ピアニスト・タカの脱線CD評

筆者はFLAT1-22・天然キーボード奏者の脱線転覆の珍説が脈絡なく展開!

ゴーゴーペンギン・Gogo Penguine

なかなか得難い、飄々としたスッキリサウンド

このバンドを知ったのはおそらく3年くらい前になると思う。自分の稼働させたいバンドをピアノトリオ一択となった頃になる。
今もそうだが、ピアノトリオに関しては純粋な音楽として聴く部分をあるけれど、どこかに同じ編成の音楽をやる者として参照すべき点を意識するところがあると思う。
この本作もそういう中の一作と言って良いだろうか。
GP(面倒なので本サイトではこのように呼称します。)という何やらキュートなネームのユニットだが、内容は若干陰影に富んだミニマルミュージックを土台としたフュージョンと言ったところだろうか。ジャズとは言えないと思うし、またこの編成でジャズから比較的遠い位置で音楽をやっているのが、彼らのキャラであり強みでもあると思う。
他では聴くことの出来ない、独特なサウンドと何度か聴くとわかってくるが、構築されているライン、ハーモニーには独特な癖が感じられる。
この独特な暗さは、全て投げ出して好き!ということは(個人的には)出来ないが、全体としては好感の持てるサウンドを作り上げている印象を受ける。
本作は、彼らの音楽を更にタイトに練り上げ、虚飾を排した昔のフォルクスワーゲン・ゴルフのような(笑)作品と思う。因みに今のゴルフはうすらデカくなって幅が180cmもあるから、あくまでも初期型とお断り。
旋律と言えるラインは驚くほど少なく、むしろベースが奏でているフレーズが中心線なのか?とも思える件もあるが、それは今回彼らが行いたい新機軸の一環ということになるのだろう。最初に聴いた時は、骨組みだけで出来ているようなさっぱり加減に、物足りなさや、これで作品として完成したの?という疑問・拒否反応があったが、日を変えて数回聴いていくと、どこやら腑に落ちた妙に納得した心境となった。また、どの作品が特に出来が良いとか、中心であろうとか、通常は感じるはずの感想は自分としては浮かばないのが不思議。丸ごと1枚、これで1作品という塊で聴く流れだろうか。
これは彼らが、バンド音楽を誠実に深化させた結果ということが出来ると思う。ピアノは、このアルバムに限らず細かなアルペジョや、連打に終始することが多く、音の出し方は丁寧で綺麗なタッチをしている。まず、間違いなくクラシック出ということが言えるが、若干、レコーディング制作においてエファクティブな傾向があり、ここは若干「鼻につく」ところなのだけれど、これが上記で述べた全てが好きと無条件に言える訳ではない、という捉え方につながる部分だと思う。もう少しピアノの素の音で勝負しても良いのでは?と引っかかるところだ。
でも、そのサウンドのところは個人差のあるところであり、これを白黒ハッキリ付けるのは無意味に近い。例えば、ディレイやリバーブを殊更好む傾向のある音楽家やエンジニアが意外に多いが、また徹底して外部的な音響を嫌うデッドな音を好む場合もあり、何を隠そう僕も後者の部類に入ると思う。

それにしても、本作の個性はとても際立っている。昨今一択だったフロネシスの牙城を脅かすところがあり、人に聴かせてみるとGPの方がずっと好き!という場合が多く、人気の点ではむしろこちらに軍配か?というところだ。
ライブで圧倒的なテクニックで客を押し倒すだけが音楽でないことは勿論だが、GPは三人の合奏によって一つのイメージを表しているところに好感が持てる。テクニック的にも申し分ないが、その質はフロネシスとは全く異なり、猛々しさがなくどこか涼し気であっさりしている。まるで濃厚魚介系ラーメンと、あっさり醤油ラーメンの対決のようでもある。またエコー類を多用するものの、と言ってシンセやサンプラーの方へ向かうところはなく、あくまでもピアノトリオというところは守っている。聴き比べというのならこの2ユニットは大変興味深く面白い。機会がありましたら是非。

ソフトマシーン・Bundles 程良いBGM?

今更登場か?と音楽ファンには言われるであろう、笑

カンタベリー系って何よ?と思ったのは、僕のバンドFLAT1-22が評される時によく出るキーワードだったから。
これだけ中半端に聴きかじったバンドも珍しいと思う。
しかし、ようやく繰り返し聴けるアルバムが出てまいりました。本作がそうなのですが、しかしこれもまた間違いなく聴いてますね。冒頭のゴォーンという暗くノイジーな鐘の音は流石に心に残ってます。
つまり、ソフトマシーンって専門的にガツガツと聴かない割には折に触れて聴いており、累積回数では「上位ランク入りの不思議なバンド」ということになります。しかし、本サイトは一応はCD評サイトでありますので、もう少し知見を増やすべきと先ほどネットをさらって少しお勉強しました。
それにしても、これだけメンバーチェンジするバンドも凄いですね。脱退する中身も音楽的な内容ですが、よくこれだけ人が出入りするものだ。まるで人気の立喰蕎麦屋の風情が浮かんでしまう。またチェンジがバンドの変化と活性化に繋がって行くというのがポイント。例えば、ギターが出張ってくるとキーボードは居場所を失うという、痛いほど分かる世界。エレクトリックギターは基本リードをとって世界観を構築するので、どうしても和音楽器のキーボードは自然支える役割となる。ピアノやシンセを主戦とするのなら、ギターを入れちゃ駄目ですね。
上記はマイク・ラトリッジとアラン・ホールズワースのこと。でも、このアルバムでは何とか力を振り絞ったのか?バランスを保っており、変則的なソロやサラサラとしたしたピアノプレイにはセンスを感じますね。個人的に、マイク・ラトリッジの創る音楽には共感・好感を持つものです。
全体を通して聴くと、主旋律にも延々とリピートするバッキングフレーズにも明確な特徴があり、聴きやすい。
会社帰りなどで薄く流しておくと良質なBGMにもなり、どうしてなかなか懐の深さを感じさせます。質感としてはこれだけ遠い時代ですから仕方ないところはあります。ただ、やっている音楽自体・演奏スキルがとても高いので決して古臭いだけの音楽ではないですね。

