ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

やはりグールドでしょう「バッハ・パルティータ」

音大2年生時、課題で弾いた4番は今も心から離れない。

パルティータの魅力に気が付いたのは、もしかすると最近なのかも知れない。
バッハは他の作曲家とは異なり、敷居の高さ、敷居の種類?が違うという気がする。
その中でもこのパルティータは聴いて難解ということはないが、なかなか入り込むところまで行かない強敵であります。
しかし、そこを少しだけ我慢して聴き続けると、そのとてつもない旋律の美しさとオリジナリティ(オリジナリティとバッハに対して言うのは失礼という話もあるか、、笑)にハマってしまうのであり、自分の中ではスルメのような作品(失礼)ということになっております。
クラシック音楽の場合、作曲家と聴き手の中継点であるピアニストが必要となるわけですが、バッハの場合は弾き手が限られるところがあるにせよ、どのピアニストで聴くのか?他の作曲家以上にポイントなのかな?と思います。
これは、個人的見解なので、聴く人によるものだとお断りした上で述べますが、ピアニストによっては作品力が来ない!と感じる場合も少なくないのです。
それが誰もが知る巨匠であっても、、、です。
好みと言ってしまえば、それまでですが、バッハほど顕著な例はないと思います。
例えば「平均率」であればグールド、ニコラエワ。パルティータの本作グールド以外では、昔先生のご自宅で聴かされたワイセンベルグのものが癖が強いものの、随分と魅かれるところがありました。
しかし、本アルバムのグレン・グールドは他のピアニストとは明らかに一線を隔てたところに位置しているイメージがあります。というか、グールドの芸風ってのが作曲家に関係なく何を弾いてもその特殊性から良くも悪くも別世界というわけですが。

パルティータはいくつかの作品の集合体です。全6曲となりますが、それぞれ自由な作風で小規模な作品が連なっております。プログレなんかで組曲と言うと少し恥ずかしく、古臭いイメージを持つ音楽ファンも少なからずおられると思いますが、バッハの組曲は大きな声で言ってもらって構わない恥ずかしくない真の「組曲」と言えましょう、、笑
導入部でも名称が共通するわけでもなく、プレリュードというのもあれば、序奏という意味を持つオーバーチュアと表記されているのもあります。
最後に「ジー」と呼ばれるテンポの速い、バッハならではのモード的で緻密な音の重なりを持つ作品が置かれます。Youtubeでもグールドで検索すれば、聴くことが出来ます。休符となって空いている左手で指揮の動作をするなど、笑ってしまうところがありますがグールドらしく音の出し方、リズムの取り方が他のピアニスト達ではとても真似出来ない世界が展開されております。独特なスピードを持ち、音楽が豊かに響いているのはパルティータでも同様で、まるで自分のオリジナルのように軽々と歩を進めて行きます。音に羽が生えているのか?と錯覚するほどに軽快、かつ透明な音です。
僕は、このパルティータ・4番を音大2年時にテスト課題で挑戦しましたが、大変苦労したこともあり未だ心に深く刻まれたままです。
課題曲テストのルームではピアノ講師10人程が片側に並んで座っており、パルティータから「2曲」選択して弾くために「くじ引き」が用意されておりました。僕は「アルマンド」と「ジーグ」ということになりましたが、アルマンドはともかくジーグは何しろ自分のテクニックに挑戦するつもりで速いテンポでアプローチすることに拘っておりました。ジーグはその超速テンポと、的確なリズム、重層的かつ緻密な音使いを彫刻のように描き分けるイメージで演奏しないと形にならないのです。
いただいた点数としてはそこそこでしたが、しかしこのグールドのテンポ感、描き出しはまるで違う曲を聴いているかのようです。
平均率もそうですが、自分の弾いた後グールドを聴くと全く違う曲に聴こえてしまう。他のピアニストでそういう事象が起こるのは「ホロヴィッツ」辺りがそうです。
バッハという、クラシックから現代音楽までのヘソにあたる部分、起点でありながらも終点というのか無限でもある宇宙人・作曲家。
この底知れない懐に飛込み、ひとつの音楽として成立させるには、同じく別な星に住むグールドのような変人でないと難しいのでしょう。
余談となりますが、グールドの鼻歌?が嫌いで聴かないという方もおられます。弾きながら「フーンフーン」って歌うのですね。特に旋律的なところになると盛り上がってくる(笑)僕は本当に個人的な好みなのですが、元来は自分の演奏する音以外に歌とか、雑音を立てる演奏家をあまり好まないです。フォームに関しても動作の大きい派手な形は苦手です。例えばせっかく音楽自体は好きなのにキースジャレットなんかは駄目なんですよね。ファンに叱られそうで、先に謝りますけれど。しかしどうしてなのか、グレングールドの煩い鼻歌は意外に演奏と一緒に聴けてしまいます。一体どうしてなのか?これは間違いなく根拠があると思うので、時間のある時に考えてみたいと思います。何か大切なことのような気もしますので。

そうそう、忘れておりましたがバッハを弾くピアニストとして日本を代表する天才がおりました。高橋悠治!!!彼のバッハもまたオススメです。

《2020.12.20 加筆・修正

天才のごった煮/Beatles「ホワイトアルバム」

良き作品ほどレコードで聴きたくなる。

ビートルズファンなら誰でも知っているアルバムです。
僕にも高校生の息子がおりますので感じるところですが、昨今の中高生は(僕の時代と比較すると)あまり洋楽を聴かないです。
「最近面白い音楽ないんだよね!」と嘆く君にはコイツがオススメです。
今風に言えば「このアルバム、ヤバ過ぎるわけです!」
何も新しい音楽が新鮮で面白いとは限らないと。自分が知らないだけ。うっかり通り過ぎていただけ。
そういうのに限って凄いことになっているわけです。本作みたいに。

