽において「このようでなければならない!」という物言いは個人的には好まない。
そして、本作が、そういった頑な考え方、凝り固まった観念的な思想を打ち砕く音楽に感じられるところが最良のポイントと思います。

ドイツ音楽はバッハ、ベートーベンに代表される羨ましくなるようなルーツがありますが、面白いことに今に生きるドイツ人達はその「伝統」を壊すことに一生懸命だったりする。そのドイツに於いて、これだけの指示を集めたことは何やら深く考えさせられるところがあります。Youtubeに日比谷野音でキアズマを演奏する三人の姿を拝見出来ますが、出音は根本的に同じではあります。が、研ぎ澄まされた音、鋭利なリズムというところでは若き日のハイデルベルクバージョンに軍配があがります。やはりこうした力技の必要な音楽は贅肉の付いてしまったお父さん達では厳しいところがあるのかもしれません。(坂田明の紡ぎ出すフレーズが年齢を重ねただけの新味が感じらたところは良かったように思います。)
余談ながら昔、池袋西武百貨店にスタジオ200という音楽ホールが併設されていた頃、坂田明さんが客として来場されておられました。加古隆さんのライブだったかと思いますが、すると海外から訪日されていた大柄な女性から「サカタサーン!」と声をかけられておりました。彼女はもしかするとドイツ人であり、彼らのハイデルベルクライブを聴いたことがあったのかも知れません、、、と想像したりする僕なのでした。