むしろ、音質は古いのに音楽は今もって新しいところがあるという妙なギャップが面白い。
ドラム(ジョン・マーシャル)の演奏を取り出すと、現行のジャズロックや、プログレに於いては類似のフレーズが多用されており、リズムセンスの流れを作り出したという功績を感じます。まあ、作品力で頑張らないと、単にソフトマシーンの焼直しになっちゃうわけです。
ここで聴かれるアランホールズワースのギターは確かに呆れるほどです。しかし、敢えて言うなら、彼の他の演奏からすればやはり若いと思う。ただ凄いことを弾いているだけ、という言い方は語弊がありますが。こういうリズムにカッチリのった感のあるギターの方が好きだ!というコメントも見受けられますが、僕は逆ですね。彼はやはりヌメーッッッとしたどこに頭が来ているのか「不明」と言ったイメージの演奏がしっくり来ます。他のギタリストでは決して描くことの出来ない「アラン・エンヴェロープ」。
ところで本アルバムでは、昔の邦画BGMのようなところがあり、聴いて不思議なほどの懐かしさに包まれます。映画音楽には、こうしてやけに"ソフトマシーン風"だったり、やけに"ショスタコーヴィチ(近現代を代表する作曲家)風"だったりというのが散見されて笑顔になります。映画の中でもあまり重大ではない部分。街の景色、森の木々が騒ついていたりするところ、夕暮れの空など、物語Aから物語Bへのブリッジとして使われる「取り留めのない時の移ろい」が好きだし、音楽はこういうところにピタリと嵌まる。絵心のある音楽が好きな傾向が自分にはあります。その傾向と本作で作られている音楽はどこかで繋がっているのかも知れない。音数過多!これでもかと突っ込まれている割には、どこかこざっぱりとした爽やかな印象を受けます。おそらくリズムの質感から来ているような気がしますが、いずれにせよ良きバンドのキャラであろうと思います。歌はどこにも出てこない!媚びることなく演奏だけで聴かせる、野球に例えるなら豪速球投手のようでもあります。ジャズロック界の「江川卓」と呼びたい。

Memories of a Color / Stina Nordenstam

忘れていた歌を聴いてみると、、。

ティーナはスウェーデンのシンガーソングライター。最初に聴いたのは、池袋のデザイン会社の片隅でアルバイトにて働いていた時。自由にやって良い会社だったので、ラジカセ(死語か?)を持ち込んで何時もFMを流しておいたのだけれど、そこから流れて来た。
すでに会社は傾き、仲の良かった奴らは泥舟から脱出した後、僕は結婚して間もなかったこともあり、少し安定させた方が良いかと様子見を兼ねて最後の最後までそこに居たのだった。その気に入った曲が本アルバムのタイトル曲と知ったのは、実は最近。驚くべきことに数十年経過している。「随分だな!」と言われそうだけれど僕の場合こうしたことは、珍しくない事象なのである。間違えて別なバンドのCDを買ってしまったりしたことも序でに思い出しました。これほどの時を経て正しいアルバムを手にしたわけです。まあ、、間違えて別なバンドのライブを見に行ったこともあるから相当おかしい人なのでしょう。因みに本来行くべきライブは「梅津和時さんのユニット」だったと記憶。
ティーナはアルバム2枚を聴いている。えらくロックに偏り先鋭的になったアルバムもあるが、本来的なのはこのデビューアルバムであろうと思う。
聴くとビョークや、歌い方などからはリッキーリージョーンズへの近似性もあるように評されるが確かに。実は近くて遠い音楽性ではないだろうか?
ティーナの音楽はとても繊細で、触るとカラカラと小さな音を立てて崩れてしまいそうな気配がある。
声・歌い方は、独特でここは好き嫌いがあるかも知れない。
ビョークよりは、太く丸みを帯びて若干ウィスパーヴォイスとなる。先を急がず音を置いていく感じの歌い方は他に聴くことは出来ない特長。
作品力がまた無視出来ない。比類無き世界を構築している。
本作で好むのは、今のところ冒頭のタイトル曲とラストになるが、おそらく今まで彼女の音楽を聴いた経験から、次第にそれは均されていって淀みなく、綺麗な水面になるかと予想が付く。