ビートルズ・聴いた回数ベスト3で言えば、、

1.Revolver

2.Beatlrs(ホワイトアルバム)

3.Abbey Road

これはイメージですが、それほど遠くないと思います。
おっと、、、失礼、、このどこかに「Let It Be」が入るか!!
本作の中で人気の作品は例えば「Black bird」がありますが、これと同じようにアコースティックでありながらもう少し捻っている「Mother Nature's Son」があります。これはビートルズではなく、ポールが一人で制作したものです。もう最強の美メロですね。高校時代、本作に入り込んだ起点となった曲です。
そして、イチオシは「Sexy Sadie」です。このハーモニーと捻ったメロは一体どこから来るのでしょうか?
クレジットはポールとジョンになっておりますが、これはジョン主導で作られたようです。まあ確かに言われてみればジョンのセンスでしょう。
ポールと比較するとジョンの作風はどこか頼りな気で、脈絡のないところがある。
つかみ所がないというのか、、でもそこが何とも心に来るわけです。ただ、この作品も歌詞を理解して聴くと、皮肉が強くて印象が変って来るのかもしれません。「導師マハリシ・マヘシ・ヨギに幻滅した!」というところから来ている歌詞なのですが、こういう内容とこれだけの"音造り"との関係性は実に興味深いです。数多ある他バンドと、ビートルズを一線隔てているのが「こういうところ」なのかな?と思うのです。
ビートルズの多くの楽曲に言えることですが、さしてテクニックのあるギターではないのに、作品を底上げするカウンターラインは、意味のない長尺のギターソロでウンザリの(それもスケールが全てペンタトニックという、、笑)ソロを涼し気に一蹴するところがあり、痛快です。
面白音楽を作り上げるためには、テクニックも必要です。しかしそれ以上に必要なのは、明確なビジョンとそれを具現化するアイデアです。
ホワイトアルバムはそれが満載されている。
しかも、アルバムの成立具合が、子供みたいに何も考えずに、ただ自然発生的に次々に音楽を並べただけで、作為性が感じられない。つまりプロデュースされていない!演出の感じられない丸裸な音楽。
あの版画の棟方志功みたいなものだろうか。
一人一人の個の表現が大袈裟な形で突発的に出現するような感じ。バンドのまとまりとか、曲順を緻密に考えて、、、等、通常のバンドが考える要素は全て無視。
目の前を轟音を立てて次から次へと見たこともない乗り物が通り過ぎて行くようだ。
信じられない程デリケートな曲もあるが、しかし、作品同士が火花を散らして戦っているようでもあり、本アルバムを聴いていると呆れてしまうか、空いた口が塞がらなくなる!という状況に陥ります。
そして、本作全体を眺めると何故か「
Revolver」がオーバーラップする。
僕はこの二作には近似性があるように感じ、それがまた気持ちの良いことなのです。
凄いことは確かに凄い。
でも、決して熱血じゃない。温度感・湿度感は北国で過ごす晩夏のようです。
余談になりますが「while my guitar gently weeps」で弾かれるギターソロは、エリック・クラプトンです。高校時代「ジョージも本気出すと凄いよね!」と友人と感心しておりましたが、可愛い勘違いでした。

"作曲家" チック・コリア / 妖精

チックコリアの中では最も好きな作品

チックコリア さんがお亡くなりになりました。自分でも驚くほどロスが激しいです。まいったな、ライブ直前なのに。でも、これでは御大に叱られるでしょう!自分の柔な精神に喝!を入れねば。


本作を初めて聴いたのは高校3年生。脳内には女の子と音楽しかなかった良き時代となります。NHKFM「朝のリズム」という番組がありまして、一瞬でスピーカに耳が行ったことを覚えております。すっかり入り込んでしまい学校に遅刻してしまいました(笑)
そして何故かこのアルバムを勝手に「ELP」の新作と決めつけて、しばらくは彼らがジャズ方向に舵を切ったものと考えておりました。バカですねぇ、、そしてそんな自分が可愛い
。でも、気持ちは痛いほど分かるというもの。この作品はおそらくチックの数多き作品の中で最もプログレに寄った内容と思われます。勿論、チックのあの透明感溢れるピアノの音は健在であり、ジャズ的な要素が少ないわけでもない。しかし、それでも全体を聴き終わった後に残るのは作・編曲家としての音楽家・チックコリア、ジャンルを脱したニュートラルな理想的な音を聴くことが出来ます。
僕は今もこのアルバムの魅力を感じることが出来ます。
聴く時間帯で言えば夏の早朝でしょうか。まだ涼しげな短な時間帯。冒頭のゲイル・モランのヴォイスが美しい導入から2曲目のリズム隊とピアノの織り成す颯爽としたサウンドの流れ方が何とも素晴らしく、上手な形容が出来ない自分の言葉足らずが悲しくなります。
サウンドが古く感じるという理由から評を下げる方も少なくないですが、僕はそうは思わない。サウンドを支える最も大切な要素は何と言ってもベースです。