秀逸なのは他作にも同じく言えるのだが、レコーディングの際立ったセンス。こういうサウンド、ヴォーカルの前への出し方は国産ではあまり聴かれない。
北欧の音楽レベルの高さ、奥深さを知るところだろうか。
オーディオなんかも造りが良く音がいいものなぁ、、、!スウェーデンは車造りだってなかなか侮れない。お洒落で他とは一線を画す佇まいのシルエットが、、また脱線しました。
でも、この音楽の下地には風土が深く絡んでいると思う。
土の香り、風の温度感を感じる。

僕は、風というのは実は時間と「グル」になっていて、今吹いて頰を撫でた微風は過去から来たものである、、ということを考えることがある。風は自分の忘れた過去を記憶しており、それを未来に向けて届けに来ると、そういうイメージだろうか。

今しがたスティーナを聴いて、久しぶりに風と時間のことを考えたりしたのだけれど、この音楽には、そういう作用があるのかな?とも思う。

そう言えば、それほど多くは出現しないがピアノが使われている。この音、質感も昨今のピアノレコーディングとは向かっている方向が全く異なる。ピアノってどうしても美しくキレイに鳴っているところを切り取りたいという録音姿勢となるが、これは見ている方向・世界が違う。
中学や高校時代、音楽室で聴いた(今でも耳の奥に残っている)音に近い。しかし単に懐かしさや古い質感を狙っただけの音とは少し違う。狙った音、アーティストが望んだのであろうか?そういうイメージした音を、繊細な気持ちを持ったエンジニアがつくりあげたピアノ音に違いないと確信してます。
こうして感想をあれやこれやと述べると、難しい気持ちになると困るのですが、これは読書のお供にも。そして、車で彼女(彼と)二人きりのドライブで威力?を発揮するような気もします。スティーナはあまりインタビューもなく人前にもあまり出ないらしいです。その内向的な感じは作品に良く出ていますが、でもそれはマイナス側にもパワーはあるのだ!ということを語っている気がします。

Civilized Evil / JEAN-LUC PONTY

懐かしさだけではない、JLPの隠れた名作。

でもまあ、やはり懐かしいわけだ(笑)。これは音大時代、狭苦しい4畳半で聴いていた憶えがあります。当時はレコードですから、この不気味で判断の難しいジャケがピアノの上に飾られて存在を強めておりました。CDジャケとなると、むしろ強いクセが抑えられてスッキリ見えるのは不思議です。
この部屋にはアップライトとしては限界までサイズが大きいヤマハのUXを置いて僕の居場所など無いに等しい状況でした。
母が一度上京して来て、まるで土の上に寝ているようだ!と涙ぐんだのは笑うしかなかったですが、実際これまで住んだ中では群を抜いて最低なアパートだったように思う。この20歳前後の自分がこのアルバムに気持ちが行ったのは何かきっかけがあったのだろうか。当時既にバンドはやっていたし、フュージョンに偏っていた時代だから、イメージとしては分からないではないけれど。結構マニアックな選択ではあったと思うし、何となく買ったのではないことは確か。当時知り合っていたギターのTさんや、大学の友人Oさん(どちらも1歳年上だった、僕は年上の方は意外に相性が良いのである、どうしてだろう?)から教えられた可能性が高いか。
さて数十年ぶりにCDとなった本作を聞いてみます。
心を動かされるのが今持ってM3に配置された「FORMS OF LIFE」であることは、やはり変わらない。この作品だけ浮いていると言っても良いかも知れない。ドラム、ベースを排してバイオリンの多重録音+キーボードという構成。自分の基本嗜好が殆ど変わっていないことが確認出来る作品。作曲の側面から多大な影響を受けたことが、こうして改めて聴くと分かってくる。
ジャズ・フュージョンのアルバムとしてはあまり耳にしないタイプの作品がラインに入っていることが、とてもJLPらしいと思う。
バイオリニストであること。
当然だが、これが要素としてとても大きいのだろう。
ジャズでもプログレでもバイオリンは登場頻度が高い。特にヨーロッパではバイオリンの入っているユニットはそれだけで受けが違って来ると昔居たレーベルのMさんに伺ったことがあるが、しかしJLPの演奏の質は他のバイオリニストとは一線を画している。
その後、お付き合いしたバイオリニストの太田さんは、このJLPのバイオリンにはとてもショックを受けていたようだった。その音楽内容というより純粋にバイオリンの技術的なところであることが僕には面白かった。
その、シンセを弾いているかのような音程(ピッチ)の無機質な程の正確性、ただでさえバイオリンには難しい高速アルペジョでも全く破綻しない。
演奏仕事の帰り道、車中で聴かせたところ小声で「こりゃすげーわ!」とか「何コレ?普通こんな風には弾けないんだけど!」とか、ブツブツと呟いているのが僕には可笑しかったのだけれど、本人のショックはひとしおだったのでしょう。確かに、このどちらかというと初期の作品ではあってもそのテクは完成されており、旧作だから割り引いて聴く必要は全くありません。しかし、それは同業者が観る指点です。僕がJLPに惹かれるのは、バイオリンの演奏内容にもありますが、作られる音楽の風合いみたいなものでが感じられるからです。優れた演奏だけを取出すなら、F・ザッパであるとか、マハビシュヌオーケストラとかこれだけの腕前ですので、あちらこちらに顔を出しております。
本作もそうですが、彼の作風は一貫しています。それはもう面白くないほどに一貫している。それは、彼が好む音の所作、ハーモニーの組み立てに「バカボンのパパ」のように”コレでいーのだ!”という流儀があるからです。
それは品格があり、温度感があります。コードプログレッションには微かに少し野暮ったいような独特なセンスが散見されますが、それもまたキャラを形成する不可欠な要素と思われます。もしかすると確信犯的に、それを分かって使っているのかも知れない。
本アルバムは、ハッキリと前半の方が個人的には好みです。M4辺りから、かつてのフュージョンてこうだったよネ!という風合いが強くなり、ラストM8で前半を取り戻して終わるという印象を受けます。聴く側によってどの辺を好むのか、分かれそうです。昔から出演させていただいております某吉祥寺ライブハウスの対バンさんのオリジナルには本アルバムと類似する音楽センスに触れることがあり興味深いです。もしかするとプログレアーティストには隠れJLPファンが多いのかも知れない。
JLPのアルバム全体にキーボードの存在が大きいという気がします。本作も例外ではなく、センスとしては流石に古さを感じますがバイオリンを支えるに十分なサウンド・フレーズを作っていると思います。ピアノよりもエレクトリックを好む音楽ファンにもアピールするかと。懐かしさだけで聴くのではなく、良質なBGMとしてウォーキングのお供に頑張っていただきましょう!