このベースには、アンソニー・ジャクソンエディ・ゴメスというエレクトリックべース・ウッドベース、それぞれの世界を代表するベーシストを配しております。そして時折("ムーグ"で弾かれたのであろう)シンセベースが聴こえます。このベースのカラフルなサウンドとピアノのバランスが、他では聴く事の出来ないグルーヴ感を押出していると思います。
この時代「マイ・スパニッシュハード」「マッドハッター」と本作を合わせてチックコリア「フュージョン3部作」と言われたものですが、僕はこの「妖精」を最も(他二作も傑作ではありますが)好みます。
それにしても、ここまで作品力に注力したアルバムはチック・コリアとしては珍しいです。ジャズピアニストは通常、演奏を聴かせるということが主眼で、作品の力で押すというのはなくはないけれど稀な事と言って良いかも知れない。主題においては美しい旋律を持つものも少ないないのですが、、。
本作は、チック・コリアが作曲家としてアプローチしている姿が映し出されています。その辺りが、僕がELPと勘違いした理由なのかな?と思いますし、僕が最も好きな作品がコレ!というのもまた同様では?と推測しております。
ライナーノーツには「最新の16ビートを駆使するスティーブ・ガッド」(笑)という(正確な文ではありませんが)説明がありましたが、こういうところは時代を感じさせるところです。またシンセサウンドもまた同じく。
しかし、作品としてその内容をみたとき、この珠玉の楽曲達は今現在でも生き続けることが出来ると思いますし、新しい音楽を渇望している音楽ファンにも是非触れていただきたいと願うものです。
表層的な部分だけではなく、そのあらゆる要素、作品に寄り添う緻密なリズム隊と、魅力的なハーモニーと旋律。
そして全体を一塊で眺めたときのアルバム「妖精」というイメージ。それは、チックコリアの他作品では見受けられない確固たるものを感じます。
ジャズは、メンバーを解き放つものです。本作はチックコリアの作品のために演奏しております。それはクラシック・現代音楽のようでもあり、ジャズと呼ぶには少し違うところも感じられますが、しかしジャンルというものに縛られない自由な発想は音楽家であれば必須のものかも知れません。
ただ、難点をひとつだけあげれば、コンセプトがあまりにハッキリしているので、聴く側のイメージが限定されるという部分があるかも知れない。
(しかしこのイメージが限定された音楽を好む方も多いのです。それは結局、音楽の好みということになります。)
妖精はたまに聴きたくなる。それはちょうどイエスの「危機」が聴きたい!というのと同じくらいの頻度です(笑)それも無性に聴きたくなる。どうしてだろう?サウンドに秘密がありそうだけれど、何れにせよリリースされてこれだけ年月の経過したアルバムとして凄いことだな、、と尊敬するしかない自分です。チックコリア の足元にも及びませんが、少しでも近づけるように精進します。チック、今まで楽しい音楽をありがとう!   (2021.02.13 加筆・修正)

ELP「タルカス」/いつも心に置いておきたい

キース・エマーソン亡きこの世!

キース・エマーソンもグレグ・レイクも故人であることが未だ信じられない自分です。僕が「ELP」に初めて触れたのは高校時代、1stアルバムだった。その後、彼らとしては少し地味な存在とも言える3作目の「トリロジー(内容は決して悪くない。今聴くといぶし銀のような存在かも)を聴いたのだが、何故か名作である本作は後回しになってしまった。理由は分からない。皆があまりにタルカスが凄いと騒ぐものだから、根っから天の邪鬼な僕はわざと飛ばしたのかも知れない。しかしながら、結果は本ページの圧倒的字数でご理解いただけるかと(笑)

余談になりますが、高校時代の僕はチック・コリアキース・エマーソンをゴチャゴチャにしており、当時愛聴していたNHK/FM「朝のリズム」という音楽番組で流れていたチックの「妖精」をELPと思い込んで「ELPも随分ジャズ的なアプローチをするものだ、、!」と感心しておりました。この件は、チックコリア「妖精」のページで確か触れておりまして、チックとキースの近似性の感覚は今も続いているところがあります。しかし、それは「似て非なるもの」が正しい見方かも知れません。キースはやはり下地に横たわるのは「バッハ+近現代を中心とするクラシック全般」であり、チックは芸風は広いですが「ジャズ」ということになるでしょう。

昨晩、久しぶりに会社の帰り道、この大作である1曲目を聴いてみました。
驚くべきは自分の中でイメージが劣化していない真空パック状態であることです。
それどころか新しい魅力を感じる程でした。そしてその魅力とは果たしてどのようなものなのか?ということになります。

まず、ELPと言えばキース・エマーソンの超人的なキーボードパフォーマンスが重要なポイントとなります。そりゃまぁ、、確かにそうですよね!
けれども、、、。
音楽ファンも音楽評論家も、その超人的な演奏で評を終始させる傾向がある。勿論、グレグ・レイクのヴォーカル(因に僕は彼のヴォーカルがとても好みではあります。)、カール・パーマーの手数ドラムを追加するのは、これまた必須事項。しかし、こうしたメカニカルなサーカス芸的な扱いで終始するのは個人的に好まないのであります。ELPのどこを愛するのか、これは振り幅が大きいのかも知れない。
僕だって、長き時間の中でポイントが変化して来たような気がする。
最近は、専らキース・エマーソンの作曲内容に興味が行きます。オルガンで弾かれるパートで顕著にですが、この独特な天然カラーをゴチャゴチャにミックスしたような不思議な世界観は彼のどこから来るのでしょうか。