三宅榛名+高橋悠治・Ⅱ 1980年代作品集

万人向きではない!という言い方になるのか?

こういう類の音楽ばかり聴いていた時期というのがあったように思う。先ほどCDを置く棚をボンヤリと見て、これまで自分が買ったCDで特にキャラの強いものを選んで評を書いてみようと思ったのであります。本作は分類としてはクラシック、それも世の中において「わけがわからない」と言われる最右翼の現代音楽、その中でも更に「訳のわからない」ランキングではそこそこ上位に行きそうなタイプということになると思います。
聴き手の基準など在ってないようなものですから、これを「いやぁ、、この人達としてはポップな方じゃない」とさらりと言う音楽ファンも稀にいらっしゃるかも知れません。
三宅榛名高橋悠治もこの国を代表する、と言って差し支えない作曲家・ピアニストと言うことになります。個人的な印象としては三宅榛名の方がより作曲家のバランスが大きいイメージがありますが、あくまでも僕の感じ方です。
実際どちらも大変な技術があることは、広く知られるところです。
ピアノを弾きまくって、とにかく押し倒されたいと言うM気の強いマニアには、支持される可能性はあります。
高橋悠治は、実際に演奏を聴いたことがありますが、音楽のやり方を多く持つ人なので、アルバムもライブも聴いてすぐに判断するのはダメですね。音楽ファンは意外なほど多いですが、評はその活動の多彩な内容とシンクロして賛否両論であることが多いです。僕としては、バッハをシンプルに弾くバッハ弾きの高橋悠治が最も好きです。僕が聴いたライブでは、ローランド社・S50という当時キーボーディストなら皆欲しがったサンプラー(波形をモニターに映すことが出来たところが憧れでした!)を駆使しておりましたが、残念ながら僕にはつまらなかった。当時、期待が凄過ぎた、というところもあるでしょう。
三宅榛名は、この名前が旧海軍の名鑑と言われる高速巡洋戦艦「榛名」と同じネームから惹かれるところがありましたが(一応、言っときますが私は間違いなく平和主義者です、笑)その才能と作品力はもしかすると高橋悠治を超えるところがある!というのが個人的見解です。憶えておられる方はもはや少ないと思うのですが、昔TVドラマで「父母の誤算」という今ではあり得ない問題意識の高いドラマが放映されておりました。役者さんでは確か利重剛が出てましたね。そのタイトルバックを三宅榛名が担当しておりましたが、その音楽が何とも魅力的で、今もってその音楽の影響下にあります。ミニマルミュージックの扱いでしたが、それは誰とも違うもので、次第に音楽がバランスを失い、壊れていく様は、驚くほどのアイデア、奇知を感じたものです。

この二人がピアノデュオでリリースしたわけですから、当時迷わず買ったに違いないです。その割には聴いたのは数回のみです。それはそうでしょう、今聴くとそれはよく分かります。
このアルバムの聴き方は、全てを心より気に入ってリピートするというのは難しいと思います。
本アルバムはどちらかというと後半に行くほど僕の好みに近づくようです。
「ポエム・ハーモニカ」で「おっ面白い、いいじゃん!!」となり「オフェーリアの歌」と「ほほえむ手」は素直に入ってくる。
これは、聴き手によって、違ってくると思います。また同じなのでは何か「変」という気がします。
このアルバムは聴き手のことなど欠片も考えていない。何かドえらい強力な確信を持って鍵盤を押している、という雰囲気が伝わって来ます。掲題の通り、間違いなく万人向きじゃない、でも興味が沸きましたら是非。