それは、彼の表現したかったヴィジョンと、作曲スキルの混然一体となった結果ではないかと想像されます。それは彼の生い立ち、そして見聞を通して拘っていた曰く言葉にはし難い何かだと思うのですが、、。
作曲の前段階にある絵柄、心の動きはどのようなものだったのだろうか?興味深くはあるのですが。特に本作タルカスでは、そのイメージは強く分かりやすい形で創出されているのは間違いないところでしょう。
キーボードパフォーマンスにおいては、クラシック音楽の起点とも言うべきバッハと、進行形である現代音楽という両端を取り入れていることは確かですが、しかし現代音楽と言っても、除外されるものも多いと思う。
本人も言っているので、これは確かだと思うけれど、アメリカを代表するコープランドの影響はあるみたいです。このコープランドの影響というのが僕には分からなかった。しかし昨晩"Eテレ"で聴いたデトロイト交響楽団で聴いた交響曲3番、これで、ようやく「あっ、、なるほど!!」と膝を打ったわけです。特に分かりやすいのは4楽章のファンファーレ・パート(これは「庶民のファンファーレ」と呼ばれるものです。)

まるでELPの作品をオケが演奏しているような錯覚に陥りました。しかし、このコープランドからの影響と言っても、どのような流れで自分のセンスに取り込んだのかは不明です。楽譜とレコードで研究したのか、好きで聴いているうちに自然な形で感性に入り込んだのか。おそらくは後者ではないか?と思うのですが。また後者であったとすると、その思い入れは、咀嚼吸収したのちにアウトプットされたものになると思います。私ごとで大変恐縮なのですが、メシアンという作曲家をご存知でしょうか。僕の敬愛する音楽がここにあるわけですが、どうしてもこの作品を取り入れ単なる猿真似ではない自分なりのスタイルとして取り入れたいと強く願ってここ15年近くやってきました。しかし並大抵のことではないです。まず猿真似までも行かない(笑)キースの音楽力は僕などとは桁が違います。コープランドから得る時間はコンパクトなものだったでしょう。彼のイメージ通り、弾き倒して自分のものにしたに違いない。
ELPをコピーして演奏する同業者は意外に多いです。気持ちは痛いほど分かる、、笑。
でも、僕はそれは絶対にやらない!!
ELPは一人の聴き手として接したい。これを自分の音楽に引き入れると半端じゃない影響を被り自分の音楽を失う恐さがあるからです。
ただでさえ僕はELP病予備軍」の一員であることを認めなければなりません。
自分の音楽を聴くと、あちらこちらにキースの音楽から得たフレーズが散らかっております。それはライブの聴き手が鬼聴すれば「もしかしたら気が付く?」というレベルのものですが。
ネタバレをしてしまいますと、タルカスのテーマは基本5拍子です。僕が最も好きな変拍子ですが、そこに唐突に3拍子系(もしくは3連符)を捩じ込むようなところです。
この3拍子をキース・エマーソンマルチトニックシステムという、全てが主和音(トニック)の連鎖(通常のコードプログレッションとは全く異なる進行)を採用して弾いているわけです。
僕は上記テクニックを「是非自分もこのように、、、」と思って作為的に使用したわけではないのです。何時の間にか自分の脳のどこかに巣食っていて、別な形で無意識に使っていたということになり、大分時間を経過してタルカスを聴いて「あぁ、、やっちゃった!」と気が付いたのでした(笑)。そういうことで「ELP菌の感染力の強さには呆れてしまう」ということになるのでした。まあ、、一種の猛毒ですよね。音楽感染レベルに指定した方が良い。"キース旋律の謎"
は解明出来ませんが、しかし不思議であることが、そのままの状態で続くのも素敵な事ではないか?と思うのです。
僕にとってELPはイメージの世界を旅する"新型の乗物"みたいなものです。
決して色褪せることのない、この先ずっと心に置かれる音楽。
〈加筆・修正02 2021.5.5〉

うーん、、、ケイトブッシュの今「50 Words for Snow」

ケイト・ブッシュ新作果たして?

執念深く聴き続けております。若干印象が変ってまいりました。ですのでこの記事を修正、加筆したいと思います。加筆したところは、赤字にて表示します。

ケイト・ブッシュの好物は「マンゴー」です。

今も変わってなければ。

昔、渋谷陽一氏インタビューの「お好きな食べ物は?」の回答。

久しぶりに聴いた。

ケイト・ブッシュはたまにもの凄く聴きたくなり、しばらく聴いている。そしてプツリと聴かなくなり、またしばらくして聴くという繰り返しとなる。

これはビートルズと似ている。

ピンクフロイドやイエスも大体そう。イギリスのこうした捻りの利いた音楽は、中毒性があるのである。

そして、この新作。音楽ファンでは賛否両論のようだが、そりゃそうだろう。

聴けば、まずはうーん、、と考えてしまう。

この作品に「魔物語」と比較して優劣を付けてしまうというのは違う気もする。

気持ちは大変分かるのだけれど。

向いているところが違っており、本作は聴いてすぐ分かるようなサウンドコンセプトが在るわけではない。

シンプルなピアノを中心に置いて勝負している。自分のこれまでの指示を受けて来た要素をことごとく封印して「音」そのもの、音の使い方で成立させようとしている。

それはそれで立派なことだ。

例えば1曲目で僕はふとメレディス・モンクを思い浮かべたが、もしかしたらケイト・ブッシュはこのヴォイス・孤高の存在に共感を持っているのだろうか?

ロックから離れて、ジャズや現代的な方向に活路を見出そうとしている事を伺わせる。

これが計算されたものであり、何度も聴き込むと腑に落ちるとこが出て来るのかも知れない。1曲目のピアノのバッキングフレーズ、2曲目のコーラスの使い方(これは「愛の形」でも出現するけれど、更に押出しを強くしたものだ。)など何度か聴いていると次第に共感が沸いて来る。

また、これまでの孤高の存在とも言えた旋律とハーモニーは確かに聴こえてはくるが、その音の出方というのが大人しい。その大人しさの裏に彼女が今後目指す境地が見え隠れしている。音が前に出て来るというより奥に(遠くに)後退していくように感じられるが、それが果たして音楽としての後退を意味するのだろうか?

違うと思う。迷わない音こそ良き音だとは思うが、試行錯誤と迷いがある音を真っ向から否定することもないだろうと思う。音楽には、屈折したり作り手本人も気付かない皮肉なところがあったりするから。

矢野顕子さんがおっしゃっていた「自分の限界」、、勿論ニュアンスは違うだろうけれど、天才ケイト・ブッシュであっても年を重ね、同じような壁を自覚し試行錯誤しているのだろうか。アーティストは年を重ねるから迷いが少なくなるというのではなくて、むしろやって来たことがオーバーフローしてしまい先が見通せなくなるのかも知れない。年をとってむしろ悩みは膨張していくのかも知れない。

彼女は、僕の女性ヴォーカルの中では頂点に近い女神のような存在です。本アルバムの本当の評価はもう少し待った方が良いのかも知れません、、、という柔らかな捉え方で行きたいと思います。少しづつではありますが、受止めるようになって来ました。

本作を聴いた後「魔物語」を聴きました。

天才が真空パックで届けられたような音、躊躇の欠片もなく何のハードルもなく軽々と展開されるその音楽。

溜息が出てしまいました。しかし本作もまた彼女の作品なのです。確かに良さが伝わり難いと感じます。音が奥に行っている感じがありますし。しかし長く作り手、歌い手として時間を重ねて来た何かがこのアルバムにはありそうです。

長い時間をかけて接して行きたいと思います。

クセナキスは"クセ"になるか?/プレイヤード

打楽器のアルバムであるが先行したイメージは持たない方が良いかも知れない。

ヤニス・クセナキスルーマニア生まれ、ギリシャ系フランス人の作曲家。

僕はこのクセナキスほど、ハードルの高い作曲は居ない。

この作曲家と比較すれば、メシアンも、武満徹も、そしてリゲティも実にポップで分かりやすい。

僕は音楽というものに平易であるとか、難解であるというベクトルを持ち込む意味を感じないが、それでもこのクセナキスだけは別だ。

しかし、そのクセナキスの数多ある作品群の中で打楽器のために書かれたものだけは素直に受け取ることが出来る。

クセナキスの打楽器作品を聴いたのは大分前に、勤務している会社に併設されているホールのランチタイムコンサートという企画で、森晴子氏の演奏による「ルボン B」というのが最初だった。

もちろん、それまでにこの作曲家の作品に触れたことはあった。コンピュータを使用したもの、「ヘルマ」をはじめとするピアノ曲など。

しかし、どれも駄目だった。受け付けることが出来なくて「クセナキスの良さというのは理解出来ない」という結論に達していた。

それが、このホールで聴いた音楽はどうだろう、、その明快で生き生きとした内容に、これが同じ作曲家か!!と驚いたわけです。もしかすると彼女の演奏がまた良かったのかも知れない。あの作品はどうやらある程度(範囲)の自由が許されているところが見受けられたので。

つまりクセナキスの真骨頂というのは、その作品内容の裾野広さ、節操のなさ(笑)、そういうことではないかと個人的には思う。

本作品はストラスブール市からの委託によるものだ。4作品の収録だが、それぞれが個性を際立たせており、存在感たっぷりである。

ガムランのパロディか?というような部分があったり、「踏切警報機のズレ」を再現したかのようなリズムを主眼においた作品でなければ有り得ないアプローチもあって実に楽しめる。また、金属の響きが美しく、全体を通して自分なりのイメージを当て嵌めて想像の旅に出ることが出来る。

これなら素直に聴けば、誰でもその楽しさ、面白さに気が付くかもしれない。

だからと言って、クセナキスの他の作品も大丈夫か?と言えば、僕ならしばらくは打楽器モノだけにしておきたい。

クセナキスは、そもそも建築家だ。

また、メシアンの提案から、その数学的なところを音楽に積極的に取り入れるようになったと言われる。

推測だが、リズムに殆どの重心が置かれる打楽器は(音程が無いという事ではない。)、数理的であり複雑なパズルのようでもある。こうしたことから、クセナキスにとって(楽器の中では)最も自己表現を行いやすいところが在ったのではないかと思う。本アルバムを聴いていると、自分の作品のどこがイメージ表現なのか?という疑問が沸き起こる。

この徹頭徹尾、虚飾を排した厳しくピュアなリズム。

どんなに雄弁に語るオケ作品にも負けてない。

(打楽器作品以外の)クセナキス作品は、例えばリゲティであるとかジャズならヤコブ・ブロのギタートリオのようにクセになって何度も聴くということは、今のところないと思う。

しかし、それは先々分からない。

大学時代、バルトークも、メシアンも駄目だった。

高校時代、プロコフィエフショスタコーヴィチも駄目だった。

そして最近、ヤコブ・ブロトリオでさえ駄目だった。

自分の音楽に対する理解、変化、先のことなど皆目見当もつかない。

だから音楽は楽しいのか♬

音は一旦外に出すべき?/JBL・Pebbles

今日は、少し寄り道です。

オーディオの中で音楽に最も近い存在であろうスピーカー。

そして、JBLって言ったらあなた、、、!!!