IVO NEAME「MOKSHA」

もう少し聴くってことか?例によって。

同業者?であるピアニストのリーダーアルバムというのは、(ピアニストとしては)随分と聴かない方だった。どちらかというと他楽器の方に興味が行ってしまうタイプは少ないながらも居られる!と確信を持っておりますが。僕もその種族ということになります。それでもこれまでにピアニストとして「コレですよねっ!!」というアルバムがなかったわけではありませんゾ。
意外に遠い時代に遡らなければならないけれど。
チックコリアの「妖精」あたりが、はっきりと記憶に残っております。NHK FMの朝の音楽番組(「朝のリズム」ってタイトルだったような気がするけれど、違うかな?)で聴いて「ELP」だと思ってしまったと。あまりに入り込んで学校(当時18歳でしたね、息子より若い自分です。)に遅刻してしまった程のものだった。「妖精」は今聴いても十分に魅力的。チックコリアの中では最もフュージョンプログレと言っても良いか?)に寄った頃の代表作だが、何かしら涼やかな温度感というか空気感がある。さて脱線の調子も絶好調だが、イーヴォ・二アムのアルバムである。この方は、ニュージャズの旗手「フロネシス」のピアニストであることは音楽ファンであればご存知かもしれない。自分にとって、この1年最多の試聴回数を誇る、途轍もないテクニックのピアノトリオだ。ただ、このバンドのリーダーは本作のイーヴォ・二アムではない。ベースのジャスパー・ホイビーであり、また音楽の方向性も彼が握っていることが、本作を聴くことで如実に理解出来る。
このあまりに優れたピアニストのリーダーアルバムは、それ程にフロネシスとは方向性を異にしている。
どちらもジャズ・フュージョンにカテゴライズされるのは当然のことながら、そのサウンドも、作品力も違う。
では、聴く側が望む音楽ということで言えばどうなのだろう?
フロネシスのような何かやり尽くしている感、とにかく行くところまで行っている感を本作に求めるのであればお門違いと思う。
本作は、もっと落ち着いたところで勝負しており、あれほどのヤンチャな音楽ではないように感じる。事前にYoutubeでこの音楽を何度か耳にして好きなタイプ音楽をやっていることは知っていたが、CDを手にして、ようやく手に入れたiPhone(しかも中古、、笑)に流し込んで何度か聴くと次第に評価に変化が現れる。このイーヴォのバンドのやりたい事、他のアルバムはもう少し違った雰囲気があるが、本作に関して言えばこれはもう「ヨーロッパ版・ステップス!」と言い切れる。特にサックスはマイケル・ブレッカーそのものであり、聴いたことのあるフレーズがそのまま、という場面もある。ただブレッカーほどのアウトした感じはなく、もっと音楽に優しく沿った形をとっているように思う。キーボードは殆ど生ピだけで通すフロネシスとは異なり、シンセの多用もあって、随分カラフルな印象を受ける。
本作をフロネシスを知らないで聴くと、評価が高まるという気がする。
現代版ステップスとして、楽しく聴ける作品という着地点というのか。
しかし、僕のように長く深くフロネシスを聴きまくった人には正直に言えば軟弱で物足りないところがある。
もっと尖ったところがあって、ドーンと押し倒して来るような音楽内容が欲しい。そして突き詰めて言うと、それは作品自体、アレンジ自体のことになるのだと思う。ピアノトリオで何の変化球も持たない、とにかく豪速球で押すフロネシスは、先鋭的に刻まれた彫刻のような冷徹な音楽性ながら、ハーモニーと旋律の織り成す世界は紛れもなくイメージ表現の世界であり、繊細な美しさを持っている。その美を形成するためにテクニックの全てを注ぎ込むところが真骨頂と言える。イーヴォの貢献度もまた半端ではない。
しかし、コレが自作となるとフロネシスにパワーを持って行かれているのか、少々物足りなさが残る。
おそらく他メンバーのプレイが比較的穏やか、おとなしいところも影響しているかも知れない。アントン・イーガーや、ジャスパー・ホイビーみたいなリズム隊なら、とも思うのだけれど、それではフロネシスになってしまうから(笑)ここは難しいところだ。
描かれているラインや、シンセの音使いが面白いところがあるし、他のアルバムを聴いてみると、印象が違うところもあるので評価は決まって来ない。僕もそうだが、大体のこの手の鍵盤は、試行錯誤が激しく蛇行を繰り返す。ある側面だけを捉えての判断は避けたいところだ。
、、、、と言いつつフロネシスの新しい作品を待ち望む自分がここにおります!

                                    (修正・加筆・2020.3.15)

宣伝部長というからには、Voice hardcore/Phew

あちゃー!!これはなんというか、、絶句、、、笑

凄いというのなら、コレほど凄いアルバムもないだろうと思いますね。彼女のリリースしたアルバムは音楽内容からイメージすると意外に多いような気がします。他のアーティストとのコラボなども入れると結構な数。こういう特異な(良い意味です!)音楽の割には順調に多作と言えるのかな?と個人的にはそういう受け止め方です。
冒頭の「くもった日」を初めて耳にした時、少々体調が悪く、そこにコレを聴いたものですから、恐竜の胡桃大の脳がかき回されてしまいました。しかし、自称・宣伝部長を名乗るわけですから根性を入れて聴き続けるわけです。「音楽」と「根性」というのはどうも芳しくない相性のような気もするのですが。とは言えです、音楽は繰り返し聴くことによって、隠れていた魅力が表出するわけです。聴き手といっても少しは我慢というのか、少し違った言葉で柔軟性ですかね、、こういうものが必要かも知れない。そういうことで、この「くもった日」を数回聴いてみましたが、どうにも不思議なハーモニーです。何かグレゴリア聖歌のようなところもあるし、暗く陰鬱ですが、メジャーコードが聴こえてくるような妙なところがあります。声を重ねているのが短二度、否!長七度の方が正しいか。つまりはメジャー7thに聴こえるのかしら?などと、音楽内容とは全く離れた理論的な聴き方をしてしまう自分がおります。また最初の不気味に立ち上がるところで、実家の釜石市鵜住居地区(先だってラグビーW杯の試合が、ここでも行われました。)の山火事をふと思い出しました。当時、喫煙がそれほどうるさくなかった理由もあるのか、春先になると度々山火事があったのですね。そんな時、実家の前を次々に大小の消防車が通るわけです。古いタイプですとサイレンが何と手回しなのですね(笑)消防士さんがグルグルとサイレンに付いているレバーを回しながら、鳴らすのですが、疲れてくるのか、どうにも調子が上がっていかない。まるで「南州太郎の漫談」みたいなアレと言えば伝わりますでしょうか?(Youtubeで確認してください。ハマると腹が割れそうになるくらいに笑えます。)それがスティーブン・キングの世界にも通じるようなある種独特な世界を醸し出しておりました。あれ?何処でスティーブン・キングと南州太郎が結び付いたんだ?