本日届いたスピーカがコレ。JBLのUSBスピーカ「Pebbles

昨晩、早速接続して音を出してみました。

 

昨今、音楽ファンの殆どがイヤホンで聴くのではないでしょうか。

そういう僕も同じく。

でも、本来的にはイヤホン・ヘッドホンで聴くというのは緊急用ということでありまして、つまり人に迷惑をかけないように、というスタンスです。

イヤホンもヘッドホンもとても好きなアイテムですが、しかし、それはまた別問題であります。

音は空気を伝って耳に届くものであり、だからこその音楽の立体性、素晴らしさがあるわけです。部屋に漂う音、その音を聴くのは束縛されたところがなく、実際のライブにも近いところがあるでしょう。人が飽きもせずライブ通いするのは、そこに空気(空間)があるからだと思います。

慌ただしい現代人が電車の中で耳にイヤホンを差し込んでいるのはある意味、異様な光景に見えます。時折、新興宗教みたいにも思えて来る。

僕は、音楽だけではなく、ラジオから聞こえるアナウンサーの声、そして昔からNHK/FMで放送されているラジオドラマ等もスピーカで聴きたいという曰く抑え難い欲求があり、本品を買うことになりました。

それにしても、USBスピーカとは言えJBLがこの¥5000ちょっと、という価格。

良い時代とはこう言う時に使いたいものです。

最初はペアではなく1台の値段だと思ったくらいです。それだけJBLというメーカイメージは僕の世代には絶大であります。それは例のモニターシリーズの青い筐体から来るものであり、またジャズ喫茶で昔聴いたパラゴン、スタジオで聴いた4344のライブよりもライブらしい?凄い音であったりするものです。

さて、音ですが、この価格から言って十分です。僕の使用目的には十分過ぎる出来だと思います。特にジャズでゆったりしたものなどに相性の良さを感じます。

浮遊感のあるECMの最近の音などはドンピシャです。

流石に安価ですから、音の密度感とか、広がりを求めるのはお門違いでしょう。むしろ、下に敷くインシュレータ、設置位置などを工夫するなどして補完してあげるように考えたいもの。それがまた楽しいわけです。

USBスピーカと言っても、やはりエイジングはありでしょう。もう少し馴染んで来ると評価が上がると思います。

デザインの秀逸なところも相まって、何か生活に少し潤いを与えてくれた感があります。部屋に設置する以上、それは家具と同じところがあります。例え使わなくてもそれはそこに在るわけでして、音が良いからデザインは我慢して!というのはスピーカとして失格でしょう。

こんな年寄りになって、人生初のJBL

久しぶりに若い頃に機材を買った時のようなワクワク感を憶えました。

頭ひとつ?/YESと言えば、、!

YES/こわれもの(Fragile)

頭ひとつ?何それ?

先に「危機」の記事をアップしたわけです。そのイエスの代表作と言えばこの「こわれもの」と合わせた2枚というのがベタなわけですね。

リレイヤー」ってのが同業者では多いです。大昔から。

鍵盤技術者では、パトリック・モラーツを推す人が多いですからね。

しかし、天の邪鬼な僕としては珍しくイエスの場合は、このベタ通りとなります。

楽曲の旋律、リズム、アレンジ、ジャケットのデザイン、メンバーの演奏内容、全体のサウンドイメージ、そういった様々な要素から来るインパクトという何か訳の分からない音の風みたいなもの。

それを鑑みると、この2枚ということになります。

そして頭ひとつ、というのは更にそのどちらか?となると僕は本作をとります。

「あれ?川崎さん、、意外!!」っていう声が聞こえたような気がしますが。。

頭ひとつとは言うけれど、もう髪の毛1本くらいでしょうかね。

髪の毛1本でもひじょうに重要な方もいらっしゃるのです。

ですから、その差というのは精査しないとなりませぬ。

なりませぬ、、と言えば真田丸の大蔵卿です。まあ関係ないか。

コンセプトという事を考えると「危機」ということになります。あれは全体が何かひとつのカタマリのようです。それは本作にはない強さでしょう。

しかし、この本作のあまりに魅力的な"珠玉のフレーズ祭"には叶わないわけです。

リックウェイクマンとビルブラが特に気が利いた音楽をやっており、こっそり崇めております"スティーブハウ"のとっつぁんもまあ相も変わらず孤高のキャラで生からエレキまで大活躍しております。有名なギターフレーズもあちらこちらに散見されます。

燃える朝焼け」のクリス・スクワェア操るリッケンバッカーのベースがまた唸りを上げてカッコいいですよね!!余談ながらこのタイトルを見るとどうしても「燃える胸焼け」と洒落を言いたくなるのと、あの向谷実の独特な(演奏時の)表情が思い出されるカシオアペア朝焼け」をイメージしてしまうわけです。本当に余談です、、すいません。脱線CD評とは言え、今日は特にひどいようです。