とにかく、少なくともそのサイレンのサウンドに自分は魅力を感じていたのかも知れない。不気味だが、何というか生あったかい仄暗さというのか。そのサイレンの音が、この1曲目とオーバーラップするのです。やれやれ、一発目から大変な気持ちになるのです。しかし、2曲目でホッと安心することは出来ないわけで、そりゃユーミンとは違うわけだから。「顔だけ知っている人」、何だろ?このタイトル。普通であるような、普通過ぎて極めて異常であるような。聴くとこれまたインパクトの針が振り切れてどっかに飛んで行ったような曲でありまして、言葉とヴォーカルサウンドの織りなす暗さは、あの一時流行りました鈴木光司「リング」にも通じるようなところがあり、何だか蟻地獄の如く奈落の底に自分が落ちていくような錯覚を覚えるようです。もちろんその着底したゴールには、Phewが演奏し、歌っているステージが待っているのでしょう。このアルバムが比較的落ち着きを見せるのは3曲目「いい天気でした」辺りからです。ここから比較的音楽内容にテクニカルな方向を織り交ぜつつ、例によって意志強固に独自路線という名のレールを駆け抜ける。何かの記事で、体調を崩したことをきっかけにヴォイス作品の試みに至ったことを目にしておりましたが、体調を崩したということから、もっと柔らかなある意味「Phewによるヒーリングミュージック」みたいなものを予測していた軟弱な自分がおりました。しかし、それは甘かった。そのお身体は心配ですし、ご自愛のほど、、と願うのですが、この音楽はこれまでのどの作品よりも毒性が強く、聴き手を選ぶところもありそうです。しかし、Phew党であれば迷わず聴いて"蟻地獄"へと向かうべきです。小さな音で敢えて部屋の片隅にスピーカを置いて音を出すと、それなりに面白い環境音楽になる気もしますが、これは失言かも。いやいや失言じゃないか。音楽をどのように作ろうがそれは音楽家の自由であるのと同じくして、どのように聴こうとそれは聴き手の自由。こうした概念というものを軽く超えた個の音楽がこんな国に在ることが信じられない。聴く人もまた自由に楽しめば良いのです。それにしても、Phewはこれから何処に向かうのでしょう。健康にご留意して音楽の海を楽しく泳いでいただきたいと心より願います。(2019.12.1 早くも加筆修正)

PHRONESIS・Waiking Dark まだ続いている!

本作は4枚目となる。既に8枚のリリースとは驚きです!

4枚くらいのアルバムリリースと勝手にイメージしておりましたが、本作が4作目であり、このバンドとしては丁度折り返し地点に位置するのか!と少々意外に感じております。最新作を先に聴いて、逆に中間点に戻って聴いたのは変則的とも言えますが、まあビートルズなんかもそうだった。Let It Beが僕にとって初めてのビートルズだったから。ということで、普通に考えればこちらが洗練度や、演奏内容から物足りなかったり、差異を感じるのは否めないだろう、との推測でありましたが、これもまた良い意味で裏切られました。これはアプローチが大分異なっており、平たく言ってしまえば本作の方がよりジャズ・フュージョン方向かと思います。フュージョンと言うと誤解を受けそうな気もするわけですが、しっかりと硬派なサウンド、相変わらずの手数、音数過多な音の壁でドーンと押し倒されます。ジャズ方向というのは、最新作が作曲力というのか、作品の色合いで聴かせるところが強いのに対して、こちらは演奏そのものでストレートに勝負しているところから、そのように感じるのだと個人的に解釈しております。
構成もわかりやすくソロパートもこちらの方がより長い尺を取っているように感じられ、緊張感のあるものとなります。よって、このバンドにジャズを望むのであれば本作の方がオススメかも知れません。もしくは1stアルバムから順を追って聴くのが良いようにも思います。僕の場合、もはや手遅れではありますが(笑)
メンバーは不動で、初期の頃とドラマーが代わった以外は同じ布陣です。ドラマーのアントン・イーガーの際立ったキャラがこのバンドの演奏イメージを決定している印象を持っておりますが、この押し付けがましく?若干エグいドラムは好き嫌いがありそうなので、ここで一枚踏み絵が入るか?というところです。
最新作「We Are All」ではドラムの質感がどこか燻んだ印象があって、気になったのですが本作では悪くないです。タムからフロアタムにかけての音の出方も良いように思います。
僕がこのバンドを気に入る最たる理由はピアノにあります。このピアノの音の出し方、描くラインにとても共感を持つのです。
イーヴォ・ニーブ(ネアムという人もいる。)は最新アルバムでも紹介した通り、クラシック一・近現代音楽からジャズまで圧倒的なスキルを持っておりバンドに対する貢献度はとても高いです。根底にビル・エヴァンスが在るのは一聴して明らかですが、しっかりと咀嚼した上で取込み自分の音楽として創出しているのが分かります。全体を通すと最新作のような気になるところはなく、普通に演奏を楽しめる良作です。最新作でき気になるのは、変拍子の使い方です。これが、別に変拍子でなく普通の3拍子、4拍子でOKな部分でも無理に変拍子にしている気がします。4作目では、そうした否定的な部分は感じられず、そういうところで言えば本作の方が"好感度"は高いです。作品力としては少し前までは流石に最新作の方か?と思っておりましたが、何度も聴いていくと本作の方が曲のセンス(旋律・リズム・ハーモニー)で上回るというのが個人的な感想です。
こうして、相当な回数を聴いてまいりますと、どうしても評が細かく辛くなってしまう。このバンド、こちらを熱くさせる何かがあるのでしょう。この世に在って良かったと実感するバンドのひとつです。〈加筆修正:2019.12.27〉

 

DUST・Ben Monder「最近ギターはコレ一択!」

自分としては、相当なお気に入りらしい!!

ベン・モンダーはニューヨークのギタリスト。キャッチフレーズは「高速アルペジョ」高速をたまに「光速」と書く人もいるがイメージとしてはこちらも近いかところがある。ベン・モンダーの前はヤコブブロというECMのギタリスト一択だったが、傑作「Amorpher」に触れてからは徐々にこちらに傾倒してしまった。どちらも浮游したところがあって、キャラは共通している部分もあるが、BM(面倒なので略称)の方が、カッチリとしている。旋律のラインを気にするのであれば、ヤコブブロの方がより分かりやすいかも知れない。しかし、何度も聴いていくと音使いの深さ、考え抜かれたハーモニーではこちらに軍配が上がるか。それほどに、このギタリストの構築する音楽は緻密で、他にはない独特な世界観があるように思う。音楽はイメージ表現の一つのツールであるけれど、それを具現化しているアーティストは多くはない。
例えば、ピアニストのブラッド・メルドー
彼は時折ビートルズのカバーを取り入れる。僕が昨日聴いていたアルバムには、ビートルズの、紛れも無い傑作の一枚であろう「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandから「she's leaving home」にアプローチしている。この曲を「地味な作品」とかこの「アルバムの中では箸休め」とするコメントもあるけれど、バカ言っちゃいけない!(怒)「もっとしっかり聴いてくださいな!」という事になる。マエストロ・レナード・バーンスティンが「バッハのフーガに匹敵する美しさ」と驚いたように、ビートルズの中にあっても際立った美しさを持つ作品と思います。

聴いていくと、ハーモニーの組み立て・音の使い方に首を傾げるシーンがあります。これはオリジナルの美しさを損ねているように個人的には感じられます。演奏が拙くても、オリジナルの通りのコード進行を素朴に演奏した方がどれだけよかったか?と。演奏家は自分のテクニックのことから、あまりに専門的となり、時に傲慢なアプローチをすることがある。自戒を込めて思うのだけれど、謙虚に自分の出している音に耳を傾けることが、とても大切。BMがビートルズのカバーをやるというのは、あまり考えられない。が、もし弾くことになれば「武満徹のギター曲・Yesterday(ビートルズ)」くらいの深い追込みを行うに違いない。武満渾身のこの作品だって、鬼聴きすれば微かに?なところがあるのだ。本作は彼としては旧作になるが、現在進行形の音楽、新作と言われても全く不自然ではない。演奏はシンプルで「Amorpher」のようなシンセを取り入れて凝ったサウンドを作り上げた作風とは全く異なる。あちらの神々しい表現センスも凄いが、本作のスペースが空いて、カラカラとしたサウンドもまたとても魅力的に感じる。というかBMの本当のギタリストとしての魅力ということであれば、本作の方になるか。

演奏のポイントとしては、ドラムのアプローチ、リズムセンスとダイナミクスの角度の付け方が秀逸であり、このアルバムは「このリズムあってこそ」という気がする。ベースの存在が足りていないのが唯一弱点かも知れない。個人的な好みとして、フロネシスジャズパー・ホイビーまで行かなくてももっとバチーン、と切れ込むような鋭さ、フレーズの強さが欲しい。ギターがあれだけ面倒で緻密なことで音を埋めているのでアプローチが大変なことは分かるけれど。MBの一つの課題として(という言い方も生意気ではありますが)ベースをユニットに入れる以上、存在の強さ、もっと大きな必然性を感じさせる方向付けがあって良いと思います。とても自我の強そうなアーティストさんなので、サウンドとしてギターの近い位置にいるベースにギターで構築している世界を阻害されたくない、、と言う気持ちがあるのかも。

早速愛用のiPodに音を流し込み、夕暮れ時駅前の西友にバナナとコーヒーを買いに行ったのだけれど、それは映画の中を歩いているような気持ちの良いウォーキングとなりました。本作はまだまだ聴く回数が足りていないので、今年の試聴回数"ダントツ1位"に輝いている「フロネシス」(別ページに評があります。)を抜けるかどうか?興味深いところです。聴き所満載のアルバムなので、間違いなく加筆修正するでしょう。BMの場合は聴く度に新しい発見があり、どうしても文章を見直す必要が出て来るわけです。元々が拙文なわけで、多くの修正を施しつつ情報を追加していくわけです。言い訳がましいところですが、暖かな目で見守っていただければ助かります。(加筆修正・2019.10.19)

児玉桃「鏡の谷」トッパンホールで聴いた記憶が、、。

宇宙人ピアニスト(褒め言葉)の本領はメシアンで発揮される!