 

さて、コホン!!気を取り直しまして、、。

このようにアルバムのどこに重きを置いているのか?というところで音楽ファンのベスト10は変動するわけです。

僕は自分自身が音楽家でもありますので、どうしても同業者として何と言うか「それ分かる!」みたいな共感が欲しいのですね。

それに、ちょっと嫌らしい表現ですが、是非自分を押し倒してほしい(笑)

押し倒されて、また無理やりに抱き起こされて往復ビンタを食らってしまうくらいの(失礼)感動、驚きが欲しい。現代音楽作曲家の巨匠・クセナキスを聴いたときの、、というような表現で行きましょうか。ここはひとつ。

記憶を辿ると、僕がイエスを気に入ったアルバムは正にこの「こわれもの」でした。

「危機」は今でこそ、褒めそやしておりますが、最初はさっぱり入り込むことが出来なかった。つまり、あそこまで徹底してコンセプトを貫き通すあのアルバムに馴染めなかったのですね。ピンクフロイドの「狂気」とも共通するところです。

しかしして、今でも比較となると「危機」よりも「こわれもの」というのは、アルバムを聴いた過去、その時にヒントがあるのだと思います。

その時に、聴いていた音楽はどのようなものであったのか。生活はどのようであったのか。政治、世相も関係ないとは言えないかも知れない。

この2作は続けて聴いたのではないのです。危機の方がずっと昔。アルバムのリリースとは逆です。そんなことも関係しているような気がします。

とにかく、このアルバム1曲たりとも無駄がない。そこが立派です。

全体を見通すと、何かここでメリハリを付けるためにこういうのも入れておこうか、とか、分かり難い作品ばかりなので、ここでシンプルなバラードでも入れるか、もしくはアップテンポのロックっぽいのを入れておくか?というのが見えることが往々にしてあります。僕はそういうのが見える(聴こえる)のは少しガッカリするところがあります。そういう作為性は苦手。

本作ではそれがないですね。ボーナストラックが入っているのがありますが、僕はあれは必要ない。プラスして作品を入れなくても、というか入れない方が「こわれもの」だと思います。ボーナストラックなんか入れちゃったらバランスをこわしちゃう(笑)。

捻くれものの自分なので、愛用のiPodではボーナストラックは削除して聴くことになります。演奏も僅かに粗いと思いますし。でもこういう商品スタンスはイエスのメンバー達がもし知っているとしたら、どのように考えるのでしょうか?

少しばかり興味深いところです。

UAと草間弥生が何故か重なる/ATTA

UA/ATTA

UAは最初に聴いた時、僕の鈍過ぎる耳が反応した珍しい存在だ。先にお断りしておくと川崎タカヲというと、変拍子と現代音楽とポリリズムをバカみたいにコネクリ回して客からも周囲の音楽家からも愛想を尽かされる(笑)というイメージを持っている方がいらっしゃると思う。しかしそれは大変な誤解だ(と思う)。

僕は、J-POPも場合によっては大変好むのである。場合によっては。

昔の歌謡曲奥村チヨ朱里エイコ前野曜子、先にご紹介したトワエモアからちあきなおみ、そして荒井由美から、段々マニアックとなりPhewと来て本作のUAとなる。

楽器を演奏する所謂"演奏家"の作る音楽には自作を含めて面倒で気難しい考えを持っているのは確かだ。よって人と上手くやっていくことに難儀するし、自分もまたそれ以上に傷つくことが多い。しかし、、!

ヴォーカル/シンガーソングライターは別となる。

ヴォーカルには楽器奏者とは次元の違うところが多々あり、上手い下手という実につまらない物差しの必要を感じない、、そりゃ音痴っていうのは困ります、、否!それでも音痴のように歌う"Phew"もいるから(笑)それもまた一刀両断には否定できない。

 

UAは決して特別に歌い手さんとして傑出しているわけではないと思う。

むしろ無骨で、どこか野暮ったく、不器用そうな印象がある。

しかし、ヴォーカルにはそれが逆に作用し、飛び抜けたキャラとなるのだ。

僕は、UAの歌う曲であれば、どれでもOK。ロックから、童謡までこの人なりに驚くべき自由なアプローチで声にする。

サウンド構築に絡む裏方面子もまたそれに呼応するようにこれでもか!!とばかりに腕を振るっている。その入込み具合が尋常ではなく、ここで僕が敢えてケチを付けるとすれば、音をぶっ込み過ぎて何か飽和している感じがあることだろうか。ドラムのアプローチひとつとっても「やり切ってます」という感じで、黎明期のリズムマシンであるRoland/TR606から生ドラムまで作品に合わせたリズムアプローチ、スプリングリバーブを使っています!と分かるようにビョーンと敢えて目立つように使う。UAと音楽を造り上げるスタッフもまた自由な精神をお持ちのようだ。

個人的見解としては、もう少し曲数を削り大体10曲前後として、その余裕の出た時間を、各作品に飄々とした「微風のようなデティール」を注入したら良かったように思う。

あまりに完全にやり尽くしたところが、僕にはお腹いっぱいになり過ぎて、少々聴き疲れしてしまうのが残念なところだ。

しかしながら、たまにチョイ聴きする僕とは違う、生粋の熱いファンであれば、このくらいの押し出しが調度良いのかも知れない。

日頃、ECMの浮遊感だとか、立体の中に音を鏤めるとか、そんなことばかり考えている年寄りには、良薬なのかも知れないが。

ということで、僕はこのアルバムだったら畳の上にコロンと置いたポータブルラジオ、カセットテレコで低めの音量で流し、自分は読書とか、こうして文字入力をしているとか、そういうスタンスが程よいか、と思う。