2005年秋。その前年12月の成人病検診で派手に引っかかり、尿管結石の検査と大腸内視鏡検査をほぼ同時に行って一応命が繋がって(大袈裟!)スッキリしたタイミング。そういうことも関係していたのか、児玉桃さんのコンサートのショックは特別なものでした。当時、メシアンの「幼子二十の眼差し」を生で聴けるというのは僕にとって、ちょっとしたお祭りみたいなもの。そもそも現代音楽においてはハッキリとメシアンが好き!!という自分にとって、作品から言っても、ピアニストから言っても、迷わずアプローチしなければならない、プログラムでした。実際、その演奏を聴いて半年程はボーッとしていたものです。何が凄いのか、分からないがとにかく凄いものを聴いたことは確か、みたいな感じでしょうか。当時、バンド活動を再開しており自分の作品に対するコンプレックス、どのような内容に盛り込んでいくのか?というあまりに素人な悩みを、この演奏は前向きなものに変えてくれたと思っています。バンドはベースレスギタートリオ(ドラム・ピアノ・ギター)でしたが、このバンドを全く歯の立たない同じ編成のユニットとどのように対峙させるか?という難題に、このメシアンの作品の中に回答があったように感じたわけです。しかし、その結果として生まれた僕のオリジナルはその反映がどこにも感じられない、実に稚拙な駄作でした。その後何度も何度も手を加えて、修正して、切り取って、また付け足して、この作品をライブで聴き手の耳に委ねてみるまでは持って行きました。それでも今もってその作品は完成には程遠いレベルです。メシアンはどのように作品を完成させて行くのでしょうか?幾ら何でも見切り発車して、迷惑ピアニストとして名を馳せる僕とは対極に在るに違いない。しかし本作(ようやく評に入った、、笑)の「ニワムシクイ」を聴くと、これをモーツァルトのように一筆書でさらさらと作曲したとは到底考えられない。しかしまた、蛇行して「筆が遅い」という感じのイメージでもない。僕は「鳥のカタログ」、そして作品の規模から別バージョンとして存在している本アルバム収録「ニワムシクイ」も一時、かなり突っ込んで聴いた記憶があります。でも、敢えて児玉桃さんという痩身長身で宇宙人のような(何度も言うけれど美しい!という意味です。バルタン星人や三面怪人ダダ、を想像しないように、、笑)手にかかると、そしてそれをECMという今最も聴くことの多いレーベルの録音となると、躊躇の多い僕としては珍しくマッハのスピードで手に入れてみました。このアルバムの特長は、他にラヴェル「鏡」武満徹の「雨の素描」が収録されております。ありそうで、実はなかなか見かけない?という作品構成ですが、自然な感じ。キレイに流れるECMらしいプロデュースです。このレーベルの例に漏れず透明感のある見通しの良いサウンドで、何時でも何処でも聴いて気持ちが良く、聴き疲れしないところが本作の美点です。
全体を聴くと、やはりと言うべきか、圧倒的にメシアンの演奏が際立っています。これまで近現代になると演奏家のキャラが薄まって、作品力が全体を覆ってしまう印象がどうしても否めなかった。しかし、このニワムシクイを聴くと「メシアンは児玉桃さんで」という想いが強まります。このようにハーモニーとリズムが魅力的に描き出される弾き様は耳にしたことがない。おそらくメシアンはこのピアニストの手の内にある!ということなのでしょう。作品の深い理解は演奏家にとって最も大切なところです。"しょぼい理解"では、作曲家が伝えたい魅力を引き出すことが出来ない。その点、このメシアンは究極的なものと思います。
一方ラヴェル武満徹は、メシアンまでは行っていない感じ。決して悪くはないのですが。これだけ弾けるピアニストでコレですから。クラシック音楽から近現代音楽を演奏するソリストの抱える難しいところを垣間みます。特にラヴェルとなると、例えばイリーナ・メジューエワのように、驚くべき間の取り方、新しい解釈により、聴き手を圧倒するピアニストがようやく現れました。これまで数多くの名ピアニストがおりましたが、彼女はどう見ても多くのピアニストが重ねて来た既成の演奏とは違う異質なところがあります。それは古典派、ロマン派、近現代という枠は関係ありません。ピアニストとしてのアプローチに起点があるというのか。児玉桃さんもベートーベンからリストまで弾かれることと思います。まだまだ若手ですので、これからメシアン以外の作品であっても児玉桃さんの演奏と聴いて分かるようなキャラを確立して欲しいと思います。容姿・テクニックは十分、きっと近い将来、手が届くことでしょう。