で、時に気になる曲で、少し自分のやることを停めて耳を傾けるような。

UAみたいな感じのシンガーは兼ねてより少なくない。しかしそれは似て非なるものだ。どんどん終わって消え去って行く。しかしUAは大地に足をドーンと付けて驀進して行く。ブレの無い女性アーティストというのは音楽のみならずカッコいい。

昨日TVに出ていた草間弥生さんとダブって来る。

ギター+ピアノの難しさ/ジョン・アバークロンビー

John Abercrombie Quartet / Acade

 私事ながらギタリストと8年程音楽を共にした経験があります。

アルバムも2枚リリースしましたから、それなりに結果を出したのですが、それには次の要素があったからです。ベースレスだっためピアノの左でその役割を担当することとなったし、白紙からそういう音楽であるという現代的な音楽内容を持っていたと。「ジャズやロックから来る既成概念というものを出来るだけ排除したということにより、ギターとピアノという決して相性のよくない組合せでもそれを逆手に取ることが可能となった」と、冷静に振り返ることが出来ます。しかし、もし通常のベース在りのユニットであるとすると、、、。

ギターとピアノの相性というのが実は難しいのです。

長く活動し、またセールス的に成功した例は少ないはずです。

知られているところではパットメセニーグループくらいでしょうか。

例えば、ヴォーカルが中心位置にいて、その脇をリードギターが固める。そしてキーボードは音楽に厚みを付けるというようなロック/プログレのユニットであれば、その役割がピラミッド的に配置され聴き手の耳にも心地よく届きます。

しかし、ジャズのように楽器同士が対等な立場からぶつかり合うアンサンブルにおいては、ギターのハーモニーとピアノのハーモニーがガチャガチャしてうるさく感じられる状態になりがちです。

パットメセニーグループのライルメイズはシンセサイザーでアプローチする比重も大きく、またピアノのプレイも意識的なメリハリがあるので、そういったネガを回避していると思います。

本作は、サウンドとしてはメセニーと似たところがあります。というよりメセニーの方が影響を受けたのか。編成とメンバー構成からも予想がつくのですが、何よりポイントはジョンアバーの奏でる音色です。

ひとつの潮流と言って良い音色自体は美しいものであり、流麗な音楽の重要な要素となっております。

ただ本作の場合、僕の聴くベクトル方向は、リッチー・バイラークのアプローチとなります。この人のピアノはバックに回っていても存在が強いです。手癖で適当に持って行くタイプの多いジャズピアニストの中では違うところに立っている人だと思います。

両手で素早い駆け上がりをみせるところなど、クラシック音楽を本格的にやった跡が感じられます。ロックからだけ、ジャズからだけ、ポップスからだけ、、音楽家(特に演奏家として勝負をかけるのであれば)は単一的なバックボーンではその奏でる音楽内容がハッキリって寒過ぎるのです。

また、このバンドの音をより堪能したいのであれば、音を出来るだけ正確に抽出する、オーディオが必要かもしれない。

あーぁ、大口径のJBLで聴きたいなと、、(笑)

もしくは、そこまで大袈裟ではなくても、ヘッドホンやイヤホンにそこそこな性能な機種の用意があると聴き手の印象は変って来る可能性があります。

僕が今、試聴しているのはコンピュータ直差しでオーディオテクニカのヘッドホンM40xですが、これはモニターヘッドホンで間違いなく正確な音取りを可能とする機種です。つまり限りなく味付けというものを排した本機で聴いたところで本ブログも書くようにしています。ただ、このアルバムのようなECM中心選手の力作ですと良きスピーカで聴きたくなるのは仕方ないです。

フレーズの妙というのか、他ではなかなか出て来ないラインが描かれるところがあり、おそらく幾度か接するうちに評価の内容も変って来るかも知れません。

今朝からまた聴きなおしておりますが、既に随分印象が変って来ました。自分の鈍い感性がこのギター+ピアノの難しいところを受止め始めたらしい。更に先に、音楽の深い海に潜水しつつあるのが感じられます。

ギター+ピアノの難しさ、これは本作ECMの巨匠達はやはりというべきか、理解していたようです。繊細な耳と感性、磨き抜かれたセンスでまるで強風をさらさらと逃して行く柳の木のように涼し気に進んで行きます。

彼ら程の強者にしても、収録はキツかったのかもしれない。しかし素晴らしい旋律、ハーモニーを駆使して完成に辿りついているところが感動的です。

 

同じくECMのギタリスト、ヤコブ・ブロとの違いは興味深い。比較すれば本作はずっとジャズ方向にシフトしており、もう少し本流のところでジャズを感じつつ美しい音を耳にしたい音楽ファンには薦められる内容です。

例によってジャケットは秀逸です。一度「ECMジャケット展」とでも銘打って美術展でもやったらどう?と真剣に思ったりしますが、そのECMジャケット群の中にあっても際立つところがあります。ジョンアバークロンビーには、他に多数の作品がありますが、このECMの中心線に位置するギタリストの作品に関しましては、先々もう一度ここで触れてみたいと思います。